3、突然の訪問と贈り物 1

 夜会から十四日が過ぎた頃。

 婚約者としてハロルドと参加した夜会以降、二人の婚約は瞬く間に社交界に知れ渡り、縁談の手紙はぱたりと止んだ。

 令嬢たちが開く午後のお茶会の招待状が普段よりも多く届くようになった。

 全てに出ていては疲れてしまうので、アメリアが出る茶会に絞って出席すると、ハロルドとの婚約を祝福されたあと、令嬢たちから怒涛の質問嵐に別の意味で疲れ果てた。

 令嬢たちが聞いてくるのはどれも、ハロルドとのことで、レオンのことはなにも聞かれなくて助かる。

 聞かれそうな雰囲気を感じ取ったアメリアが、流れるように次の話題に切り替えてくれるので、聞かれないというのもあるけれど。


 ハロルドとライアンいわく、これまで、レオンが目をつけた女性たちに誰一人として婚約者はいなかった。

 相手がいる令嬢に一切手を出さなかったという。



 双方の両親が、ハロルドとティアンと、共にいることで、二人だけでなく親とも仲の良いところを暗にみせている。

 そして、水面下でされていた二人の婚約の噂が、フォリカス家の夜会で仲睦まじく寄り添い合う姿は、見ていたライアンから目を逸らしたくなった、とお墨付きをもらうほど、周囲へ見せつけていたらしい。

 これまで一度も女性との噂があがらないハロルドの婚約に、喜ばしく祝福を送りながら――一部は嫉みを存分に込めて――夜会は無事に終わりを告げた。


 その夜会以降、予想通りにレオンからの接触は、ぱたりとなくなった。

 夜会や舞踏会のただ数回、話をした程度。

 夜会で周囲にそれとなく吹聴されはしたが、ハロルドとの仲睦まじくも、想い合う二人の姿は、レオンの嘘ぶいた話よりも真実味があった。否定の噂を上書きして立てるほど、ラデリート家はタイタリア家との仲を悪化させるようなことはしたくない。

 中立という立場にあるラデリート家は、中立というだけあり各方面の貴族よりも力がある。

 数代前のラデリート家当主へ王族から降嫁以降、着実に力をつけてきた。王族と縁のある者はいないにしても、それでも中立の立場でないタイタリア家と均等に渡り合える程に。むしろ、ラデリート家の方がわずかに上の発言力を持つ。

 政治的出来事があった場合に、タイタリア家を敵に回すほど、危険なものはない。噂になるほどの付き合いのない令嬢をタイタリア家ととりあうわけにはいかないのだ。

 付き合いは慎重にとでも、レオンは現当主たる父から厳重に注意をされているだろうから、接触はもうないだろう、と。

 政治的なものに疎いティアンは、そういったものを極力避けていた。よくないとはわかっていたのだが、頭の痛くなる話は特に、嫌う節がある。ライアンからしっかりと学べと、呆れられお灸を据えられつつ、ハロルドの家がどれほどに強く他の貴族に働くかを教えられた。

 ハロルドとはじめて出席した夜会以降に一度、レオンが出席する夜会へ出た。

 ハロルドが出席する夜会ではなかったので、ライアンと両親とで行った。

 過剰なほど恋仲を存分にみせたためか、相手がいるとはっきりしているティアンへレオンは見向きもしなくなり、両親と離れ、一人でいても声すらかけてこなかった。


 兄と、ハロルドの読みは見事に当たり、穏やかな日常が久しぶりに戻ってきたことに、ティアンは喜びを噛み締めていた。

 助けてくれたハロルドに感謝しかない。




 なにかハロルド様に贈りたい。

 ハロルドへ長く片恋をしていることを知っている友人アメリアに、婚約の祝いに来てくれたときに相談すると、「得意なもので作って贈られてはどう?」と助言をもらった。

 真剣に二日も悩んで相談したのに、あっさりと助言されて拍子抜けした。

 買うことばかり考えて、作るという発想はなかった。


 苦手ではないのだけど、得意でもない。これといって得手なものもないので、定番とも言える刺繍をしたハンカチを贈ることにした。

 二日悩み、絵柄は幸運を運ぶと言われる青い小鳥と、春の花を選んだ。さらに、二日かけてデザインに悩むことになった。刺繍糸と、ハロルドのイメージから薄青の絹を調達した。

 薄青の絹により濃い青の刺繍糸で、鳥を刺す。

 刺繍の出来栄えは――できてみなければ誰にもわからない。



 来客もなく、予定もないので、庭の四阿でティータイムを楽しみながら刺繍をはじめた。

 デザイン画を膝の上に置いて、糸をいれた絹とを交互に睨にながら、針を慎重に刺す。人に渡すとなったとたん、手に妙な力が入ってしまい刺繍が難しくなる。

 まだ、刺し始め。こんなところで躓いている場合じゃない。肩に入った力を抜いていると、ふいに手元が陰った。

「……?」

 夕方になるにしてはまだ早い。

 この時期にしては珍しく、天気でも急に悪くなってしまったのかと、空を見上げようとして……ハロルドが立っていた。

 かがみ込んで、ティアンの手元……というよりも、デザイン画を真剣に見下ろしている。

「ハロルド様」

 あやうくあげそうになった、驚きと悲鳴を飲み込んで、努めて冷静にティアンは睨み上げた。

 社交界で、先日からもっぱらの噂となるティアンの婚約者は、面白そうに意地悪く笑った。

「やあ、ティアン。なにをしているのかな?」

「声をかけてください! 驚いたじゃないの!」

 ハロルドはティアンの後ろ。四阿と外を隔てる縁を支えにしてした。

 いつからいたのか。全く気配を感じなかった。

 周りを気にしないで刺繍に没頭していたわけでもないのに。


 庭の四阿の向こうにサリマがすまして立っている。

 サリマが連れてきたのかもしれない。

 普段こんなことサリマはしない。仕事はきっちりとしてくれるのに、婚約者ができた途端に怠慢になるなんて許されることじゃない。

 一言、かけてくれれば、刺繍と睨めっこする姿を見られなくてすんだ。

 サリマに恨みがましい視線を送ると。

「キミの侍女は悪くないよ。俺が頼んだんだ」

 ハロルドはくすくすと笑った。ティアンは目が据わった顔をみられてしまって、恥ずかしい。

「そ、そうですか」

 咳払いをして誤魔化した。

「普段、夜会にででいるときの髪型もいいけれど、こういうのもいいね。僕と会うときもしてくれる?」

 サラリと真っ直ぐに下ろしたハニーブロンドはアクセサリーをひとつもしていない代わりに刺繍の邪魔にならないように結んでいた。

「な、何を仰っていますの。そんな姿はしませんわ」

 誰とも会わないときの姿をみられてしまって動揺が隠せない。コルセットは柔らかいもので、ドレスは何年も前に流行した形のもの。もう着られないからと、手を加えてディドレスに仕立て直していた。

 外で着られるものじゃないので室内用。それも、来客がない日限定に着るドレスになる。

 古いものを着ている姿は屋敷のもの以外にみせたくなかった。

 居心地悪く、視線を彷徨わせる。

 こんな綺麗と言い難い格好をハロルドに見られたくない。

「残念だな」

 心底残念そうな声がしたが、言葉じりに楽しそうな雰囲気を感じ取った。

「とても残念そうに聞こえませんわよ」

 ティアンが冷たく指摘をすると、分かってしまった? と楽しそうな弾んだ声が返ってきた。


 針を布に刺して、なんでもないように自然に刺繍を脇に置いて隠した。

 頭に思い描くデザインを刺繍にさす令嬢もいるが、ティアンはデザイン画がないと刺せない。これなしでは作り上げるのに時間がかかってしまう。刺繍に取り掛かったのはつい先程のことで、刺し始めたばかりで形にもなってない。

 薄く型取りの線が布にしてあっても、刺すうちにこの線は見にくくなってしまう。

 図面通りに刺すには、デザイン画は必要だった。一番みやすい膝の上置いていた図面を見られてしまった。

 事細かく色や、形が細かく書き込んであり、見られてはならない。よ慌ててそれも背中に隠そうとして――

 デザイン画をハロルドがあっさりと取っていってしまった。

「あっ!」

 手からすり抜けていったデザイン画が、ハロルドの目に入ってしまう。

 両手でデザインをじっと見つめて。

「……いい絵だね」

 デザインを眺めながらハロルドはごく自然にティアンの隣に座ってきた。

 薄いクリーム色の上着を着たハロルドは、グレーのパンツを履いていて、出会った頃から変わらずティアンをときめかせてくれる。

 デザイン画を返してほしいが、触れ合う肩に体重が掛かって動きを封じられてしまった。

 長い足を組んで、デザイン画を脳裏に焼き付けんばかりに凝視する。

 まさか渡す相手に見られてしまうなんて思いもしていない。

 喜んでもらおうと思って、言わないでいたのに。


「誰が描いたもの?」

「私です。下手なのであまりみないで。返してくださいませんか?」

「下手じゃないよ。かわいい絵だね。――これ、誰に渡すの?」

 ぎくり。

 ハロルドはティアンが背に隠した刺繍へ視線を向けた。

 自分のもの、というにはデザインに込められた意味がおかしくなってしまう。誰かに渡すために刺しているならばともなく。

 あなたです、なんて言えるような勇気はないので適当に誤魔化して返してもらうほかない。

「とにかく返して」

 手を伸ばすと取られまいと逃げていくデザイン画は天高く挙げられて、彼と腕の長さの違いで、まったく届かない。

「ハロルド様!」

 意地悪しないで。

 頬を膨らませ、逃げるデザイン画を追いかけて、必死に手を伸ばしていると突然体制が崩れた。

 ころりと前につんのめりそうになるのを、ハロルドが受け止める。

「なにするのですか!」

 突然のことに、ティアンが怒りを露わにすると。

「どこに手を置いてるの」

 はあとなにやら艶めいたため息をつかれて、腕の先を見やり……

「――!?」

 ティアンは慌ててその手を退けた。

「すみません」

 ハロルドの足の付け根に手を置いていたなんて、羞恥で隠れられる穴があったら入りたい気分に陥る。

 デザイン画を素直に返してくれればこんなことにならなかった。そもそも、手紙をティアンが読んでいたら、刺繍をしていなかった。

 サリマが……。と心の中でなじる。

 誰かにこうなった原因を押しつけたい気分だ。


「ティアン。こっち向いて」

 羞恥で振り向けないでいると。

「ティアン」

 もう一度呼ばれる。けれど、できない。

「ティアン、恥ずかしがらないで」

 肩を掴まれて、振り向かされた。赤い顔は俯いていてもはっきりとわかってしまう。

 もう一度名前を呼ばれて、渋々と顔を上げた。ハロルドは困ったような笑みを浮かべている。デザイン画は、高く掴めないところにあるまま。

「ティアン。どうしてそんなに必死になるの? これは、僕に見られたくない?」

 みられたくなかった。ことさら、渡す相手には。

 デザイン画は戻ってくる気配はなく、諦めるしかない。

 今夜もう一度書き直すしかなさそうだ。

 デザイン画は頭の中に入っている。が、絵にしなければ、デザインどおりに刺せる自信がまったくない。

 人に刺繍したものをあげること自体はじめてのことで、緊張もしている。

「……頭に入っていますから、もう、それはいりませんので、あげますわ」

 出来上がった絹のハンカチを渡せば、誤解も解ける。手の中にあるデザイン画を刺した絹のハンカチに刺された渡す相手の名前も。

「――いらないよ。誰かにあげるデザインの絵なんて。……僕は――」

 驚いて、隣を振り返る。

 切なそうな瞳がそこにあった。

 息を呑んで見入ってしまう。

 とられたデザイン画が、膝の上に返ってきた。

「かえすよ。ただ……」

 ぎゅ、と強く手首を握られる。

 その力は徐々に強くなって……

「これは……誰に、あげるの?」

 冷たく、氷点下のような低い声音で訊ねられた。

 幸運を願う青の小鳥。自分用にするには、青の小鳥は選ばない。そこから誰かに渡すものだと勘づかれたのだろうけど。

「だれにって」

 一人しかいない。

 ハロルドだと、声にするには恥ずかしく、口をつぐんだ。

 真剣な鳶色の瞳はティアンから離れない。

「ティアン。この絵は贈るためのものじゃないの?」

 図面に描かれている、小鳥と春の花。自分用だと主張したらいいのかもしれないが、そんな嘘になること言えない。出来上がったものを渡す相手は目の前にいる。

「キミと婚約したのは、だれ?」

 ハロルドはさらに問い詰めてくる。これを渡される予定の相手が知りたいと言わんばかりに。

「だ、だれって。それは……」

 ちらりと、見上げる。

 それはどちらもあなたです。と、簡単に言えたらいいのに。

 ティアンはハロルドが婚約してくれたのは、レオンから守るためのもの。ハロルドはずっとだと言っていても、信じられない。違うとどこかで考えてしまう。

 答えを出さないティアンを逃しはしないと、腕の中に囲われてしまい逃げ場を失った。

 四阿の縁に背中をつける。

 そうしないと、ハロルドの剣呑な目から逃げられそうにない。

 渡す相手は一人。

 鳶色の目が真剣にティアンをまっすぐ見つめて……ふと、緩んだ。

 その目元に、心がぎゅっと掴まれて――。

 根負けしたのはティアンが先だった。

「……っ、ひとりしか、いません!」

「その人はだれなの? ティアン」

 ハロルドの声が弾んでいることに気づいた。

 よくみれば、頬が緩んでいる。

 はじめから、ハロルドは知っていたのだ。このデザインを刺繍された薄青の絹を渡されるのが自分だと確信している。

 いつから気がついていた?

 途中から? それとも最初から?

 どちらにしても、ティアンが誰に渡そうとして刺繍をしているのか、はっきりと露見している。

 どん、とハロルドの胸を強く叩いた。

 恥ずかしさに、声も出ない。

 ティアンの精一杯は、彼には可愛い抵抗らしくて、びくともしない。

 もう一度、叩こうと振り上げた手はあっけなく捕まえられてしまった。

「……からかわないで!!」

 この人は、ティアンと会うと紳士的に相手をしてくれるけれど、時々、どうしてか、からかってくる。兄を訪ねて屋敷へきていても、ティアンを見つけてはからかってきていた。

 兄の前でもその態度は変わらず、兄は目に余る行動や発言以外はとめることもしない。基本、ハロルドのことは兄は呆れつつも、見守るくらいだった。

 

「僕じゃなかったら、その相手が誰か教えてくれるまでしつこく、言うまで聞いてもいい?」

 それでもいい? と無邪気に訊ねてくる。

 こういうところは、昔の意地悪い面影がある。

 刺繍してまで渡す相手は一人しかいないとわかっていて、白々しくも聞いてくる。

 わかりきっている答えを言いたくない。

「ねえ、ティアン。その人に僕がなにをしてもいいの?」

 真に迫った低い声音。少し嫉妬していると感じさせる間近にあるハロルドの整った顔が真剣に訊ねてくる。

 本当にそうしてしまいそうな気迫に、先に白旗を振ったのはティアンの方だった。

「――――あなた以外、誰にあげるのよ!」

 どん! と胸を強く押した。

 びくともしない。もう一度、手を振り上げるとその手はあっけなく掴まれた。

 とられた手首は力が加減されているのに、なぜだろうか。振り解けない。

「離してもらえます!?」

 どうしてこうなったのかわからない。

 ただ、抗議しただけなのに。

 弾んだ笑い声がして、ゆっくりと見上げる。

 嬉しさがいっぱいの笑顔がそこにあった。子供っぽさのある笑顔に言葉を失う。

 ひとしきり笑うと、不貞腐れたティアンを見下ろした。

 目尻に涙を浮かばせて、ティアンの頭をおもむろに撫でた。

「――ほんと、かわいい」

 ぼっと顔がこれでもかというくらいに熱くなる。

 唐突にかわいいと言われてなんと返していいか困ってしまう。

「ティアン。俺の名前をここに刺してくれるともっと嬉しいかな」

 デザイン画の空いているところを指された。青い鳥と春の花だけでは素朴すぎると思っていた。ハンカチだから素朴ぐらいがちょうどいいかとも思っていた。

「――わかったわ」

 ティアンはデザイン画にハロルドの名前を追加で描き足そうと決めた。その近くにこっそりと刺すことができれば、ティアンの名前も。

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