第24話 ちゃうもん。
いつのまにか僕がいたのは、古い民家の小さな裏庭だった。あたりを見回すと、陸上競技の高飛びの道具のようなモノがある。でも、横向きの棒には、洗濯物が何枚か干しかけてある。
(ああ、物干し台か)
まだ途中らしく、たらいの中に、服やら手ぬぐいのようなものが、見える。
部屋の奥の方で、赤ちゃんの泣き声が聞こえる。「よしよし、どうしたん?」なだめるようにな声が聞こえてくる。それでも、なかなか泣き止む気配はない。
そのとき、小さな男の子が縁側からおりて、そこにあったつっかけを履いて、物干し台に近づいてきた。ぶかぶかのつっかけで、少しつんのめりそうになりながら、彼は、たらいに近寄った。中の洗濯物をつまみ上げると、それを広げて、竿に引っかけようとする。
どうやら洗濯物を干すつもりらしい。でも、大人には普通の高さでも、小さな彼には、なかなか届かない。一生懸命背伸びをしながら、手を伸ばす。
あと少し。……もう少し。
洗濯物のシャツは、やっと竿にかかった。次に、彼は、シャツの両端を持って、引っ張る。そして、きっと、いつも母親がやっているのだろう、シワを伸ばして、パンパンとたたこうとする。シワは上手く伸びない。背伸びしながら、シャツの裾を引っ張る。
そのときだ。バランスを崩した男の子の体が前につんのめった。無意識に干してある洗濯物をつかんだ彼の体は、すでに干し終わっている洗濯物や竿まで巻き込んで一緒に地面に転がっていた。ガターン。カランカラン。派手な音がした。倒れ込んだときに、たらいにもつまずいて、中の洗濯物も、いくつか巻き添えになっている。
思わず走り寄って抱き留めようとした僕の腕は、空を切って彼を素通りしてしまった。
どうやら、ここでは、僕は、意識だけの存在で、実体があるわけではないようだ。
倒れて土だらけの彼を抱き起こすこともできないまま、ただ見守っていると、彼は、一生懸命、両手についた土を払い、あわてて洗濯物を拾い上げる。それがすっかり汚れてしまっているのを見ると、すごくうろたえた。
家の奥の方から、赤ちゃんを抱いた女の人が出てきた。
「あ。かあちゃん」 ばつが悪そうに、彼は、握りしめた洗濯物を急いで背中の後ろに隠す。
「何やってるの!? またわるさしたん?」
「ちゃう。ちゃうって」
「あ~あ。せっかく干したのに……。ああ。また洗い直さんと……。もう、ええ加減にして」
母親の声は、心底嫌そうに、とがっている。赤ちゃんがまた声高に泣き出す。
「ちゃうもん。……わるさちゃうもん」
男の子の声はどんどん小さくなる。
「あんたね、あかんことしたら、まずはちゃんとごめんなさい、せなあかんって、言うたやろ? 何遍言うたらわかるん」
母親の声は、悲しみの混じったようないらだった声だ。
うつむいていた男の子は、
「ちゃうもん!」
吠えるように叫んで、庭先から家の外へ飛び出していく。
ぶかぶかのつっかけは、転んだときに脱げたままだ。
裸足の彼が、走って行く。
僕は、彼の後を追う。
少しゆるい坂になっている道を下って、彼は、隣家の庭の隅に立つ土蔵の横にしゃがみ込んだ。高く茂った垣根のせいで、彼の小さな体は表の道からは見えない。
しゃがんだ彼の膝小僧に、じんわりと血が滲む擦り傷がある。さっき転んだときのものだろう。
「わるさ、ちゃうもん」
そうつぶやいて、必死で泣くのをこらえている。それは精一杯の彼の意地なのだ。
そんな様子を見守りながら、僕は、彼がもちまるの元の姿なのだと、感じていた。そして、これが、彼が話してくれた、「あの日」のことなのだということも。
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