第55話 マンドラゴラのバーニャカウダパーティ

 ヤーコプさんが差し出したのは、オイルの中でちゃぷちゃぷ揺れる、魚の切り身が入った瓶だ。


 ツドミムからの帰り道、ヤーコプさんにもし仕入れたら売ってほしいとお願いしていたものなのだけれど、まさかこんなに早く持ってきてもらえるなんて!


「アンチョビ、手に入ったんですね! ありがとうございます!」

「実は帳簿を見たら、ちょうど海を渡って来た商人から仕入れていてね。といっても、わが国ではあまり売れ行きがよくなかったみたいだが……本当にこれでいいのかい?」

「はい!」


 私はうなずきながら瓶を受け取った。


 アンチョビは、塩漬けしたイワシを熟成させてからオイル漬けにした塩蔵品えんぞうひんだ。

 バーニャカウダソースが伝わるイタリン国では、伝統食材といってもいいものなのだけれど……確かにこの国ではあんまり聞いたことがない。


 私もコーレインの村にいた頃に、通りすがりの商人さんに少し食べさせてもらっただけだったもんね……。一度覚えたレシピは忘れないとは言え、ちゃんと作れるかな?


 私はもう一度バーニャカウダのレシピを復唱しながら、アンチョビを見つめた。


 ……うん、せっかくヤーコプさんが持ってきてくれたんだもの。今日は『れべるあっぷ食堂のマンドラゴラデイ』も開催されるし、出すなら今しかない!


「ドーラさん! リナさん! セシルさん! ちょっと、開店準備をお願いしてもいいですか!? 私、急ぎ今日の営業に間に合わせたい料理がひとつあって!」


 私の呼びかけに、みんなが振り向いた。


「いいよ! 任せといて!」

「ララちゃんの頼みならなんでもぉ」

「おっ? また何か新しいものを出すのかい? マンドラゴラの坊やはあたしが見てるから心置きなく作りな」


 キャロちゃんはまだ「ぴきゅぃ~」と音を発しながらカップの水に浸かっていた。

 それをカップごと持ち上げながら、ドーラさんが頼もしい返事で送り出してくれる。


「ありがとうございます!」 


 みんなの協力を嬉しく心強く思いながら、私は腕まくりをした。


「よし! 今から再現してみせるぞ……バーニャカウダソース!」


 使うのは、ヤーコプさんに届けてもらったアンチョビに、オリーブオイル、にんにく、それから牛乳だ。


 バーニャカウダはソース自体を作るのは難しくないのだけれど、ソースの下準備に少し時間がかかるの。


 私はちらりと時計を見る。開店まであと三十分……うん、ギリギリいける!


 私はまず、芯を取り除きながら切ったにんにくと牛乳、水を小さい鍋に入れて、火をかけた。


 牛乳の沸騰を待つ間にアンチョビを取り出し、包丁を使ってトントントントントンと細かく細かく刻んでいく。


 途中でリディルさんの『ぱんぱかぱーん、おめでとうございます』という声が聞こえて、レベルアップしたことを知る。

 本当はすぐにスキルツリーを確認したいところだったんだけれど、開店の時間が迫っているから、それはいったん後回しだ。


『んもう……せっかくレベルアップしたのに、このわたくしを無下にするなんて』

「ごめんなさいリディルさん! お詫びに今日はバーニャカウダパーティーをしましょうね!」

『では前に言っていたチーズフォンデュもつけてください。あれがないとお詫びとは言えません』

「わかりました!」


 構う時間がなくてすねるリディルさんをなだめながら、私はまた鍋に目を戻した。

 既に牛乳は沸騰しており、私はニンニクを捨てないよう気を付けながら、牛乳だけを捨てる。


 本当は牛乳を捨てるなんてもったいないことはしたくないんだけれど、今捨てた汁の中にニンニクの臭みが入っているのだ。

 だからここは心をオーガにしなければ。

 すべては、お客さんにおいしいご飯を出すために!


 歯を食いしばりながら、私は牛乳で煮て捨てるのを、もう一度繰り返した。やがてニンニクがすっかり柔らかくなったところで、包丁の背で潰して細かく刻む。

 先ほど潰したアンチョビと一緒に小鍋に入れたら、弱火にかけながらオリーブオイルを少しずつ少しずつ、足して混ぜ合わせてゆく。


 とろとろ、とろとろと、アンチョビとニンニクがオリーブオイルの海にすっかり馴染んだら、完成だ!


 スプーンでソースをすくい取り、舐めてみる。


 口に広がるのは、とろりとしたなめらかな味わい。けれどそこにアンチョビの塩気とにんにくの風味が、しっかりと舌を刺激してくる。


 んんっ! コクがあって濃厚……!!!

 こ、これはぜひとも野菜をつけなくては……!


 我慢できなくなって、私はそばにあったニンジンを少し切ると、あつあつのバーニャカウダソースにディップして食べた。


 口に広がるのは、甘いみずみずしい野菜と、そこにたっぷりねっとり絡みつく濃厚ソースの塩気。


 私はほぅっ……と息を漏らした。


 思った通り、ううん、思っていた以上においしいっ!

 これはもう、野菜とソースの結婚マリアージュだ……!

 野菜とソースが手と手を取って、頭の中で踊っているのが見える!


 私がうっとりしているのに気づいて、リナさんとセシルさんが声を上げる。


「あっ! ララだけずるーい!」

「本当だ、セシルも食べたぁい」


 つまみ食いしているのがバレて、私は頬を赤らめながら二人の分も用意した。すぐにリナさんとセシルさんが、たっぷりのソースをつけたニンジンをかじる。


「んんん! これ、めっちゃうま!」

「やばぁ。これから営業始まるのに、手が止まらなぁい」

「これこれ、つまみ食いばっかりしていないで、準備はできたのかい?」


 ドーラさんの声が聞こえて、私たちはあわてて口にニンジンを詰め込んだ。

 ごくりと飲み込んでから、笑顔で言う。 


「お待たせいたしました! 準備、できています!」

「よしっ。それじゃれべるあっぷ食堂、開店の時間だよ!」


 いつのまにかカップから上がっていたキャロちゃんも、オレンジの体をますますつやつやとさせながら私の方に駆け寄ってくる。


 それを両手で受け止めて、私は微笑んだ。


「キャロちゃん、食堂が営業している間は、ポケットに入っててくれるかな?」

「ぴきゅ」


 その言葉にキャロちゃんはうなずいた。


 ……もしかして、言葉、通じているのかな……? あとで確かめてみなくっちゃ。


 スキルツリーといいキャロちゃんといい、今日はやることがいっぱいだ。

 でもその前にまずはれべるあっぷ食堂!


 私がキャロちゃんをポケットに入れると、キャロちゃんは大人しくポケットの中に座り込んだ。


 すごい! マンドラゴラなのに、ものすごく聞き分けが良い!


 つくづくキャロちゃんは、他のマンドラゴラとは違うらしい。


 やっぱり変異体とかなのかな?


 気にかけながらも、私はれべるあっぷ食堂のドアを開けた。

 ガランゴロン、という音とともに、朝のヘシトレの風が頬を撫でる。


「いらっしゃいませ! れべるあっぷ食堂へようこそ!」

「はい、おはようさん」

「……こ、こんにちは」


 すっかりおなじみとなった鍛冶屋の職人さんに、毎朝必ず来てくれる眼鏡の化粧師ミランさん。彼は時々、ペトロネラさんと一緒にお昼に来てくれることもあった。


 他にも食堂に入るたくさんのお客さんをニコニコ見守っていると、後ろからリナさんたちも声を張り上げる。


「今日は『れべるあっぷ食堂のマンドラゴラデイ』だよ!」

「世にも珍しい、おいし~いマンドラゴラが食べられるよぉ」


 早速リナさんとセシルさんが、売り込みを始めていた。

 入って来たお客さんは『マンドラゴラ』という単語に眉をひそめる。


「マンドラゴラって、あのマンドラゴラ? すげえ苦いって聞いたことあるけど、うまいのか?」

「まぁまぁお兄さん、まずは食べてみなって。『れべるあっぷ食堂』がおいしくない料理を出すわけないじゃん」

「本当かぁ? そんなにいうならひとつ、試してみようじゃねぇか」

「それで、どんな料理が出てくるんですか?」


 眼鏡のミランさんにじっと見つめられて、私はことりと陶器製の小皿を差し出した。


「冷めてもおいしいですが、あつあつのうちはもっとおいしい、『マンドラゴラのバーニャカウダパーティ』です!」


 中に入っているのはもちろん、先ほど作ったばかりのバーニャカウダソースだ。


「ばーにゃかうだぁ?」


 お客さんが、すっとんきょうな声を上げた。

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