第238話 マインドファック
訓練開始からあっという間に二週間ほどが過ぎた。
今日も今日で訓練兵たちは朝から延々と走らされる。
「しっかり足を上げて走れ! いつになったらまともな二足歩行の人間になれるんだ!!」
「ナメクジみたいに走ってるんじゃねぇ! 疲れたから走れませんが戦場で通じるわけねぇだろ!」
「本番でやらかす前にこの場で死ぬか!? あぁ!? さっさとおっ
泣こうが反吐を戻して倒れようが、水をぶっかけられて「化粧直しだ」と言われて走らされる。
待ってる間、周りは連帯責任で腕立て伏せだ。
頭がおかしくなる寸前まで罵倒されれば、誰だって死ぬ気で走るしかない。初めの頃は気絶する人間も何人か出た。
冗談抜きに死んでしまうかもしれないと皆が思ったほどだ。
実際、ある時耐えきれなくなったひとりが泣きながらこう言った。
「このままでは死んでしまいます!」
「そうか、死んでから休めばいい。――駆け足用意!」
平然と返されてはこれ以上の反抗などできなかった。
そのくせ彼らは自分たちよりもずっと長く、しかもぶっかける用の水を背負って走り続けられるのだ。
人に苦痛を与えるためにここまでやるのは狂人以外の何者でもない。
もはや訓練中隊内に教官たちを侮るような
こうして振り返ってみれば、訓練は想像すらしていなかったほどの過酷さだった。
ただ、これでも始まったばかりの頃から比べれば、ずっと長い時間走っていられるようになった方だ。
「つ、つらい……」
「遅れないでくださいまし、またドヤされますので」
「あとちょっとだ、頑張れ」
短期間で劇的に体力が向上するものではない。辛いものは辛いのだ。
毎日走らされる距離は、騎士団結成時に受けた訓練を思い起こしても常軌を逸したレベルだった。
「よーし、少しは走れるようになってきたな、お嬢様ども! 段々とメニューを変えていくぞ!」
ヴァネッサだけでなく訓練兵全体がある程度走れるようになると、教官たちは訓練の難易度を上げてきた。
単純に走る距離をもっと増やしたり、ペースを上げて時間内に目的地まで辿り着くよう命じたり……。
しばらすくすると、今度はその過程で障害物――高く組んだ木や丸太を越えさせたり、ロープを登ったり降りさせたりも加わった。
「前が下がって来てるぞ! もっと腕を上げろ上げろ上げろ!!」
「ババアみたいな顔でやるな! 訓練が辛くて閉経しちまったのか!? もっとちゃんとしろ!」
「そこのおまえ! 脇毛の処理ができてねぇから恥ずかしいのか!? チームで全身の毛を剃らせるぞ! 丸坊主にしてやろうか!」
中でも特にキツかったのは丸太をチームで持ち上げて走るメニューだった。
途中からもうすでにキツかったが、最後の方は本気で腕が肩で千切れるかと思った。
「敵に見つからないよう素早く移動できる手段も身に着けておけ!」
「ケツが上がってるぞ! 汗臭い身体で男を誘ってんのか雌豚が!」
剣や槍など各自の武器を持ち、這いずったままの姿勢で素早く移動する訓練もやった。
兵卒同然――いや、それ以下にさえ感じられる訓練を受ける意味がわからない。
こんなのは徴用した農民にやらせればいいはずだ。
「皆イカレてるわ。自分たちを痛めつける以外に意味なんてあるのかしら?」
訓練兵たちはそう思った。
しかし、初日に散々痛めつけられたため、命知らずの意見を上申するような人間は出てこない。
それどころか経験があるはずの剣や槍を相手にも、教官たちは彼らの武器で騎士団を圧倒してのけた。
「ちょっと、コンスタンツェ。あんた訓練内容が厳しすぎるって教官に言いなさいよ」
「嫌です! 今度こそ殺されてしまいます!」
「最初みたいに声を上げるだけでしょ」
「もう二度とあんな目に遭いたくありません!」
夜の消灯までのわずかな自由時間でそんな話が出たりもした。
――カテリーナ様のお立場もある。なんだかんだ言っても訓練で殺されはしないはずだ。
話を聞いていたヴァネッサはそう思ったが口にはしない。
もしも油断の空気が漂えば、教官殿たちはすぐにそれを感じ取り訓練に反映してくるだろう。
とはいえ、追従できるよう動きを効率化しなければ死の危険があることは事実だ。
――中隊副指揮官としてやるべきことは……
「それぞれの訓練で疲れていない人間のやり方を共有しよう」
「足の動かし方とか――」「呼吸方法は――」
いつの間にか受け身ではなく、考えて訓練を受けるようになっていた。
だからこそ新たに気付くこともある。
ある程度走っていると辛さが消えてすこしずつ気持ち良くなってくることや、水を飲む際に一気に飲むのではなく少しづつ複数回に分けて飲むと喉の乾きを感じにくくなるなど……。
座学で教官たちは理屈を説明していたが、説明されても詳しい仕組みはあまり理解できなかった。
だが、訓練が楽になるなら歓迎だ。細かいことなど考えるのは後でいい。
「よし、今日も脱落者は出なかったようだな!」
これほど厳しい訓練にもかかわらず脱走者は今のところ出ていない。
当然の話だった。
脱走を阻止するため、訓練場周辺は棘のついた金網で囲まれている。
もっとも、それなら本気を出せば乗り越えて逃げ出せるだろう。
だが、本当の理由はそこではなかった。
騎士団を辞めて実家に帰る?
カテリーナに頼めば叶うかもしれないが、多くの者に帰る場所などない。
実家が
つまり、聖女の庇護の下に身元が保証されているようなもので、逃げ出した時からまともな人生は歩めなくなる。
他の修道院で世を儚むか、いっそすべてを捨てて冒険者となるか。
「万が一、除隊したくなった者は遠慮なく申し出ろ」
「無許可で脱走しようとする不名誉除隊の不届き者でさえなければ我々は構わん」
「勝手に逃げ出すようなクズがまともな人生を送れるはずもないがな。盗賊になる前に始末してやる」
当然のことながら効果は抜群だった。
訓練でさえここまでの苦痛を与えてくるのだ。
処刑となれば遺体も残らない死に方をさせられるかもしれない。それくらいなら訓練で死んだ方がマシだ。皆がそう覚悟した。
この時点で確実に軍隊に毒されているが誰も気付かない。マインドファック成功である。
「この訓練、いつまで続くんだろう……」
「除隊は止めないって言ってたわよ?」
「そうじゃないわ。ただ、終わりが見えないのは……」
「訓練が終わっても今度は本物の兵士になって訓練、それか実戦に投入されるだけよ。やることは変わらないか、もっとキツくなるでしょうね」
「それこそ、教官殿がおっしゃっていたとおり死ぬまで!」
「「「あははは!!」」」
行くも地獄、退いたら本物の地獄。
仲間内くらい軽口を叩き合わねばとてもやっていられなかった。
今でもこうして弱音を吐くのだ。
口には出さずとも逃げ出したいと思っている人間がいないはずがない。
「カテリーナ様は、我らが教会に頼らずとも生きていける場所を作って下さろうとしている。我らはそれに応えるだけだ」
ヴァネッサは中隊を励ます。
騎士団長として日頃から鍛えており、訓練にいち早く順応しつつあった彼女でさえ、一度たりとも脱落も考えたことがないかと訊かれれば否とは言えなかった。
「わたしだって楽だと思ったことはない。もう少し頑張ろう」
弱音を吐く他の訓練兵を責めようとは思わない。
誰も逃げ出そうとはしていないからだ。
兵士になれず無様に脱落したくない感情もあるが、何よりも皆がそれぞれに苦しんでいる。
誰も彼もクタクタでボロボロだ。訓練のために自慢の髪を切った者だっている。
自分だけ逃げ出すことはできない。
同じ訓練を受け、同じ辛さを味わっている。言葉になどしなくても身体で感じているのだ。
「我らは常に仲間と共に。儀礼部隊から“本物”へ生まれ変わるため――」
いつしか、騎士だとか従士だとか、くだらないことを考える
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