4、ベルメルト家の招待 2
リーティアは仮面越しに、一人の男性を目の色を輝かせて見つめていた。
辺鄙な領地を与えられたベルメルト伯爵家。豪華とは言いがたいが質素でもない夜会の会場。父の実家でもあるから参加していた。実家でなければ、参加をしたいとも思わない。
若い男女はいても、爵位が子爵か男爵ばかりが多く、リーティアは結婚相手を探す気にもなれない。
適当に男性とダンスとその場限りに楽しんで、終わるのだと諦めていた。
そんな夜会で、心を寄せている人を見つけてしまった。
仮面をつけていても、長年身につけた所作と気品はそう簡単に拭えるものでない。
歩く姿。
すっと立つ上背のある後ろ姿。
濃い上着を上品に着こなす姿。
仮面をしていても、隠しきれない気品。
仮面の奥に隠された鳶色の瞳。
シャンデリアの光を浴びて光り輝く銀色の髪。
タイタリア侯爵家、ハロルド様。
(ああ、運はわたくしを裏切らなかったのね!)
ハロルドが出席する会にリーティアは出られない。一緒に出る会はとても限られている。
彼を堪能できる唯一が、王家が開催する舞踏会。
社交の始まりと、終わりを告げるもの。
ベルメルト家の夜会と比べ物にならない会場の広さを誇り、豪華絢爛。
全ての爵位を持つ貴族が一塊にして集まる舞踏会は参加してきたどんなものよりも他と比べられないほどに群を抜いていた。
出る料理。演奏する楽団。使われている食器に調度品。あらゆるものが、リーティアにとって憧れてしまう対象だった。
そんな場で、リーティアは美しい青年に一目で恋に落ちた。
白銀の髪。薄い唇。細面の顔。背は高く、ガッチリした体躯の人はあまり好みじゃないので騎士は論外。
瞳は優しく、言葉は丁寧。誰に対しても紳士的な素敵な人。
財力があればなおいい。
その理想に叶うのは、ただ一人。
ハロルド・タイタリア。
父は縁を繋げていこうと必死になっているが、リーティアはハロルドに見惚れていた。
王家の舞踏会で、格下のものが格上の爵位ある人に、そう容易く声はかけられない。
子爵家であるリーティアが侯爵家であるハロルドが出席する会に招待される縁はないので、直接同じ会場内で一方的に見つめている。
友人達は婚約者と楽しんでいる中、リーティアはただ、ハロルドから目を離すことなく見つめていた。
ダンスを一緒に踊る女性には、嫉妬を込めて睨んだ。彼に手を取ってもらうだけでもリーティアにはしてもらえない。リーティアには、ハロルドと共通の友人がいない。
一代限りの爵位とはいえ、子爵家。
侯爵家は、リーティアからすると、遥か雲の彼方の人。
彼と知り合いになれるならと、彼と知り合いの男性を毎回探しているのだが、依然としてハロルドと関係がある男性と巡り会えていない。
リーティアは毎回悔し涙をのんでいた。
何度、自身の爵位の低さを憎み、恨んだことだろう。
そんな人が、ベルメルト家の夜会にいる。
今夜は仮面がある。少しの無礼は許される。
近くに、手が届く距離に、心から慕う相手がいる。夢のようで、瞬きをした瞬間に消えてしまいそうで。夢をみているようで、怖い。
(ハロルド様……。どうかわたくしの方をみて!)
リーティアは小さく心で強く叫んだ。
夢じゃないと確信したかった。
ここに、すぐ近くに、ハロルドを会場の中で誰よりも恋うリーティアがいると、気づいてほしい。
誰よりも、彼を慕っていると自負するリーティアに微笑んでほしくてたまらない。
リーティアはとても信じられない噂を耳にした。
ハロルドが婚約をしたという。婚約者の名とともに、社交界をまたたくまに駆け巡った。
その幸運を掴みとった令嬢は、ティアン・フレデリー。
リーティアの従兄妹。
母の兄の娘。
彼女は一週間前に、婚約目前だと噂になったばかりの別の男性がいた。二人が共にいる場面を、リーティアは幾度か目撃していた。
侯爵家が出る夜会とリーティアが出る夜会はとても数少ない。従兄妹ティアンが出る夜会にも。
そんな中、偶然、リーティアはティアンの隣にいる男の姿をみた。
相手の名前はレオン・ラデリート。
現ラデリート侯爵の長男。跡取り息子。
リーティアはこの男に全く興味はなかった。
財力、地位はある。
リーティアを満足させる力はあるのだろう。
しかし、彼は騎士だった。最も好まない、騎士。
外見がよくても、リーティアは彼が隠す紳士然としていない性格を見抜いていた。
表面は相手を想う優しさ溢れる青年をみせているが、違う性格が内面に潜んでいると気づいていた。
ひどく束縛意識が強く極悪な内面をもつ彼と結婚して、幸せになれるはずがない。
リーティアがレオンの内面に気がついたのは、以前、何度かこの男と話をしたことがあったからだった。
ティアンとの噂が囁かれる前。
ベルメルト伯爵家の次女がレオンと噂になった。
しかし、伯爵家の娘との噂など、簡単に立ち消えてしまい、もう次女とレオンの噂をするものは誰もいない。
レオンとの噂が消えた頃、次女は三十をこえた美丈夫に嫁いだ。妻が先立ち、子もいる後妻におさまったのだ。十以上も歳が離れた後妻に幸せなんてない。
彼女は今夜出席していない。見せられるような幸せな家庭を作れていないのだろう。
次女との真実味のない噂と違い、従兄妹とレオンの噂は現実味を帯びていた。
ティアンを恭しくリードするレオンの姿に、ティアンが頬を染めて従う姿に、誰もが婚約が秒読みだという噂が真実だと感じた。
ダンスに、話をする姿は初々しい恋人のようで。
間違いない。ティアンは彼と婚約する。
そう確信した瞬間、歓喜した。
レオンと結婚すれば、彼の性格からして、きっとひどく心が寂れた結婚生活になるのだろう。幸せなんてない。
母にした、フレデリー家の仕打ちを考えれば、ティアンに不幸が降り掛かるのは当然だ。
ハロルドの女性を虜にする見た目に憧れる令嬢は多い。
ライアンの友人であることは誰もが知っていた。
必然的に妹であるティアンとも親しいのだろう。
そんな女が先にレオンと婚約をすれば、彼と仲の良いとされる令嬢はいなくなる。リーティアが知っている限りは誰もいない。
ティアンにはそのまま、噂通りに早く婚約をしてくれていたらよかったのだ。
しかし、リーティアの期待を裏切るようにティアンが婚約をしたのはハロルドだった。
リーティアの理想で憧れで心から慕い、結婚したい人。
悔しくて仕方がなかった。
リーティアでは手が届かない人を、横からあっさりとさらって婚約者の座についた。
レオンがいるのに。レオンと婚約は間近のはずなのに。噂までされるほどに、仲は親しいというのに。
流れている噂は違うのか。嘘なんて、噂にならない。真実だから、こんなにも噂になるのだ。
許せない。
許せるはずがない。
リーティアの願望が叶うかもしれないと期待を持たせて、一瞬にして打ち砕いた、ティアン。
出会う機会を伺っているリーティアを押し退けて。レオンとの仲の良い姿を見せておいて、ティアンはあっさりとハロルドと婚約をした。
リーティアは睨むように、従姉妹をみつめる。
隣にいる女性の仮面は紫。蝶をモチーフにされた仮面。ハロルドが柔らかく微笑む。
ハロルドが女性の腰を引き寄せる。
誰かなんて、すぐにわかってしまう。
ハニーブロンドの髪を複雑に結い上げて、おろした髪を一方の肩へ流している。
いくら身分がわからないようにしていると言っても、髪の色までは変えられない。
髪に付けられたアクセサリーはシャンデリアの光を弾いて、
薄紫の仮面に隠された瞳はアイスブルー。
白い肌を晒して、深紅のドレスに身を包み、白いレース手袋。
腰を引き寄せられて、令嬢が少し俯く。
ハロルドが彼女を囲って、さらに何かを囁いた。
令嬢――ティアンは扇を広げて、鼻から下を隠してハロルドを睨んでいた。
あの場所はいずれリーティアがいるはずだった所だ。
憎き、従姉妹がいていい場所じゃない。
リーティアが欲しいものも、居場所も簡単に横から奪い取って手にする泥棒のような女。
母はなぜか彼女を好いている。
ティアンだけでなく、兄のライアンも。
リーティアにはまったく理解できない。
母を追い出したフレデリー家。その家を継ぐ子どもたち。彼らを好く理由はリーティアにはちっとも理解できない。
二人の姿を目の当たりにして、嫉妬なんて言葉じゃ到底足りない、どす黒いものが胸に生まれた。
リーティアがハロルドと話せる機会は今夜しかない。
一人の男性が会場内に入場した。
夜会は既に始まっている。
顔を全面、仮面で覆う男性。
くり抜かれた目の窪みの奥にみえるのは、暗い茶色だ。
あたりを伺い、ティアンとハロルドをみつけた。
じっとみるその姿。彼の髪は波打つ茶色をしていた。
身分がわかるものは今夜はできない。
しかし、リーティアはすぐに分かった。
彼が誰かを。
レオン・ラデリート。
気まぐれに、ベルメルト家の夜会に出席する侯爵家跡取り。
リーティアは知っていた。
ほとんど夜会を欠席するレオン・ラデリートが、今回は珍しく出席するということ。
きっと、噂となった相手、ティアンが婚約者と参加する夜会だと知っているからだ。
リーティアの思い違いでなければ、レオンはティアンを好いている。
ティアンが彼の手を取らないで、別の男のものになったことを、心から怒っていることだろう。
レオンは、会場入りしてすぐ、壁際によると、辺りを見回している。
誰かを探している。
主催者はわかりやすい。派手な仮面をしている。
そうでなければ。
レオンの目が止まる。その向かう先は……。
リーティアは内心ほくそ笑んだ。
リーティアの思い違いなどではない。
仮面があるだけで、相手がわからなくなる。相手が誰かも詮索しないことが仮面をして参加するルール。
レオンが仮面をつけたこの夜会に参加する意味はそれしかない。
リーティアはシャンパンを一気に煽った。
ハロルドを婚約者とするには、既成事実が必要だった。
そう昔の、母のように。
簡単に作れるものではない。
ただ、母の
母のようになりたくなかった。
ベルメルト家の次女のようにもなりたくなかった。
一代しかない爵位をうまく使わなければ、リーティアの将来は安泰でもない。
爵位はいつか返上しなくてはならなくなる。
その前に、貴族へ媚びなければならない。
愛など全く感じない人の元に嫁ぎたくもない。
リーティアはただ、ハロルドと夫婦となることだけが、自分が安泰に暮らせる唯一のことと信じて疑っていない。
ハロルドとなにもなくてもいい。
事実がただそこにあれば、もう彼の生涯はリーティアのもの。
ただ、彼と永遠に共に居られるように、こちらから行動すれば良い。
幸運なことに今夜は仮面をつけた夜会。
ベルメルト家にしては何年振りかとなる仮面の夜会。
仮面は人の爵位を隠してくれる。少しの無礼は無礼講。
あまりに目に余るようなことさえしなければ、多少は許される。
――こんな好機を逃さない手はない。
リーティアは侍女が施した化粧をすこし後悔した。
いつもの夜会に仮面があるだけと、気合はそんなに入れていなかった。
ハロルドが出席すると事前に知っていたらもっと、ドレスにも、化粧にも、アクセサリーにも、最大限に気を使い、仮面があっても最も美しく魅せられるようにしてきたのに。悔やまれる。
ハロルドが、話をしていた男性と離れていく。会話が終わったらしい。
リーティアは近くの給仕に空いたグラスを急ぎ渡した。
ようやく。
長く、長く。待っていた。
この時を!
リーティアが意を決して一歩を踏み出したとき。
話が終わったハロルドは少し屈んで、今度は隣のティアンへ再び顔を近づける。
彼はティアンへ柔和に微笑む。
仮面をつけていてもリーティアにはわかる。
とろけそうな甘く熱い瞳は、恋をする人に向けられたもの。
そんな瞳、一度もリーティアは向けられたことなんてない。二人の世界に入る二人に当てられてはたまらないと、彼らの周りから人が遠ざかっていく。
二人は周りの空気など意も解さない。目を逸らしたくなる仲良しぶり。
その瞬間、リーティアの中に、強い怒りと、嫉妬が再び生まれた。
いまだ、ハロルドはティアンを離そうとしないで、隣にいさせている。
彼がティアンから離れた時が、リーティアの好機。なかなか掴めない。
ぎりり。
奥歯を噛み締める。
リーティアが狙った男性はいつも、あの
きっとハニーブロンドの綺麗な髪色に惹かれているに違いない。
リーティアの髪は、ティアンのように美しくない。
新緑のような柔らかな緑色のまっすぐ伸びる髪。深い青の瞳。ティアンに劣っているとは思わないが、背の高さが際立つリーティアには、男性と並び立つとどうしても、身長差ができず同じになってしまう時がある。
外見をいくら可愛らしくしても、伸びた背はどうすることもできない。
(一人ぐらい、わたくしにくれたって、いいでしょ?)
リーティアは酷薄に笑む。
婚約者であり、リーティアよりも何もかもを持っている従兄妹から、大切なものを奪いたくて仕方がない。この悦びは何にも変え難いのだ。
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