第274話 モーザ・ナセル・アルジャン
「モーザ様におかれましてはご機嫌麗しく……」
「おう、早かったなアサド。ありがちな前置きはいい。ウスランも壮健そうだな。そちらがお前らの客人だな? ……立ち話もなんだ、座れ」
中にいた女が笑顔を浮かべてアサドの挨拶を遮り、息もつかせない調子で話しかけてきた。男みたいな喋り方などもはや気にならないほどだ。
「ええ、彼らが私の客人でございます」
アサドは動じずに答えて腰を下ろした。こんなやり取りにも慣れているらしい。
おそらく、それなりの頻度で会っているのだろう。すぐに通されたのも納得のいく話だ。
ロバートたちも護衛のウスランが主人に倣ったのを見て彼に続いて腰を下ろした。
「ふむ、見た目はバラバラだな。同じ民族というわけでもなさそうだが」
ロバートたちへ興味深げに琥珀色の瞳を向けてくる女――モーザは、年の頃三十になるかどうかの中東系美女だった。
浅黒い肌にしっとりとした張りのある肌、くっくりとした目は円熟の美貌と呼べるレベルでいっそ蠱惑的ですらある。椅子に座っていても長い脚から長身なのがわかった。
ただ……それ以上に露出が多い。
この国の民族衣装はいくつかの布を重ねて色合いを出すのだが、彼女は最低限しか身に纏っていないせいで肢体が透けている。はっきり言って目の毒だ。
背中に棘のある視線を感じてロバートは視線を外す。やめてくれ、男の悲しいサガなんだ。
「それにしても変わった格好だな。見たことのない服だ」
――いきなりのご挨拶だし、露出狂寸前のアンタに言われたくない。
そう思ったが、バカにしたような気配はなかった。単純にそういう性格なのだろう。
「して、何処から来られたのだ? まぁ、まずは水を飲むといい。我が家特製のものだ」
勧められるままに出された水を飲む。
庭で取れた柑橘が入っているのだろうか、水からはほのかな香りがした。
「モーザ様、今日は彼らをイスファハーンの自由民としたく御挨拶に参りました」
アサドは依然として動じない。やはり慣れているのだ。
少しこちらに対して申し訳なさそうな気配が伝わってきた。まぁ、上位組織の人間には逆らえない部族社会の悲しいサガか。
「そうだったな。商売の方はどうだアサド? 塩の売り上げはわたしも気にしている。大事な税収だからな」
あちこちに話を飛ばしながら、モーザは控えている使用人に目を向け、果物の盛られた器を出してくる。
「商売はまぁいつもと変わらず、悪くはありません。塩の商売は固いですな。南方に出ている長男の商売もこれからといったところです」
「それで客人は?」
訊いておいて感想すら言わずに次である。実に忙しない。
「こちらは客人のロバート・マッキンガー殿ご一行になります。海を越えたアルメリア大陸よりの旅人です」
アサドが苦笑しながら果物に手を伸ばした。
「ロバート殿か。北に大陸があるとは聞いたこともあるが、実際に来た者を見たのは初めてだ。自由民にするのは構わないが、あなたたちは何ができるのだ? 姓を持つなら、位があるのか?」
相変わらずの言葉と共にモーザの目が細まって動く。礼服を見てただ者ではないと判断したようだ。
「お初にお目にかかります、モーザ閣下」
今度はロバートの番だった。
こういう相手には慣れていない。どうしたものかと思いつつ、手早く考えをまとめていく。
「我々は海を越えて北にあるアルメリア大陸より参りました。私自身は貴族ではありませんが、よんどころない事情でこちらの王女クリスティーナ殿下を南の大陸へお連れすることに相成りました。詳しくはお話しできませんが……」
「ふむ、王女とな。だが、望まぬのなら今は訊かないでおこう。それで、何ができる?」
やたらと思い切りがいい。“魔女”だから、あるいは単純に生まれ持っての性格か。
「元々は士官――軍人として、北の大陸では傭兵として、数々の戦場を潜り抜けてきました。このアフグナスタ帝国にはない技術や思想を知っていると思います。ひとまずこの地に落ち着いて諸国を巡り、見識を広げれば、お役に立てるのではないかと」
なるべく言質を取られないよう無難な言葉を選ぶ。
細かいことは擦り合わせなければならないが、いずれは技術や知識をアサドに買ってもらう話などはしておいた。
「知識を売るとは聞いたことがない……。なかなか面白いことを言うな」
探るような目がロバートを射抜く。少し背筋に悪寒が走った。
なるほど、為政者でありながら腕前も相当立つようだ。
これが“魔女”なのだろう。
「……よかろう。以後、我がナセル一門に連なり、イスファハーンの自由民となることを許す。細かいことは我が家から通しておこう。有能なら市民になれるよう励め。当座の資金が必要だろう」
微笑んだモーザはそっと立ち上がり、貨幣が入った重たい袋を使用人を通じて渡してきた。
「アサドは残れ」
つまり終わりということだ。
ロバートたちは一礼して退室した。
「なんというか……」
「あっという間の出来事でしたね」
廊下を戻りながらマリナとサシェが長い息を吐き出した。
ひと言も発しなかったが、空気に飲まれ疲れてしまったらしい。
「嵐みたいな女だったな。ああいうのは苦手だ」
スコットも頷いた。
「あれで“イスファハーンの魔狼”と呼ばれるくらいには強い魔女なのだぞ?」
ウスランは咎めるでもなく苦笑していた。彼も本音では同意しているのだ。
「実力と性格はまた別の話ってやつだな。だが、政治も得意そうだ」
「紹介はしたが、深入りする時は気を付けろ。ここ数年、一門の勢力を広げるべく日々動かれている」
紹介する前にそのあたりも説明しておいてほしかった。
去り際の射抜くような視線――ロバートはなんとなく目をつけられたと感じていた。
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