3、突然の訪問と贈り物 4
カフスを店へ頼みに行く日までには刺繍を完成させたい。
新たにハロルドの名前を入れたデザイン画を睨んでいた。
少しでも刺す位置が狂ってしまうと、小鳥は綺麗に見えない。小鳥ではない違うものになってしまっては、ティアンが絵に込めた意味はなくなってしまう。
自室にこもって、ハロルドに渡すハンカチの刺繍に没頭していると、ノッカーと共に来客を知らされた。
ティアンを訪ねてくる人はそう多くない。
社交界で友人と呼べる人をあまり作れていないせいだ。貴重な友人は、ライアンの婚約者アメリアただ一人。
会う予定はない。
「どなたなの?」
目頭のこりをほぐしながら、ドアの向こうに立つサリマに聞いた。
アメリアが突然訪ねてくることは少ない。その場合、ほとんどが兄と喧嘩や、ちょっとしたすれ違いで相談にのることがある。
サリマの声は小さく囁くように来訪を伝えてきた。アメリアではないのだろう。
「それが…………ラデリート侯爵、レオン様です」
思ってもいない名前に、手が止まり、目が見開らかれた。
これまで、一度だって屋敷へ来たことがない。
「間違い……ではなくて?」
不信感を漂わせて、さらに聞く。
「え、ええ。間違いありません」
あまりに突然のことに、即答は出来なかった。
あの日、ハロルドに助けてもらった夜会のことはもう一ヶ月前のことなのに、鮮明に覚えている。あの日の恐怖はまだ忘れてない。忘れられるわけない。
恐怖を与えたことに対して許しを請うにしては時間が経ち過ぎている。
何用できたのか、全く分からない。
レオンは夜会でティアンを見かけると、声をかけてくる。そのとき好意のようなものもはっきりとではないけれど、感じていた。
ティアンは彼がそれほど、気になる愛でではなかったけれど、ハロルドに当てつけるようにして、仲が良いように見せつけたことが一度だけでなく何度かした。
ただ、これまで一度も屋敷へ来たことはなかったので、いいように使っていたのだけれど。
そのせいだろうか。
気のあるそぶりを何度もしておいて、婚約者として、紹介したその日に別の男のものだと知らされた。
手のひらで弄ばれたことへの抗議、だろうか。
アメリア曰く、令嬢からははっきりと、好意なるものを示しても、婚約の話を相手にすることはご法度とされている。
誰しもがうまく転がしてその中で引っかかった男の中で、より条件のいい人に擦り寄れば、うまく食いついてくれる。
そうして、餌を与えて、機会を与えて、男を転がすのよ、と妖艶に微笑んだ。
そうやって兄もアメリアに引っかかってしまったのかと、身内の心配をしてしまう。
二人の婚約は出逢う前に、上官命令的なもので結ばれた婚約なので、転がすことができなかったと残念そうにしていたのは、まだ記憶に新しい。
聞くはいいが、とてもティアンには出来そうにない。
ハロルドの気を引くために、少し過剰な接触はあったかもしれない。それの抗議か。
想定していない突然の訪問に、ティアンは身体をこわばらせた。
あの日。ハロルドが助けてくれてから、レオンはティアンに興味を無くしたのか、一切接してこなかった。
ハロルドが婚約者だと周囲に見せつけた夜会でも、そのあと、両親とライアンと出席した夜会でも、レオンは接触してこなかった。
ティアンがいることにすら気づいていない素振りで。
油断はしてはいけないと、ハロルドに言われたばかりで、緊張に身体が強張る。
「お嬢様、どうされますか?」
一向に返事がこなくて、痺れを切らしたサリマから催促された。
喉がやけに乾いてはりつく。
ティーカップの紅茶は空っぽだ。
「……ご用件は?」
「話をしたいとおっしゃられています。……旦那様と奥様が同席の上で、お許しになられました。……それで、お会いになられるかは、お嬢様にお任せすると」
歯切れ悪くサリマは答えた。
両親は例の夜会でなにがあったのか、話していない。その場にいたライアンから起きたことは大まかに聞いているので、あまりいい顔はしない。
その両親が、ティアンの判断に委ねた。
両親がいるなら、安心だろう。一人で会うわけではない……のだけど。ティアンの爵位は伯爵位。いくら両親が同席するとしても、権力の
机にある便箋に、急ぎ走り書きをして、封蝋をした。仕事を邪魔したいわけでもない。何かある前に、困ったことが起きたらすぐ知らせてほしいと言われていた。
なにがあっても、遠くにいても、駆けつけるから、と。
ハロルドへ。
ただ一言。助けて――と。
この手紙を届けてくれる使用人に託した。
◇
ハロルドは深く息を吐き出した。
ティアンの心がわからない。
分からないことはない。好意は、あるように思う。
確かにティアンはハロルドを意識してくれている……ように思えた。いや、してくれている。
レオンを理由に、婚約ができたまでは良かった。
ただ、何度会っても彼女の本当の気持ちがみえない。
幼少の頃、ライアンを訪ねて屋敷へ行くと、ティアンは満面の笑顔で必死に走ってきて、幼いながらも挨拶をする姿が実に可愛らしかった。
あの頃は、ティアンの心が誰に向いているのかはっきりとわかった。
気恥ずかしくて意地悪してしまったのは――若気の至りである。
ハロルドに内緒でハンカチに刺繍をしている姿の可愛さに声をころして魅入ってしまった。
そのデザインは幸運を呼ぶとされる青い鳥。
ハロルドを想って考えてくれたデザイン。
慎重に針を刺しているところをみるに、あまり急かしたくないけれど、早く欲しい。ずっと手放すことなく、あの一枚だけを毎日使い続ける自信があった。
「勤務中」
顔を上げると、気難しく顔を歪めた上官が呆れた顔で頬杖をついていて、床を指された。
手元の書類が数枚、床に落ちている。いつ落ちたのかもまったく覚えていない。
「……申し訳ない」
書類を拾い上げて、机に置いた。
大切な資料をなくしてしまうところだった。
「なにがあったのか聞かない。だがな、仕事まで持ち込むくらいなら早く婚約者のところ、いって謝ってこい」
いいな、と念を押され、指先で扉を示される。真っ当な正論に、言葉をつまらせた。
喧嘩をしていて、仕事に身が入らないというわけではない。
ティアンにここ数日会っていないからだ。
「なにも、ティアンのことだと言っていません」
もっともな指摘に、若干恥ずかしさを感じながら、そっぽを向く。
「ほんとにキミは、婚約者の前だと物腰柔らかに言葉も甘くなるくせに、俺にはそっけないな」
目を細めて、面白いとばかりに唇をにんまりと引き上げた。
「あなたと、大切な婚約者は比べるまでもありません」
そっけなく返すと、盛大に笑われた。
どこでみられていたのか。
言うまでもなく、ティアンと参加した夜会だろう。夜会は上官である彼も参加していた。
これまでなんの興味も示していなかった男たちが、綺麗に着飾るティアンに淡い期待を抱きだしたのだ。
婚約者といっても、夜会で同じ人と何曲も踊ることは礼儀知らずと陰口をたたかれる。
やむなく、数人の令嬢とダンスをするのだが、その隙にティアンに声をかける男たちはあとを立たない。
これまでになかったことが突然起きて、ティアンは戸惑っていた。
ハロルドと婚約したとなってから、なぜか、これまで見向きもしなかった男たちが、ティアンをみている。
一人にさせられない。
彼女と会ってからハロルドはティアンしかみえていない。ライアンがアメリアを手放したくなくて、男たちを牽制したくなる気持ちが痛いほどにわかる。
素直で、簡単に騙されてしまうティアンはどこか危なげで、見上げてくるアイスブルーの瞳は、伏し目がちに相手を信用しているといわんばかりにまっすぐ見つめて、ハロルドの保護欲をかき立ててくる。
あの瞳をもう何日も見られていない。
「まもなく、会議の時間と思いますが?」
その鬱憤と嫌味を込めて、上官のスケジュールを伝える。
「おう。もうそんな時間か」
白々しい。
上官を冷ややかな目で見てから嘆息した。これもティアンに会えていないせいだ。
準備を始めた上官の飾り紐を上着につけたところで、急くように扉が殴打される。
会議を前にして何か起きたというのだろうか。
「ハロルド様、急ぎの手紙が届いています」
上官ではなく、ハロルドに。
上官うながされ、扉を開ける。
現れたのは、ティアンの屋敷で働く使用人だった。
「ハロルド様、忙しいとは存じていますが急ぎ屋敷へ来ていただけませんか?」
部下を伴う、使用人の男は、ひどく焦りの滲んだ表情で、手に握った手紙を差し出した。
裏返しそこに押された封蝋を確認し、開封する。手紙を開けば、走り書きされたティアンの文字が綴られていた。
たった一言。それだけでは何が起きたのかわからない。
慌てて書いたせいか、インクの掠れた『助けて』の一言は彼女に何かが起きたことを伝えるに十分だった。
「何があったのです!」
使用人に詰め寄る。
「レオン様が、ラデリート侯爵の方がお嬢様を訪ねてみえました。お嬢様はお会いになられるようで……」
使用人の言葉を最後まで聞くことなく、ハロルドは部屋を飛び出した。
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