第169話 夏が来る


 吸い込まれるように青く透き通った空と、燃え盛る太陽から降り注ぐ灼熱の日差し。

 吹く風はなく、暖められた空気は地面からの湿り気を帯びている。


 夏の気配が日増しに強まっている。


 クロスノク平原に展開した聖剣教会軍の兵士たちは否応なく気付かされた。


 西方国家から抽出した兵力を中心に、東方討伐軍として派遣された彼らの総兵力は九五〇〇。

 竜騎士団ドラゴナイツ以外の全兵科が揃った、地球での軍編制になぞらえれば一個師団規模の軍勢だ。


 叛逆者を滅ぼすためいくつもの国を越え、今や敵の砦をすぐ間近にしている。


 彼らの戦意は――厳しいところにあった。


「はぁ……あちぃ……」


 鎧の下で絶えず浮かび上がる粘ついた汗が、感触と臭いの複合的な不快感を生んでいる。

 流れ落ちる汗が目に入ったことで、ひとりがついに我慢の限界を迎え声を上げた。

 目に沁みて痛い。蓄積した不快感に耐えられなくなった。


「ホントだぜ……。こんな時期に戦をしなくてもいいのによぉ……」「聞いたか? 何人か暑さで倒れたって言うぞ」

「そいつらどうなったんだ?」「負傷者用の天幕に一番乗りだ。まぁ、戦には間に合わんだろうな」「は、もしかしたらそっちの方が幸運かもな。相手は得体が知れないみたいだし」「得体が知れない?」「異世界から来たとか……」「じゃあさっさと片付けたかったのか? 余計に勘弁してほしいぜ」


 長槍の柄を肩に預けた兵士たちから疲労交じりの声が次々に上がった。

 誰かが口を開くをのずっと待っていたのだろう。呼応する兵士があちこちから現れる。


「うるさいぞ。愚痴を吐くな、余計に暑くなる」


 今度は真面目な性格の兵士が無駄口を叩くなと彼らを注意する。

 しかし、その程度ではなし崩しに広がっていく兵士たちの会話は止められない。


「黙っていたって暑いんだよ。夏にやんなよ、夏に」

「季節なんか考えてたら戦なんてできねぇよ。冬になったら雪で動けない」

「その前の秋は収穫期だ。余計に兵力なんて抽出できない。春が過ぎた時点で今しかないだろ」

「それはわかってるが……。交渉で何とかならなかったのか?」

「教会の面子が許さなかったんだろうよ。相手は聖女候補筆頭と目されたんだ。叛逆なんて許せば権威が揺らぐ。何が何でも潰したいんだろ」


 ついには隊長格の兵士まで呼応し始めた。


 ひとたび士気が緩むとどうにもならない。

 なにしろこうも暑いのだ。ただ立っているだけで疲労が増す。

 当然、これまでの行軍の不満も溜まるに溜まっている。


「いい加減にやめろ。僧兵に聞かれると面倒だ。戦う前に首と胴が離れちまうぞ」

「なぁにが僧兵だ。位階だって司祭程度だろうに」

「そうだ、自分たちだけ馬車で移動して天幕に詰めてるとはいい身分だぜ」


 教会直轄軍ではないため兵士たちの信仰心は推して知るべしだ。

「地方のに本命戦力は出せない」――それが現時点における教会の本音なのだろう。


「おい、いい加減にしとけ。庇えないぞ」

「へいへい、黙りますよ」


 さすがに隊長たちの声色が真剣なものになったため兵士たちは軽口を止めた。


「しかし……どうにも不安が拭えないな……」


 言い知れぬ予感を覚えた歩兵部隊の指揮官は、周りの誰にも聞こえないよう小声でつぶやいた。


 討伐軍は既に布陣を終えており、草木もまばらな平原の向こう側には敵の築き上げた砦が見えた。


 こちらの動きを察知した敵軍もまた、すでに軍の布陣を終え開戦間近の状態だ。

 数は――ざっと五〇〇〇といったところか。


 自分たちと比べ、兵力は明らかに少ないというのに動揺がほとんど見られない。これは不自然だ。


 ――なにかあるのでは。


 誰に言えるものでもない、直感と呼ぶべきものが警鐘を鳴らしていた。




 戦意が高まっている者たちは兵士ではなく、小高い丘に設けられた天幕の中にいた。


 過日の屈辱的な会談を終え、怒りのままモレッティ大司教に志願した者、または“推薦”を受けた者たちが討伐軍の幹部となりこの地に立っている。


 すべては神に刃向かう愚か者どもを滅ぼすため――


「討伐軍、布陣完了いたしました」


「ご苦労」


 兵士の報告を受け、僧兵たち――戦場に派遣されると僧侶の位置づけはそう変わる――が鷹揚に頷いた。

 鎧の上に僧衣カソックを改造した広袖の上っ張りを着ており、ひと目で位階を持った僧兵だとわかるようになっている。


「ふむ、急拵えの割にはしっかりした砦に見えますな」


 助祭の位階を持つ僧兵が東方を眺めて言った。

 降り注ぐ日差しが遮られるだけでなく、僧侶の従者に空気を“循環させる魔法コンエアー”を使わせているため外に比べてかなり涼しい。


「いかにヤツらが愚かとはいえ、向こうもこの戦いに負ければ後がない。それくらいは理解しているのだろう」


 総指揮官である年嵩の男――カミッロ司祭が運ばせた椅子に腰を下ろして答えた。


「ふん、所詮は無駄な抗いよ」

「然り、我々にはワイバーンがいる。あれをどうにかできる手段はない。魔族どもにもな」

「まったくです。我ら神の地上代理人に敵はおりません。必ずや勝てましょう」


 その他の司祭・助祭の位階を持つ僧兵たちが口々に気炎を上げた。


 天幕の中の雰囲気は概ね楽観的、もっと言えば相手を侮る方に寄っている。


「単純に兵数で二倍近い差がある。これが教会軍の力というものよ」


 ひとりの放った言葉。彼らの意識はこの言葉に集約されていた。


 攻める側には古来より相手と比べて約三倍の戦力が必要とされているが、愚かなことに相手は砦から出て来ている。

 このまま緒戦で数を減らしてしまえば、たとえ籠城されたところで少数で突破できる。


 なによりも――連中には。あとはワイバーンで焼き払うだけだ。


「…………」


「どうした?」


 緩んだ空気の中、ひとりの司祭が言葉を返さず何やら思案している。見咎めた同僚が問いかけた。


「いえ、空から一方的にやられることくらい向こうも理解していると思いまして。それにしては砦を設けるなど少々妙ではないかと」


「フン、使者を相手に啖呵を切って引くに引けなくなったのだろう」

「過去には意地だけで戦った蛮族もいたという。それと同類だったのだ」

「亜人に味方をするくらいですからな。はははははは!!」


 やはり多くの者は事態を重く見る気配がない。


「兵の士気が高いうちに片付けるぞ。軍を進めろ。攻撃を開始する!」


 司祭は椅子から立ち上がると、各兵科に割り当てられた伝令兵に侵攻開始の指令を出した。


「「「応!!」」」


 主導権はこちらが握っているのだ。相手がどうだといった事情など勘案する必要は微塵もないのだ。


「伝令! 緊急です!」


「なんだ!」


 駆け込んできた兵士を見てひとりの助祭が怒鳴った。

 気分がいいところで水を差されたように感じたのだろう。


 伝令兵は一瞬だけ不満げな顔になるも、教会相手に機嫌を損ねては拙いと思ったのかすぐに表情を消して口を開く。


「スロブスチアから借り受けていた砦が襲撃を受け! 生き残りの兵士がそれを伝えに!」


 瞬間、天幕の中に衝撃が走った。


「しょ、消滅だと!?」

「バカな!! ワイバーンはどうなったのだ!?」


 驚愕が瞬く間に伝播していく。

 視線が伝令兵に集まる。彼には選択肢もなく、ただ続く言葉を発するしかない。


「すべて――落とされたということです」


 時間が止まったように感じられた。


 遠くから兵士たちの声が聞こえる。それが突如として轟音により掻き消された。



 すでに驚愕が限界を超えている彼らは――それが銃声とは知らない。

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