2、いま話題の二人 3

 シャンパンを取りに行ったハロルドが戻ってこない。

 すぐ戻ると言っていたのに。

 ハロルドは、彼が思っているよりも、周囲の女性の目を惹く。

 婚約したと言っても、彼の容貌が令嬢たちに声をかけずにはいられなくしている。足を止めさせてしまう方がいてもおかしくない。

 ハロルドは声をかけられたら、ティアンが待っているとわかっていても断れない。そんな人。

 デビューをしてから、同じ夜会に出席する時に、ハロルドを遠くから見ていたからわかる。

 ライアンと、気の抜ける仲間と話をしているときは、少し少年ぽさのある笑顔で。

 気の抜けない爵位持ちの男性や、のちに爵位を継ぐ青年らは、顔を引き締めて、言葉一句聞き逃さないように、必死に。

 誰に対しても、声をかけられたら、断りもしないで相手をきっちりとしていた。どれだけ急いでいても。話しかけてくれる相手を大切にしていた。

 だから、きっと、今夜も。立ち止まって誰かと話をしているのだろうけれど。

 あまり長くひとりにしないで欲しい。

 ティアンは不安だった。

 扇を持つ手と重ね合わせた両手をぎゅっと、無意識に硬く握りしめる。

 ハロルドと婚約してから、夢みたいで。もう婚約してから二週間近く経つというのに未だに実感が湧かない。

 こんなにも、ハロルドから好意を向けてもらっているのに、どうしても疑ってしまう。

 片恋の期間があまりにも長過ぎたせいなのか。それとも彼に好意を抱く令嬢や我が子の婿にしたい夫人が多いせいか。

 どちらにしても、婚約した日、ティアンが信じるまで『嘘じゃない。ティアンが俺が嫌いになって、俺をいらないと言うまで婚約は続けるよ』と、何度も言う彼の目が真剣で。

 澄んだ鳶色の目にティアンは魅入られて、婚約が本当だと、仮でもなく、本物だと信じた。


 時間はどれだけ経ったのだろう。

 短いのかもしれないけれど、待たされている側からしたら、姿が見えなくなってからが、とても長く感じた。

 気になってしまい、人と人の隙間からハロルドの姿を探した。

 ハロルドを探すのだけは、婚約前から夜会のたび、彼を探すことがクセになっていた。

 どうしても探していると周囲に感づかれるのがイヤで、自然にみえるように、周囲を見渡したそのとき。


 背中をぞわり、と。

 身体を震わせる、ひどく寒気のする感覚がふいに這い上がってきた。


 春先の外気を取り込んだ開放的な会場。

 ダンスで暑くなった身体の熱は冷めてはいるが、うっすらとかいた汗が冷やされて寒いわけでもない。

 それは一瞬で、もう感じなかった。

「どうしたの?」

 娘が両手で腕を擦る姿に、会話をしていた母が、ティアンを向いていて扇を広げたままに尋ねた。

 ハロルドの両親も、話を中断してこちらに気を配っている。

「なんでも、ありませんわ」

 楽しい談笑を中断させてしまった。申し訳なくなる。

「なんでもなくないわ。腕をさすっているじゃない。寒いの?」

「寒いわけじゃないの。……わからないわ」

「これでも着ていなさい」

 母は使っているストールを肩にかけてくれた。

 薄い布でできたストールを有難く受け取り、前止めをした。

「夜は冷えるから、気をつけてね」

 両親と友好のある夫婦からも心配されてしまう。

「はい、ありがとうございます」

 ティアンは女性二人に笑顔で返した。


 寒いわけでもないのに、腕にでてきたポツポツは引っ込んでくれない。ストールの上から腕を擦ること数回。

 再び来た悪寒にも似た感覚がした。寒気の類でもない悪寒に、なぜそう思ったのか、ティアンが振り返った先は、ダンスホールだった。

 なぜか不意に、確信してしまった。

 ――レオンが見ている、と。

 曲はまだ終わっていない。それなのに、なぜか、そう感じて。

 ティアンがレオンを探すと、彼は相手の女性と楽しそうに曲に合わせて踊っている。

 二人は見つめ合い、微笑み、とてもいい雰囲気を醸し出している。

 一部の女性は悔しそうに相手の女性を睨んでいて、相手をする女性はこの一時いっときを楽しむように綻ばせていた。


 考えすぎだったらしい。先日の夜会の出来事がティアンに、そう思わせてしまっただけかもしれない。

 先日、ハロルドに助けを求めた夜会でのことはティアンの頭にこびりついて離れない。

 あんな人だと思っていなかった。それは彼の策略だったのか、最初は警戒していたティアンの心を解いた。その手腕はとても巧妙で、ふいにみせる獲物を捕らえようとした獰猛な目は、時折、恐怖を覚えた。

 それでも、彼はそんな人じゃないと思っていたのだけれど、一つの歪みが徐々にティアンに不信感を募らせて、あの日、

 ハロルドがいなかったらティアンは逃げ出せなくなって、両親にも迷惑をかけてしまっていたかもしれないと思うと、それだけで自身の見る目のなさを呪いたくなる。

 深く呼吸をした。

 心臓がやけにひどく暴れている。

 身体全身が心臓のように、鼓動を感じる。

 落ち着かせなければ。

 彼は、ティアンを見ていない。気にとめてすらいない。

 女性はレオンに魅入っている。

 どちらも周りを見ていなくて、二人の世界を作り上げている。



 曲が終わり、女性がレオンから離れていく。

 相手を見送ったレオンが、ダンスホールから離れていく。

 レオンの友人らは、ティアンのいる反対側で、彼の両親はティアンと離れた場所でそれぞれ談笑をしている。

 それなのに、なぜかレオンはこちら側へ。ティアンがいる側へまっすぐ、迷いなく歩いてくる。

 

 給仕係は、いろいろな場所で待機している。ダンスをした後は飲み物が欲しくなる。飲み物を取りにくるにしては、歩いていく先の場所がずれている。

 とてもイヤな胸騒ぎを覚えてしまう。

 ハロルドを探す。まだ、いない。

 ティアンは隣の母に手を伸ばそうとして。レオンと目が、合ってしまった。



 レオンが、令嬢とダンスを嗜むときの笑みのまま、レオンは伏せた顔をあげ、ティアンに笑いかけてきた。

 まるで、恋する人を見つけたかのような満面の、綻ぶような笑顔で――。



 背筋が一瞬で凍りついた。

 両親に手を伸ばせば届く。けれど、どうしても手が出せない。声が出ない。

 手が、震えた。


 ハロルドはまだ、戻ってこない。

 早く帰ってきてほしい。

 スカーフをぎゅ、と強く握りしめた。

 ――――怖い。


「ティアン」

 柔らかな呼び声に、振り仰いだ。

 とてもティアンに悪そうに、顔を歪めて、両手にシャンパンを持ってハロルドが立っている。

「待たせてごめん。向こうで、学友に会って。話していたら……」

 つめていた息が、ふっとできるような安堵感。ハロルドはティアンに、レオンのようなことはしない。幼少の頃から一緒にいた。

 一時期、意地悪をされたけど、それでもやはり長く共にいた時間は裏切らない。

 シャンパンをティアンに渡しながら、ティアンを伺う。

「ティアン……?」

 あまりに長く婚約者を放っておいたことに、怒るとでも思っているのだろう。

 ティアンはそんなことしない。ただ、戻ってきてくれてよかった。

  シャンパンを受け取りながら、ハロルドの腕をひいて、その胸に頭を預けた。

 ハロルドの服から香る彼の匂いで、心が落ち着いていく。自然と震えも恐怖さえも、消えていく。


 話題を提供したいわけでもないけれど、ハロルドに縋りたい。

 婚約者というだけで、こんなに大胆なことをしても、周りは初々しいとばかりに温かい目で逸らしてくれる。

 一部からは、目を顰められた。それらにはハロルドがうまく対処してくれた。

 それでも、視線は痛く感じた。

 隣では両親が、笑顔を引き攣らせている。

 ティアンの大胆すぎる行動に、ハロルドは目を見張り戸惑うが、ティアンの微かに震える腕と、肩にかけられた母のスカーフに、目を止めた。

「どうか、した?」

 ハロルドが慎重に聞いてくる。

「ティアン?」

 身を寄せながら、気持ちを落ち着かせて。頭を持ち上げた。ハロルドを壁にして会場を見るのが怖い。

 ハロルドを間近に見上げると、光を背に、暗がりのところでも鳶色の目は心配と不安とが混じっていて。

「レオン様が見てるの」

 意を決して彼の腕を支えに、背を伸ばして耳打ちした。

「……! 待って、やめて。みないで」

 振り返ろうとする彼をとめる。

 ティアンの静止をきかないで、彼が振り返った。ハロルドが会場に目を走らせたのが感じ取れた。

 シャンパンのない手で肩を引き寄せられた。

「ティアン、離れたら……」

「離れないから、離さないで」

 隣に両親がいることも忘れて、ティアンはハロルドの腕に縋った。

 普段のティアンならこんなことしたことない。

 レオンが見ている。

 足を止めて、二人の様子をつぶさに。

 怖い。

 怖いけれど、ハロルドがいてくれる。それだけで安心できた。

「キミ、どこで覚えたの……」

 ハロルドが目を見張り、シャンパンを持つ手で器用に顔を覆って呟いたことをティアンは知らない。



 どれだけの時間が経ったのだろう。

 会場からはすでに参加者が減っていて、両親たちは、若い二人の側から離れていた。

「ティアン、もう見ていないよ」

 ハロルドが伝えてくれた。

 彼の身体越しに、会場を見渡すと、レオンはもうこちらを見ていない。

 ティアンから離れた会場内で友人や、他の貴族と談笑している。

 ほうっと息を吐き出して、ティアンはようやく受け取ったシャンパンに口をつけた。

 体温で温められてしまったシャンパンは温くなっていて、味を感じなかった。シュワっとした炭酸は熱でとんでしまったらしい。

 渇いた喉を潤すにはよくて、飲んでしまった。

 空いたグラスを引き取り、ちょうど歩いてきた給仕へグラスを返した。

「帰ろう。公爵夫妻は先に馬車で待ってもらっているから」

「ハロルド様は? ……挨拶はよかったのですか?」

「今日は、いい。俺も帰る。送るよ」

 主催者へ帰宅することを伝え、会場に背を向けた。ハロルドはもう一度、会場内の一点を睨む。

 レオンが常に共にいる友人達と、こちらを見ている。その目は、まだティアンを諦めてないと物語っているようだった。

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