第165話 恋に落ちる音がした
「――驚かせてしまいましたね。ご無事でしょうか?」
抱き留めたままの状態でエリックは視線を真下のカテリーナに向けた。
安全の確認に時間をかけ過ぎたが大丈夫だろうか? 異世界に来てまでセクハラで訴えられたくはない。
「まさか、これも……わかっていたのですか……?」
エリックを見上げるカテリーナの紫の瞳に疑問の色が混じっていた。
「少々答えにくいのですが……」
問われたエリックは彼にしては珍しく困ったように頭を掻き、立ち上がりながらゆっくりとカテリーナの手を引く。
「カテリーナ様は当代聖女、政治力がおあり――というよりは象徴的な存在です。ならば、この機に政敵が排除に動くかもしれないと予想していました」
覚悟を決めたエリックは口を開く。
襲撃があった以上、今更隠しても仕方ないと思ったのもある。
そもそも探られたくない腹があるわけでもないのだ。
「この時期に……?」
「この時期だからこそですよ」
エリックは静かに首を振った。
「我々がやったことにすれば敵愾心を煽れますし、傍観を決め込んでいる国も引っ張り込めます。それでいてクリスティーナ殿下と同時に葬れる絶好の機会を、果たして彼らが見過ごすでしょうか?」
彼女を追いかけていればクリスティーナにも行き着く可能性は高い。
戦争を利用して権力を掌握したい人間からすれば、邪魔者をまとめて処理してしまうまたとないチャンスだ。
「それを、あの子は知っていて……?」
ロバートと話しているクリスティーナに視線を向ける。
「ええ。殿下は承知の上です」
エリックは頷いた。
必要とあれば味方でも最大限利用する。そんな冷徹さが垣間見えた。
「正直、教会がどれほど内部に火種を抱えているのか確認しておきたい部分もありました。そしてそれをあなたに直接お見せするためにも」
つまり、カテリーナの身に危険が及ぶことを承知で試したのだ。
ロミルダとゾーエがわずかに腰を落とす。
主人に危害を加えるつもりなら、たとえ勝てないとわかっていても立ち向かうつもりなのだ。
その姿勢を見てもエリックは一切動じない。逆に言えば戦うつもりなど毛頭なかった。
「ふふふ。怖い御方ですのね、エリック様は」
カテリーナは微笑みながらそっと手を掲げた。
護衛に「動くな」と合図を出したのだ。漂う色香も今はなりを潜めている。
「本当に仕掛けて来るか確信はありませんでした。ですが、その場合は我が身に代えてでもおふたりを守り抜くつもりでした。あなたがたは、つまらぬ
どこまでも淡々と、それでいて鋭さを感じる青年の語気にカテリーナは小さく身震いした。
まったくないと言えば嘘になるが、それ以上の衝撃を受けたからだ。
――ああ、この人は……。
どこまでも計算し策を重ねた上で、自らの命すら賭して動こうとする確固たる信念。
聖女はそれを本能的に感じ取ったのだ。
「疑ってなどおりませんわ。あなたはわたくしを身を呈してお守りくださった。それも一度ならず二度までも」
自分を見据えるコバルトの視線を意識すると、カテリーナは下腹部が熱くなる感覚に襲われた。
「今……確信しましたわ。あなたがたは魔王などではありません」
護衛のふたりが「嘘だろ」と言わんばかりの表情で主人を見た。
「むしろ、この世界に新たな秩序をもたらす“覇王”となり得る方々でしょう。魔族にとっては劇薬、ただし人類にとっても……」
「それは……買い被りというものです」
一瞬驚きを浮かべたエリックはそっと首を振った。
聖女殿は襲われた興奮から冷めず、ちょっとばかり気が
所詮自分たちは軍人。ちょっとばかり戦うのに慣れているだけで、そんな上等なものではない。期待されても困る。
「いいえ。この疲弊した世界で、己の主義主張を叫ぶのみならず道理まで通さんとする者はほとんどおりません。あなたがたは立つべくして立った――いえ、この世界に遣わされた存在なのでしょう」
――これはいいのか?
チラリと視線を向けるとミリアはジェームズと何やら話していた。
こちらの会話に関心があるようには見えない。“管理者”から派遣されている彼女の心の内はわからないが、おそらく危惧するようなことはないのだろう。
あるいは、これすらも想定された流れの中にあるのか。
「当代聖女からそう言っていただけるのはありがたいのですが、あなたは教会の人間だ。そこまで口にするのはあまりに危険では?」
罵倒されるよりは遥かにマシだが、カテリーナの真意がわからない。
「聖剣教会は時として勇者すら擁する人類の守護者です。しかし、それを嵩に僧籍にある者が思いのままに振る舞って良いものではありません。そのような組織となり果てたのであればあらためられるべきです」
「あくまで宗教の役目は安寧秩序を保つためにあると」
「有り体に申し上げれば。それゆえに、教会の一部の者からすれば、聖女の立場から改革を行おうとするわたくしが邪魔になったのでしょう」
類稀なる治癒魔法を持つ聖女でも、政治的に邪魔となれば排除するのか。
そう思ったが、有能な者が必ずしも歓迎されないことは、地球の歴史でも度々証明されている。不思議な話ではなかった。
「ですから、あなた方が教会と戦うのであれば、彼らの目を覚ますような一撃となっていただきたいのです。わたくしがここまで来たのは、クリスティーナに会うためもありますが、本当の目的はあなた方を見極め、行く末を見届けるためなのです」
ここで真意が語られた。
「元より負けるつもりはありませんが……。されど、ここに残られるならば御身を巻き込むことになります」
「もとより覚悟の上です。残る目的が増えてしまいましたので」
聖女は意味深に微笑んだ。
「いや、我々が危惧するのはカテリーナ様のお立場が悪くなるのではと……」
何故だろうか。どこか空気がおかしい気がする。
エリックの勘がそう告げていた。
「もう、エリック様……。カテリーナなどと他人行儀に呼ぶのはやめてくださいまし。わたくしのことは……カティとお呼びください……」
頬に両手を当てたカテリーナがそっとエリックを流し目で見た。
「……今、なんと?」
思わず訊き返してしまった。
べつに突発性難聴になったわけではない。
その場にいた全員の目が一斉に自分へ向いたのもわかった。
――なるほど、これは現実らしい。微塵も嬉しくない。
そう思っていたら今度は手を握られる。細く温かい指だった。
「ああ……。これまで教会に身を置き、厳しい修行をしてきた理由がわかりました。エリック様と出逢うためだったのですね……」
視線が向けられる。いつの間にこうなったのか、熱のこもった瞳だった。
「それはどうでしょうか……」
エリックは言い淀んだ。「No」と言わなかったのは奇跡に等しい。
その代わりに、おそらくこの世界に来てから初めてと言っていいほど、心の底からの困惑が表情に浮かんでいた。
クリスティーナに助けを求めようとしたがぶんぶんと首を振られた。「こうなっては無理」とでも言わんばかりだ。
そんな簡単に諦めないでほしい。聖女候補筆頭で教え子だったんだろう。
「いいえ、これは運命です。権謀術数の中に身を置いたからには半ば諦めておりましたが、まさか我が身を委ねても構わない殿方と出逢えるなんて……」
それは絶対に気のせいだ。そう言いたい。
ちょっと安全のために押し倒しただけで他意はない。
無駄に色気のある顔に赤味が差し余計に色気が上がっているが、エリックからすれば溶鉱炉が壊れかけているようにしか見えない。
「待ってくれ。そちらの個人的な事情は理解したが、勝手に話を進めないでくれないか……。なんだか頭が痛くなってくるな……」
ついにエリックも余所行きの言葉を維持しなくなった。
あるいはこうした粗暴さを出せば幻滅すると思ったのかもしれない。
「まぁいけません、お怪我が!? わたくしが看病いたしますから! 幸いここは宿です、貴賓室を用意していただきましょう!」
「……違う、そうじゃない」
今度こそ本当に頭が痛くなってきた。
というか話を聞け。
「ご安心を。これでも当代随一と言われた治癒の聖女です」
カテリーナは肢体をくねらせる。あまり下品にならないからまた余計に恐ろしい。
「瀕死の重傷からでも回復させてみせますわ。……寝台の上で」
やはり何も安心できる要素がなかった。
「誰だよ、こんなヤツを聖女にしたのは……」
ついに思ったことが口から出てしまった。
「いえその……少々恋愛に憧れがあって、教会の中で尼僧を囲ってしまう以外は歴代最強の聖女ですので……」
見かねたクリスティーナが小声で説明してくれた。
――いや、そこは解説だけじゃなくて助けてくれよ。
向こうが勝手に桃色思考を暴走させているだけで、困ったことに中身は超VIPである。
また、下手なことを言うなりするなりすれば、護衛のひとりが飛び掛かって来かねないのがひしひしと伝わってきた。
見たところ
先ほどのクリスティーナとの再会とは異なり、《愛しのお姉さま》を汚らわしい
さすがのエリックも年端もいかない少女を物理的に痛めつけるのは寝覚めが悪い。
「ロミルダ、言っておくがダメだからな……」
「わかってる、わかってるわゾーエ……」
相棒が小声で止めていた。
本人も懸命に我慢しているのがわかる。涙目で小刻みに震えてるのはショックでの痙攣ではないはずだ。
エリックはひとつだけ言いたかった。
――こうなったのは俺のせいじゃない。
「あらあら、わたくしとしたことがいけません。はしたない真似をしてしまいましたわ」
もしや正気に戻ったか?
エリックは期待を抱いた。
「愛を温める時間も必要ですわよね」
カテリーナは
淡い期待は儚く砕かれた。
普段なら美女を見れば多少なりともいい気分になれただろうが、今は肉食獣に睨まれているようにしか思えなかった。
「今日は失礼いたしますが……またあらためて会食の機会を設けたいものですわ」
また来るつもりらしい。
たしかに会食が当初の目的ではあったが……。
「聖女様が無理なんてするものじゃない。代理を寄越してくれたら大丈夫だ」
護衛たちが力強く頷いている。
もちろん、今のカテリーナにそんなものは目に入らない。
「そんなつれないことをおっしゃらないでくださいまし。あぁでも……エリック様は平生の話され方がずっと素敵でいらっしゃいますわね……」
「そうか……」
果たして、強力な人脈ができたと喜ぶべきか、それとも
さすがのエリックにもわからなかった。
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