第4話
フィオナが帰ってきたのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
「おかえりー」
ソファーにもたれながら僕のコレクション作品をテレビで見ていると、玄関のドアが閉まる音がしたので声をかけたのだが、しばらく待っても反応が返ってこなかった。
普段よりも少し遅いフィオナの帰宅だ。だからこそ、僕は久々に自分の見たい映画を鑑賞して、『人工知能を持つロボットの少年が「僕を人間にして」』という名シーンを噛みしめていたのだが――。
「フィオナ…?」
不審に思い、立ち上がって廊下へと出る。
ちょうど、洗面所へと入る黒髪が見えた。
「ねぇ、フィオ――」
「フロだ」
昭和のお父さんみたいなことを言いながら、洗面所のスライドドアがぴしゃりと閉まった。あまりにも素っ気ない様子に、僕は何かあったのかとドアに手をかけるが、衣擦れの音が聞こえたことで、その行動を
「なんだ、一緒に入りたいのか?」
そんな僕の様子を察したのか、衣擦れと入れ替わりに中からフィオナが言った。
「今ドアを開ければ、一糸纏わぬわたしの体が目に入り、我慢できなくなったお前がわたしに襲い掛かって暴発するわけだが」
「いや襲わないよ⁉」
ほぼ反射で答えてしまった。
僕だって、一八の男だし?確かにそりゃ、まぁ興味はありますよ?でもね、さすがに女の子のお風呂に突撃して欲望のままになんて、そんなことしませんよ?っていうか暴発ってなんだ暴発って。欲望が爆発的な意味か?そういう意味だよな?別の意味だったら超情けない感じになるから勘弁してくれ。僕は早くない。いや、これ以上はやめておこう。
なんて心の中で青い咆哮中の僕の耳に、ありえない音が聞こえてきた。
ピ~ロ~ロ~ピ~ロロ~――。
ドアの向こうからの電子音だ。数日に一度、最近はほぼ毎日聞く音。
「え……、嘘だ……」
僕は自失した。この音は洗濯機が動き出す音である。
我が家では、洗濯は僕の仕事だ。ついでに言えば、料理も掃除も買い物もみんな僕だ。一方、我が家でのフィオナの仕事は食べることと入浴と寝ることだ。
……フィオナ、君はお姫様か何かかい?あと、僕は召使ではないよ?
いやいや、落ち着け僕。無意味な問いかけをしている場合じゃない。
今でこそMUFの人間として横須賀基地に毎日通っている身だが、家では完全にニートみたいになっているあのフィオナが、自ら家事をしているだと?あり得ない。あのフィオナだよ?ぐーたらが基本の、僕にやらせるのが基本の、あのフィオナが、自分から洗濯をするだって?
……明日はきっと、イグドラシル連合の総攻撃が行われて、何十機ものハルクキャスターによって関東一面が焼け野原にされてしまうに違いない。
……いや、縁起でもないこと考えるのはやめよう。
きっと、フィオナにも協調性というものが芽生えたに違いない。僕に全てを任せることに良心の呵責を覚え、自分もこの家にいる以上何か貢献しなければならないと思ったんだ。その第一歩が洗濯なんだ、きっと。
いや、んなわけないじゃん。
あのフィオナだよ?良心の呵責?ないない、そんなもの、フィオナが持ってるわけないじゃん。
ま、こんなこと口に出したら間違いなく僕は折檻コースだろうが、思うだけなら許してほしい。
どうせアレだ。例えば、やっと僕に自分の下着を洗濯されることに羞恥心を覚えたとか、それとも新しい服を買ってきて、洗い方がデリケートだから自分で洗おうとしたとか、もしくはあんまりにも際どい下着を新調したからさすがに僕の目に入ることを躊躇ったとか――際どい下着って、どんなだ?面積小さめ?いや、それとも…?
「何をしている、犯罪者予備軍め」
そんな、洗面所のドアに背を向けてしゃがみ込み、意図せず悶々としている僕の背中越しに、少女の凛とした(呆れ度五〇パーセント増し)声がかけられた。
僕はそっと振り返り、見上げた。
白いTシャツにグレーのスウェットパンツの湯上りフィオナさんが、僕をジト目で見下ろしていた。いや、ジト目というのは正確ではないかもしれない。これは……ゴミを見る目?そうか僕が覗こうとしたと思ったんだな!誤解だよフィオナ――。
「まさか貴様、わたしのシャワーの音だけであれこれ想像して興奮していたのか」
「いやどんだけだよっ⁉」
フィオナさんや、君はどれだけ僕を欲情変態野郎にしたいんですか?まぁ、勢いよく否定したはいいものの、女の子がシャワー浴びてるってシチュエーションは、それなりにドキドキポイントあると思いますけどね。
「というか、フィオナお風呂早くない?」
「覗くチャンスを逸したことを悔やんでいるのか」
「いやそうじゃなくて――」
「もう三〇分近く経ってるが」
言われて、腕時計を確認する。
現在時刻、二一時三五分。フィオナの言う通りだ。どうやらフィオナが洗濯機を使うという異常事態に動揺し、形而上のタイムスリップを断行していたらしい。訳わかんないな、形而上のタイムスリップ。
洗濯機はまだ動いている。脱水の最中みたいだ。
フィオナは僕の横をすり抜けてキッチンまで向かい、冷蔵庫の中の牛乳パックを手に取る。そして、愛用の白いマグカップ(デフォルメのクマがプリント)に白い液体を注ぎ込む。
結果、ほんのコンマ数秒で液体の流入が止まった。
マグカップの三分の一ほどしか入っていない。
フィオナはしばし固まると、僕に向けて振り返った。
「切れたぞ、リョウト」
切れ長の目が、宝石のような双眸が、僕を捉えた。
「あ、ごめんね。残ってる量まで確認してなかったよ。明日買ってくるから――」
「……」
明日買うと言っているのに、フィオナはじっと僕を見つめたままだ。
「あの、明日……」
「………」
視線は動かない。
「夜とはいえ、今は夏真っ盛りですよ?」
「…………」
フィオナは空のパックとマグカップを持ったまま、動かない。
「去年まではエントランスを出て徒歩三分くらいの場所にコンビニがあったんだけど、 今は徒歩一五分くらいかかる場所のスーパーに行く必要あるんだよ?」
「……………」
だんだん苦しくなってきた。一時停止したテレビ画面では、ロボット少年が「人間にして」と悲しげに訴えている。僕も悲しい。
「それに、あそこは一〇時に閉まるからさ」
「………………で?」
「急いで買ってきます」
こうして、僕は身支度を一分で済ませて外へと飛び出した。
激走の末に閉店一五分前のスーパーに到着し、「別れのワルツ」が流れる店内で牛乳を確保して、ガラガラのレジで会計を済ませてきた。閉店間際の店内BGMは「蛍の光」ではなく「別れのワルツ」だという小ネタが浮かぶよりも早くスーパーを出て、帰りも走る。
なぜ購入は終わったのに走るのか。当然だ。あんまり待たせると家で待つ
結果、牛乳パックが入った袋を持った汗だくの男性一八歳の出来上がりである。
自宅玄関をくぐると、少しだけひんやりした。フィオナが冷房をガンガンにしているせいだ。彼女には省エネという言葉を理解していただきたいが、どうせ儚い希望なので諦めておく。
「フィオナ、ただい――ふあっ」
リビングに入ると汗だくの体に冷風が襲い掛かってきた。思わず変な声が出てしまった。
「気色悪いぞ」
そして、通常行程の半分程度の時間でお遣いに行ってきた僕へ返ってくるのは感謝ではなく罵倒である。いつも通りだ。言ってて悲しいが。
買ってきた牛乳をしまう為に冷蔵庫に向かう。横目でフィオナの方を見ると、ソファの上で体育座りにクッションをハグという姿でテレビ画面に夢中になっている。
そういえば自分で見ていた映画を一時停止したままだったと思い出した僕は、果たして名作SFヒューマンドラマのフィオナ的評価はどんなものだろうかと気になった。
が、思うだけ無駄だった。すでにディスクが変えられている。
画面には、古臭い家屋の中で葬儀が行われている様子が映し出されていた。映像もだいぶ年季が入っている。昭和臭がすごい。そして、そこにでかい熊が現れて人を襲い、慌てて梁の上に登って――。
って『羆嵐』じゃん!大正の実話をベースに昭和の小説になってドラマ化したやつじゃん!懐かしいな!あれのせいで夜トイレ行くとき物音に敏感になったの覚えてるよ!小学生の僕をよくおじさんが面白がって怖がらせてたな~。
それはさておき、フィオナさん。あまりにも退屈で見るもの変えたな。熊の食害ドラマに手を出すとは。あと、もっとやれみたいにウキウキするな。それにしても三國○太郎の演技えぐいな、うん。
「っくしゅっ」
「汗臭いからどうにかしろ。風邪ひくぞ」
大量の汗に冷風という夏風邪直撃コースで出たくしゃみに、フィオナの言う通りだと早々に着替えることにした。それとフィオナさん、罵倒のち優しさでプラスマイナスゼロかもしれないけど、一度マイナスになる以上ダメージはあるからね。
体力的には大丈夫なんだけど、メンタル含めて疲れたので、汗の処理だけしてもう寝ようと思った。
洗面所に入り、新しいタオルを探す。さすがに先ほどまでフィオナが使っていたタオルを使うという選択肢はない。もしそんなところ見つかってみろ。ドSニート・フィオナさんが僕の存在意義をマイナスになっても抉り続ける様が目に浮かぶ。
シャワーでさっと汗を流そう、と思ったが、浴室乾燥がオンになり、擦りガラス越しに洗濯物が干されているのがわかった。まさかフィオナが洗濯機を使うだけではなく、干すところまでやるとは思わなかった。きっと明日はイグドラシル連合によって世界中が焦土と化すに違いない。
ちょっと興味本位で中を覗いてみようとバスルームのノブに手をかけたところで、
「そんなにひらひらと干された女の下着が見たいか」
「うおっ⁉」
いつの間にか、真後ろにフィオナが立っていた。ホラー映画みたいだ。心臓に悪い。
「い、いや、ちゃんと干してあるのかな、と思って――」
「という名目で視姦か」
「ごめんなさい着替えてすぐ寝るからその汚いものを見る目はもうやめてぇ!」
こうして、さっと着替えてすぐに寝ることにした。
なんかどっと疲れたので、ベッドに倒れて眠りに落ちるまでそう時間はかからなかったと思う。隣のリビングからきゃーきゃー悲鳴が上がるのも気にならないくらいには、僕の体は眠りを欲しているようだ。
早く寝るに越したことはない。
明日もきっとシミュレータとフィオナ先生の授業が待っているのだろうから。
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