第177話 湯煙の中には~前編~


「あー」


 周りに誰もいない環境で気が緩んだのだろう。自分でもさすがにどうかと思う声が上がった。

 もっとも、頭ではそう理解していても、間の抜けた声を身体が止めようとしない。


 声の主――エリック・J・マグレイヴン海軍大佐は、現在ヴェンネンティアではなく故あってパラディアムにいる。


「やっぱり湯船にかった方が落ち着くな……」


 温かい湯で顔を洗うと意識もより一層覚醒してきた。

 彼は朝の貴重な自由時間を利用して公設浴場へとやって来ている。


 併設されている大浴場へ行けば増え始めた市民との交流もできるが、地球と違って彼には〈パラベラム〉司令官の身分もあるためVIP用の露天風呂に入っていた。

 顔も知らない誰かと気安い話はできないが、その代わりにゆっくりとひとりの時間を楽しめる。

 いわば特等席だ。


「ホント日本人ジャパニーズは風呂が好きだな。まぁ、気持ちはよくわかるし、おかげで恩恵には与れているが……」


 公衆浴場が整備されたのは、設備さえあればどこでも銭湯を作れる日本人の仕業ではなく――厳密に言えば違うとも言えないのだが――井戸を増やそうとした工兵部隊が温泉を掘り当てたからだ。


 異様なテンションで喜びの声が上がった後はとにかく早かった。

 目付きまで変わった日本人たちが全力で工事を行い、あっという間に施設が完成した。

 主力の工兵たちが教会討伐軍の侵攻を阻止するため、クロスノスクに基地を作りに出向いていたにもかかわらずだ。


 いったいどこからそんな意欲が湧き上がるのか。


 エリックはそう思うが、風呂大好き民族の執念ともいえる欲求が無理と思われたスケジュールを可能にしたのだ。

 当時の部隊長が「資源は召喚可能、ならばやるだけだ」と言った顔は、誰が見ても完全にキマっていた。


 ――まぁ、休める場所があるのはいい。戦はあっても娯楽は少ない世界だ。


 常に様々な政策は考えているが、そこまで人手を必要とせず、それこそ市民の雇用にも繋がるなら使わない手はない。


「んー! しかしいいのか……。俺だけこんなところにいて……」


 両手を上げて小さく伸びをすると湯面に落ちた水滴が音を立てた。


 手持ち無沙汰から増えてしまう独り言のぼやきにあるように、今回エリックは教会討伐軍との戦には参加していなかった。


 予期せぬ“ゲスト”がやって来たため、そちらの対応をハーバートから押し付けられ――もとい、任されたのだ。


 大佐ともなればそういう立場ではないと理解はしているが、ずっと軍人として部隊を率いてきた身としては少し寂しい気もした。


「やっぱり後方でふんぞり返っていてくれる将官をぶべきだな。――ん?」


 そこでふと人の気配を感じた。

 VIP用ここに入ってくるということは〈パラベラム〉の誰かだろうか。

 佐官に気を遣ってあまりこちら側に来る者は少ないと聞いていたが。

 

「――あら、奇遇ですわね」


 湯煙の向こうに人影が浮かび上がり、次いで姿を見せたのは――“聖女”カテリーナだった。


「んなっ……?」


 本日何度目かの間の抜けた声が漏れた。

 驚愕が混じっているため声の種類はそれまでとはいささか異なるが、いずれにせよ普段冷静沈着で知られた彼らしくはない。


「ごきげんよう、エリック様」


 カテリーナは驚くこともなくにっこりと微笑んだ。

 まるで獲物を見つけたように感じたのは気のせいだろうか。


「待て! なんでここにいる!?」


 予想外の事態に思わずエリックは声を上げると同時に飛び上がってしまった。

 これではまるで裸を見られた側の反応である。


 対する彼女はおそろしいことに一糸纏わぬ裸。

 いや、ここは風呂なのだから当然と言えば当然なのだが……。


「あら、そういった声もお出しになられるのですね」


 珍しいものを見れたとカテリーナは満足気な笑みを浮かべていた。


 エリックの狼狽を他所に、性――もとい聖女は均整の取れたプロポーションを惜しげもなく晒している。

 誰に見せても恥ずかしくない。そう言わんばかりだが、堂々とされると見る方は困るしかない。


「……からかうな。それより俺の質問に答えてくれないか」


 エリックはわずかに視線を外し、浮かせた腰を湯の中に再度沈めた。


「ここに来れば湯浴みができると街で聞きまして」


 そういう話をしているのではない。わかっていてからかっているのだろう。


「違う違うそうじゃない。教会の戒律とかそいういうのはいいのかって意味でだな……」


 混乱する思考を必死に働かせて、エリックは更なる状況悪化を回避しようと試みた。


 しかし、こうして堂々と入って来ている時点でその問いはナンセンスだ。

 仮にそんなものはあっても意図的に無視しているに違いない。


「湯浴みは禁じられておりません。それに要人用の区画と聞きましたし。護衛のたちに邪魔する――もとい、余計な誰かが入って来ないよう見張らせております。問題ありませんでしょう?」


「いや、俺が入っているんだが……」


 問題大ありだ。下手をすれば特大スキャンダルではないか。

 地球ならきっとこうだ。


 ――“駐留軍司令官、聖剣教会の聖女と禁断の密会!?”


 考えるだけで頭が痛くなってくる。湯あたりしての反応ではないはずだ。


「では失礼いたしますわ」


 どうしたものかと悩んでいるエリックなど意に介さず、カテリーナは彼の真横に座る形で入浴しはじめた。

 止める間もない。


「……失礼だと思うならやめてくれ」


「もう……。お若いのにつれない反応ですわ……。わたくし、それほど悪くない見た目をしていると思うのですが……?」


 不満顔をしたカテリーナが、そっと身を寄せて耳元に囁きかけてきた。


 肌と肌が触れ合う。血行がよくなっているせいか妙に感覚が鋭くなっている。

 困ったことに


「見た目云々の話をしているんじゃない」


「では、どのような?」


 吐息がより近くなった。

 非常によろしくない。この世界に来て肉体年齢は二十そこそこにまで若返っているのだ。大事なことなので二度言うが、とてもよろしくない。


 この世界に来て以降、“そうした感覚”に浸る間もなく動いてきた。

 ひとたび意識とするとなんとも耐え難い。割とギリギリだった。


 ――クソ、これが若さか……!


 まったく予想外の事態ながら――いや、だからこそだろうか。

 エリックはこの世界に来てから最大の決断を迫られていた。

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