3、突然の訪問と贈り物 5
「――お嬢様」
サリマはティアンの両手を優しく包み込んでくれた。不安と緊張で白くなっていた手にじんわりと熱が移ってきて、温かくなってくる。
普段はつんとすまして、ティアンを諭すこともあるサリマだけれど、ティアンの気持ちを案じてくれる。その目はティアンの心と同じように、不安に揺れていた。
夜会の出来事はあまり話していない。幼少からティアンの侍女をしているだけあり、ティアンに起きたことを、機微を察してしまう。
「ありがとう。サリマ」
サリマの両手を握り返し、緊張と恐怖と、不安、すべてを隠す笑顔を顔に貼り付けて、サロンへ向かった。
サロンへ入ると、穏やかな表情をしたレオンが両親の前で座っていた。使用人を怒鳴りつけるような人に見えない、見事な演技っぷりの良さ。あの日、休憩室の扉越しに聞いた怒声は空耳だったのだろうかと思えてしまうくらい、猫を被った紳士さに、初動が遅れてしまう。
「お待たせしてしまい申し訳ありませんわ。……レオン様」
慌てて来客へ謝罪と挨拶をした。
「ティアン嬢。ああ、待っていましたよ」
部屋を出てからも、サロンへ行きたくなくて、進むにつれて重くなっていく足を何とか動かしてきた。
相当待たせているはずが、レオンは待つ時間を長く感じていない堂々たる所作で、ティアンの手を取った。
素早く手の甲を持ち上げると手の甲に唇が触れるだけの挨拶をした。
そのまま、流れるようにレオンが座るソファへと
レオンの席へ行きたくない。
強い手を振り解くに、ティアンの貧弱な力ではできなくて。
「ティアン。あなたはこちらよ」
レオンにうながされていくままの娘を母が救った。
「は、はい! お母様」
振り解けなかった手は、あっさりと解かれて。
これ幸いと、レオンから逃れて両親の元へと急ぐ。
ゆったりとした二人がけソファは、体格の細い母と普通の体格の父。両親の間に挟まれて座ると、少し窮屈に感じる。ここにいれば何も心配ないという絶対的な安心感がある。
「ティアン嬢。あなたと話す時間を作っていただいて感謝しますよ」
紳士的な笑顔を浮かべ、レオンはティアンだけを真っ直ぐに見つめてきた。恋する人を見つめているようなその瞳は、本性を知らなければ好感をもてた。
しかし、内に秘めた怒りを表した茶色の瞳は、何を考えているのかわからない。
「レオン様。大変申し訳ありませんが手短にお願いいたします。このあと、約束が……ありますの」
ハロルドがいつ屋敷へ来ても、レオンが不信に感じてしまわないように、前置きをした。ここで、頬を染める芸当ができれば、誰と約束しているのか、知らせることもできたのだろうが、今のティアンにはそんなことできない。
ただ、早くレオンに帰って欲しい。長く屋敷に滞在して欲しくない。
「そうでしたか。こちらも、前触れなく突然お伺いしてしまい、申し訳ありません。無理に時間を作っていただき感謝しますよ」
驚きをみせながら、彼は一度頭を下げ、物腰柔らかく承知する。
この笑顔にティアンは騙された。恐ろしくて、無意識に母へ身を寄せる。
約束を取り付けることもなく、突然屋敷を訪れることは礼儀に反する。どれだけ謝っても、許されるのは血のつながりのある親戚か、長く付き合いのある気心知れた人くらいのものだ。
現に父は笑顔こそ絶やしていないが、礼儀のなっていないレオンを侮蔑している。当の本人は全く気がついていない。
「レオン様、娘も来ましたので、どのような用が娘にあるのか、話してくださいますかな?」
「ああ、そうでした。――実は、先日我が屋敷で開催した夜会で……、大変彼女に不快な思いをさせてしまったことへ謝罪をしたくてお伺いしたのです」
「それは、どういうことでしょうか?」
侯爵家の令息相手に、父は眉一つ動かすことなく先を促した。
「僕の思いと彼女の思いの行き違いから、僕は彼女に嫌われてしまいました」
大仰に嘆いているが、どう贔屓目にみても芝居がかっている。本心からそう思っているようにまったくみえない。
「こちらが一方的に悪くても、社交界では、上位の貴族の謝罪は御法度とされています。ですので、非公式の場であれば、社交は関係ありませんから、本日は通達もしないでまいったのです」
ちょっと彼の言っていることが理解できない。
三人は三様に首を傾げた。
公式の場であろうと、非公式の場であろうと、侯爵家が格下の伯爵家へ頭を下げることはよしとされていない。
どんなに侯爵家が悪いことだしても、目立つ謝罪はしない。それ以外のことで暗に謝罪へと変えていく。例えば、良質な品物の贈呈や、事業の全面的な援助等である。
ティアンがライアンとハロルドへ助けを求めた日の出来事は両親ともに知っている。
ライアンだけでなく、ハロルドからも事実を聞いている両親は、この時点で下がりに下がりきってしまっている。レオンは両親の最も屋敷へ上げたくない人物リストの最上位に名を連ねていた。
それでもやむなく屋敷へ上げ、サロンで相手までしているのは、愁傷な態度で玄関に居座り続けられて、困り果てた末の温情だと、レオンは知らない。
「あの時は、本当にどうかしていました。お二人の大切なご令嬢に不愉快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありません」
深々と下げられる頭に、この場にいる皆が目を見張った。
格上が格下の屋敷へ来ることは一切しない。誰であってもしないのだ。
ティアンだけでなく両親もレオンの愁傷な態度に戸惑う。
そんなとき、父へ執事長が近づいた。
「ハロルド様のご訪問です。いかがされますか?」
執事長は、小声で来客を伝えてきた。小声であるものの、レオンに聞こえるように。
レオンは頭を下げたままに眉を動かしこそすれど、何も言わなかった。
「レオン殿、申し訳ない。娘が約束をした方が来られたようです」
レオンが下げた頭をわずかに上げる。
その目は穏やかこそすれ、目の奥に宿るモノは穏やかとほど遠い。
「お約束、ですか? 先程おっしゃっていましたね。その方でしょうか?」
レオンは話の途中で突如中断され機嫌を悪くした。約束もなく来ておいて、居座る気でいるらしい。
テーブルに置かれた、少し冷めてしまった紅茶を一口飲んでソーサーに戻す。
「そう、ですわ」
声が震えそうになった。母に縋りながら、なんとか耐える。
レオンはサロンを出て行くような気配は微塵も感じられなかった。サロンに居座るつもりらしい。
「こちらへお通ししても、宜しいでしょうか?」
本来なら、来客を待たせ、レオンの用が終わった後で、サロンへ通すが、それをしないで、来客をサロンへ通すということの意味を、レオンが知らないわけがない。
「僕が、あなたと約束をした相手と会う必要はないでしょう。待っていてもらってください。僕の用件はまだすませていません」
目の前の侯爵家相手に無礼な父に、レオンは怒りをあらわにきっぱりと断ってしまう。
まだ爵位を父から譲り受けていないので、礼儀正しく笑顔は絶やさないが、上位爵位の後取りを軽んじたと受け取ったようだった。
ただ、ここはフレデリー家の屋敷。爵位を父から譲り受けていない彼は強く出ることができないので、態度は常に低姿勢でありつつも、瞳に宿るは、爵位など関係なく、父を強く咎めているようだった。
「困りましたね。来ていただいているのですよ。――ティアン、出迎えてきてくれないか」
「公爵。私はラデリート侯爵を継ぐ者です。来客をこの場に通すなど、あまりに侯爵家である私に対して不敬すぎませんか!?」
レオンは怒りを露わに最も真っ当なことを叫ぶ。
前屈みになり、叫ぶその姿はあの夜会の日のことを思い出してしまい、身体が萎縮して縮こまる。
レオンの見下す視線に気づいていないわけないだろうに、父は素知らぬ顔で、席に座り続けている。
母は父を諌めなかった。
ティアンはたまらず父の袖を引いた。
無礼な態度は許されない。
この場ではどんなにこちらが優位にあるとしても爵位の上ではラデリート侯爵が上位になる。眉尻を下げて、顎に手をやる。
彼の使用人でない、フレデリー家のものは誰一人、レオンの要望を聞き入れなかった。
与えられた仕事をこなしていく彼らに、レオンの怒りはつのり今にも通りかがった人を掴みかかりそうな気配を感じて、ティアンは焦りを覚えた。父の袖をもう一度引くと。
「ではこちらからも一言あなたに助言するとしましょう。――立場を弁えていただきたい」
父からのもっともな指摘に、レオンは口を閉じた。
立場は侯爵家とはいえ、まだ、レオンがラデリートを継ぐと決まっていない。
立場とはまさに、継ぐ人でもないのに、ここで不遜な態度をし続けるつもりか、と問うていた。
「まだ、公にしてはいませんが、私が継ぐと近々父が公言なさるでしょう。そうなりますと、本日のあなたの私への雑な対応――覚悟はおありか?」
言葉に隠された脅しは父に効かない。綺麗に受け流してしまう。
「ティアン」
父はティアンを扉へと促した。
父に、圧力をかけても無意味と悟ったのか、今度はその目がティアンに向いた。ひっと言葉を飲み込む。
「と、父様!」
このようなピリついた空気漂うサロンへと乗り込んでくる勇気のある人はいない。
「迎えてくれないと、客人が入って来られないだろう?」
迷っていると、強く再び名を呼ばれる。父に逆らうことはできない。ティアンは頷くしか無かった。
この場の空気が少しでも変わるのなら、その客人にサロンへ入ってきてもらうほかない。
「――え、ええ。わかりましたわ」
戸惑いながら、席を立ちあがった。
慎重に、レオンに近づいて行かないようにして、扉へ向かった。
執事長が連れてきた来客の訪室と、ティアンが扉に着いたのはほぼ同時と言ってもいい。
「ティアン」
立っていた客人は、正装をしたハロルドだった。
わずかに息を乱した彼は、迎えでた婚約者に安堵して、朗らかに笑い、ティアンの手をとる。流れるように、指先が彼の唇に触れた。伏せた目が見上げてきて、視線が絡み合う。その一瞬で、ティアンの緊張は一瞬で
「……ハロルド様」
助けて、と手紙を出したのはほんの一時間程前。
けれど、こんなに早く来られると思っていなかった。だから支度をゆっくりとして、時間を稼いだ。それでも難しいかもしれないと思っていた人がいま屋敷にいる。
「ティアン、無事だった?」
小声で訊ねる声にティアンへの懸念を感じた。指先を気遣わしく撫でられる。
ティアンの手紙は彼に届いていた。
それだけで、嬉しさが込み上げてきて、この手に、縋ってしまいたくなる。
縋って、この重たい空気から逃げてしまいたい。そんなことしてはいけないとわかっていても。
ハロルドが入室したことで、空気が晴れやかになるどころかさらに険悪になっていく。
「フレデリー伯爵、すみません。遅くなってしまいました」
「いえ、お気になさらず。約束の時間ちょうどです」
サロンに現れたハロルドを父は歓迎してソファに促した。
そこではじめて、室内に先客がいることに気づく。
「……先客がおみえでしたか。わたしは別室で待ちますよ」
ソファに傲岸不遜に座り続けているレオンがその申し出に、口元を綻ばせる。
「いえ、あなたにも関わることです。どうぞ、おかけになって下さい」
ハロルドの退室を屋敷の主は認めなかった。
「ですが……」
先の来客と同列の侯爵家でも、この場に入るに躊躇っている。父が許しても、ハロルドが辞そうとする。その腕をティアンは掴んだ。
「い、行かないで」
アイスブルーの瞳が不安に揺れる。
ハロルドがサロンから出ていってしまったら、ティアンは誰に縋りつけばいいのか。
「ティアン?」
「――いて、下さいませ」
ティアンの切望にに近い懇願を、ハロルドがどうとったのか。眉間に皺を刻み、逡巡したのち、引き留めるティアンの手をとった。
「レオン様、申し訳ないのですが、私も話を伺いましょう。
『婚約者』を強く強調して、他所行きの笑顔を浮かべた。
両親に近い側にティアンが座ると、隣にハロルドが座った。
繋いだ手は離されず固く握り締められ、離してくれる気配はない。
レオンの眉尻が不愉快に吊り上がり、ティアンは慌てて、彼の手から引き抜こうともがいてみる。抵抗虚しく離してもらえない。
ティアンの焦りごと包みこむように、握り直されてしまい、横顔を訴えるように見上げた。
ハロルドがこちらに気づいて、挑むようにあがった目尻が一瞬やわらんで、ティアンに向けられた。
「離さないよ?」といわれたみたいで。
――こんなの、心臓がもちそうにない。
イヤではない。ただ、周りの視線が、とても、気になって。
どこかでわざとらしい咳払いが、聞こえた。
「――ハ、ハロルド様」
小さく訴えた。
婚約者しか見えていないと。堂々と態度で表してくれて嬉しい。
これが家族の前で、大勢の貴族の前でこうしてくれるのはもっと嬉しい。
ただ、今回ばかりは相手が悪い。
レオンの前ではとてもよろしくない。
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