第187話 世界でいちばんアツい夏
いよいよ季節は夏本番に近付いている。
教会本部イノケンティウムに降り注ぐ陽光は日増しには眩しさを強めていた。
潮騒の海沿いを歩けば、水面からの照り返しで余計に暑さを感じるが、空気中の湿度が控えめなため汗にまみれてしまうようなこともない。
「いい気候だ。夏だってのに穏やかだし……」
白い麻のシャツにダークブラウンのベスト、ベージュのズボンを履いた美丈夫が海の方を見て目を細めた。
明るい茶色に染めた髪と
石畳を敷き詰めた道の所々には街路樹のように南国の木々が植えられていた。
メインストリートに立ち並ぶ白亜の建物と相まっていかにも涼しげに見える。
街のすぐ側には海水浴でもできそうな砂浜があり、波を寄せ返す海の上からは陽光が燦々と照り付けてくる。
仄かに漂う磯と潮の香りに、海を渡っていく鳥たちの鳴き声。
吸い込まれそうなほど青々とした空が広がり、遥か南――アウリア大陸へと続く海の彼方には積乱雲の姿。
地球とは少し異なるが、夏を凝縮したような風景がここにはあった。
――ただ、日差しの強さだけは減点だな。サングラスが欲しい。
「お国はそうでなかったのですか?」
傍らを歩く女が問いを投げかけてきた。
深紅の髪に同じ色の瞳、それと印象を変えるための伊達メガネ。
エリックと同じく、カテリーナの変装姿だった。
いつぞやしていた商会の支店長風の格好をずっと男装寄りにしているが、あくまでも女性とわかるレベルだ。
元々の素材が非常に良いので変装していても別の意味で目立つ。
さすがに特殊メイクして平均的な容貌にはしなかったが、魔法を使っているわけでもない以上、かなりの部分は誤魔化せるだろう。
いかに位階を持たずとも、ここでのカテリーナは枢機卿に並ぶ有名人だ。
変装にしても、ほんの数名にしか知られていないエリックより数段念入りである。
もっとも、本人にあまり気にした様子はないが。
「故郷は――そう悪いところじゃなかった。都会じゃないが自然も多く住みやすくて……」
不意に湧き上がった郷愁の念を振り払ってエリックは笑いかけた。
「でも、仕事の関係で別の国にいたりしてな。そこの夏はかなり暑かった。砂だらけで何もなかったり……」
海岸の砂浜じゃないぞ、と付け加える。
ちなみに、砲弾が基地に挨拶のように撃ち込まれたり、爆弾を満載にした車が時折祈りの声と共に突っ込んで来るとは言わないでおく。
さすがにそこは空気を読んだ。
「そうでしたか。以前、南のアウリア大陸にそうした場所があると聞いたことがありますわ」
カテリーナは昔の記憶を手繰って答えた。
「行ったことはないのか?」
「あのようなことでもなければ、元々わたくしは……」
珍しくカテリーナは寂しげに答えた。
無意識の行動だろう、視線が遠く海の向こうを見ている。
本来自由ならざる身の彼女としては、知らない世界を見てみたい。そうした気持ちになるのかもしれない。
「
エリックは本心から驚く。
少しばかり南に行った場所には、各国の貴族や裕福な商人が短期利用するための貸し出し別荘が街ごと整備されているらしい。
過去の勇者が伝えた知識という、まことしやかな噂がある。外来種が資本主義の種を蒔いたのだ。
「教会は運営に関わっておりませんので」
街の自治権は商人連合に委ねられており、教会は関与していないことになっている。
もちろん、それを頭から信じている人間は少ない。フロント企業があちこちにあるのと同じで、皆厄介ごとに巻き込まれないよう見て見ぬふりをしている。
「……ああ、そっちは守備範囲外だったか」
「ええ。どうやら縁がなかったようです」
誰がどこでどのように聞いているかわからない。そのためエリックもカテリーナも言葉を選んだ。
街を歩くふたりは、聖地巡礼に来た商人の若夫婦を演じている。
ただ、初々しさは演技ではなかった。隙さえあればカテリーナが嬉しそうに引っ付いてくるのだ。
エリックにはわかる。これは“素”だと。
「ふふふ」
「どうした?」
不意に笑ったカテリーナに、エリックが問いかけた。
邪悪なモノは感じなかった。
だからといってこの聖女のことだ、素直に安心できるわけもない。
「こうして歩いていると、まるで本当の夫婦のようですわね」
――そう来たか……。
不意打ちで外堀を埋めに来た。
いや、事前準備もしていたに違いない。
潜入を決めた際にも「巡礼者の
現地人の言葉だからと素直に受け入れたが、こうなる可能性を失念していた。
周りも面白がって指摘しなかった可能性まである。
「そう、だな」
不承不承な気持ちを極限まで殺して答えた。
「お望みとあればどこでも案内して差し上げますわ、旦那様」
見るからにカテリーナは上機嫌だ。
ロミルダがここにいたらあまりの仲睦まじさ(見た目は)に嫉妬の炎を双眸に燃やしたかもしれない。置いてきて正解だった。
引っ付かれるエリックは「こんなに目立ったんじゃ、変装した意味がないのは?」と思うが、“妻”のスキンシップに水を差すのも夫婦らしくないとそのままにさせている。
あるいは、忍ぶ気配もないほど目立つことで「まさかこんなバカップルが重要人物のわけがない」と見過ごされるのを狙ってか。
……どうだろう、そこまで考えているか怪しいものだ。
「婚姻届けを提出した覚えはないが」
「まぁ、お願いしたら出していただけるのですか!?」
わざとらしい。
言質を取ったつもりだろうかと思うも、カテリーナはこんな感じでもセコい真似はしない。
あくまで自分をからかうためだろう。
「言ってない言ってない」
かえって墓穴を掘ってしまったと自由な方の手を軽く振って訂正する。
「そんな、わたくしとは遊びだったのですか……?」
腕に抱き着いた手の力が入った気がした。
痛くはないが痛い。そのうち胃も痛くなってきそうだ。
「はぁ……若い女連中を侍らせてたヤツがよく言うよ……」
「まぁ! 心外ですわ。あれは絆を深めるためです。互いを理解するためには必要なものですのよ?」
馬鹿を言うな、指先を触れ合わせる宇宙人とのコミュニケーションじゃないんだ。そんなわけがあるか。
思わずエリックはツッコミを入れそうになった。
――そこまで奔放にしてこじれないなら世に宗教なんて不要になる。いったい何を考えているんだ、この性女は。
これくらいは言ってやりたい衝動に駆られたが、自分にもいくらか跳ね返ってくるので止めた。
「そういうことにしておくよ……」
まともに相手をすると疲れるので、適当に流す。
実際、これだけのやり取りでも疲労感が湧き上がってきているのだ。
「お疲れですか? 宿に戻って休みますか?」
「それじゃ休憩にならんだろう……」
自分とカテリーナでは休憩の意味が異なる。そこは理解していた。
『准将、群衆の真ん中でイチャコラするのやめてもらっていいですか?』
耳に装着したワイヤレスイヤホンを通してロバートの声が聞こえた。
平静を装ってはいるが胸の中で心臓が跳ねた。
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