第126話 備忘録CaseIX・ぽっちゃり姉ともこもふ兄④

 伊佐名月いざな るなは予め、ユリナから話を聞いていた。

 十分に覚悟していたつもりのルナは、己の見込みが甘かったと後悔の海に沈みかけている。

 あまりのカルチャーギャップに危うく、精神が銀河の果てまで旅に出る寸前だった。

 それほどにイザークフェンリルとの邂逅は衝撃的なものだったのだ。


「吾輩に任せれば、安心である」

「え、ええ。よ、よろしくお願い致しましてよ?」


 伊佐名の家を代表する優等生と言われたルナとは思えない失態だった。

 もはや言葉遣いさえ、怪しい。

 まるで紫水晶の如く、透明感のある薄い紫の色をした瞳の焦点がまるで合っていない。

 極限状態に追い込まれたいわゆる『おめめぐるぐる』になっているのだ。


 それというのもイザークの美丈夫ぶりが尋常ではないせいだった。

 本人の自覚が足りないだけであの兄妹の美しさは他を圧する。

 ユリナは同性であり、自身と共通した部分の多いことで影響が少なかったに過ぎない。


 年上の異性であるイザークはルナにとって、あまり接する機会がない種の人物だった。

 免疫の無さで完全にやられてしまったのだ。


「こ、こちらでございましてよ?」

「御苦労なのである。任せるである。壊せば、いいのであるか? いいのであるな?」

「え? は?」

「答えは聞いてないのである!」


 件の部屋の固く閉ざされた扉の前――さながら天岩戸の如く、厳重なバリケードが築かれた場所まで案内したルナは、イザークの返答に目を白黒させるしかない。

 扉には『入ってきたら、コロス』と御丁寧にハートマークまで付けられた下手くそな手書きの張り紙が貼られている。

 しかし、当然のようにイザークはそれを無視した。

 残念なことに彼は日本語の文字が読めなかっただけである。


 右腕に渾身の力を込めたイザークがノブを丁寧に回そうはずもない。

 彼の頭の中で繰り返し、再生されていたのはユリナの『鹿に期待してる』という声だ。

 イザークが魔狼の力が込められた右腕を振り抜く。

 さしもの固く閉ざされたはなすすべもなく、崩れ去った。

 ルナは顔面蒼白を通り越し、今にも倒れそうだった。




 伊佐名天いざな そる

 またの名は太陽の申し子天照

 伊佐名家の長女として生まれ、長子であるヱビスがいない者と扱われたことにより、彼女が家を継ぐ者と見做された。

 彼女は造形美を極めた彫像と見紛うばかりの美しい金髪碧眼の少女

 両親から十分な愛情を受け、妹と弟からも慕われ、順風満帆な生を送るはず

 国を守護する重すぎる役目プレッシャーにも負けず、日々邁進する。

 そのような日々が続くものと誰しも


 ひょんなことでその均衡はあっさりと崩れ去る。

 ある日、思春期に入ったばかりのテラがソルを無視した。

 理由は些細なことである。

 普段から妹と弟への重すぎる愛から、いささか異常とも思われる行動を取っていたソルにテラが「うぜえんだよ」とぴしゃりと言うとそれ以来、無視を決め込んだのだ。


 ソルの人生において、彼女の辞書にこれまで挫折の単語は記載されていなかった。

 挫折や失敗と無縁に生きてきた彼女にとって、最愛の弟からの突き放すような行動はまさに青天の霹靂と言うべき事態だった。


「ぎゃあああああ。テラが無視したあああ」


 あまりの衝撃に我を失うソルをルナが優しく、慰めていればややこしい話にはなっていなかったのだろう。

 両親は子供達に精一杯の愛情を傾けたが、それ以上に夫婦での睦み合いに夢中で娘の異変に気付きすらしない。

 姉の窮地を救えるのは妹だけだった。


「単なる反抗期です。気にする必要ありませんわ」


 見たことのない姉の姿に被っていた完璧を装うルナの猫が剥がれた。

 つい素の毒をたっぷり含む氷のような表情でそう言ったのである。


 その日から、ソルは――自室に引き籠った。

 日がな一日部屋に籠りきり、ネットの世界に浸っているか、ゲームの世界で生きている。

 出てくるのは生理的欲求を満たす時のみだった。

 家族との会話も全く、成立しない。

 人がいない時間を見計らい、用事を済ませてしまう。

 稀に顔を合わせたとしても目を逸らし、コミュニケーションを取ることを拒否していた。


 かつての凛として咲く花の如き美しさは失われた。

 お洒落にも気を配らなくなり、金糸のように眩く輝いていたブロンドも色を失い、だらしなく伸ばされた長い髪は不揃いだった。

 伸びすぎた前髪がかんばせを隠し、目元まで覆っていた。


 極端に動かなくなったこともあり、出ることは出て引っ込むところは引っ込んでいた均整の取れた体型も崩れている。

 ぽっちゃりとしたでは許されない領域に差し掛かるのも時間の問題だった。


 心ならずも己が止めを刺した形になったルナは八方手を尽くしたが、ソルは部屋から出てこない。

 そんな時、これまで所縁の無かった神族からの申し出があり、話題になっている『歌姫』との共闘が実現する。

 ルナはこれがいい切っ掛けになるに違いないと予感した。

 その予感はあながち間違いではなかった。


 ソルがネットでハマっていたのはSNSを席巻する件の『歌姫』だったである。

 『歌姫』が働きかければ、停滞していた澱みが消えるかもしれない。

 ルナはそう期待した。

 ところがその『歌姫』がまさか、手段を選ばない実の兄フェンリルを使った物理的手段での解決を図るとはルナも予想していなかった。




 木製のドアにきれいな大穴が開き、破裂音が家中に響き渡った。


「な、な、な、なんなのよおお。あんたは!」

「吾輩はイザークである! さあ、行くのである!」


 ソルは固く封印したドアを壊され、一人で過ごす大事な時間を邪魔され、怒り心頭に達している。

 わなわなと震える美少女だったモノが、前髪で完全に隠れた目で恨みがましい視線を送っていることなど、全く気にも留めない様子のイザークだった。


 ルナは突如起こった破壊劇に暫し固まっていたものの「そうなのね。この思い切りが必要だったのかしら」と考え始めている。

 美形だから、多少のやんちゃが許されるとでも言うのか、いいように捉えられるのだから、恐るべきイケメン補正だった。


「や、やめてええ。あたしは物じゃないからああ。やめれえええ」


 ソルが威嚇しているのも意に介さず、ずかずかと室内に侵入したイザークはソルの襟首をむんずと掴むとそのまま、引き摺る。


「いざ『巨石パーク』に行くのである!」


 イザークはそう宣言すると手足をばたつかせ、決死の抗議活動を行うソルを引き摺りながら、玄関のドアも破壊して、出て行った。


 ルナは屋敷に残された爪痕を前にまるで台風が通り過ぎたようだと他人事のような感想を抱き、唖然としながらも「ユリナはここまで計算していたのかしら。恐ろしい子……」と勝手に期待値を上げていた。

 遠く離れた地でユリナが再び、「くちゅん」とくしゃみをしたかどうかは定かではない。

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