第156話 当代聖女
モレッティ大司教が時の引き金を引いた頃、別の場所でも小さな――それでいて後から大きなものとなるであろう動きがあった。
遠くない場所から潮騒の音が聞こえてくる。
柔らかくも、わずかに熱気を感じさせるのは天から降り注ぐ日差し。
遮る雲も今日はひとつとしてなく、潮の香りが流れてくる空気の中で白亜の大聖堂が陽光を反射して輝いている。
聖剣教会総本部イノケンティウム。
人類圏(少なくとも教会がそう認識している範囲)の南西部に位置し、一年を通した気候もかなり穏やかな場所だ。
文明が進んでいればば観光地として開発されたのかもしれない。
もしも地球人が付近の衛星写真を見れば、まるで西ヨーロッパの地図を見ているような感覚に陥ったことだろう。
とはいえ、まったく同じというわけではない。
教会本部の所在地に限って言えば、イタリア半島中部ほど、地球で言うところのローマに位置しており、しかもこの世界ではそこで陸地が途切れている。
これだけでは敵海軍戦力により直接攻撃を受けるリスクがあるかに思われるが、南ヨーロッパに相当する部分が地球とは異なっている。
イノケンティウムの西側、地中海部分はコルシ島とサルデーニャ島が大きく膨らんで陸続きとなっており、南部もシチリア島が横に大きくなって周りを取り囲むようにいくつもの島嶼部が存在している。
南方大陸に向けて突き出たイベリア半島、その先端部となるジブラルタル海峡を抜けただけではまだまだ容易に攻め入れない天然の要塞となっていた。
こうして恵まれた地理的条件があるなら、教会が神に祝福された存在と勘違いするのも已むを得まい。
そんな教会本部の近くにある建物の中ではひとりの青年が執務机に向かって難しい顔をしていた。
「やってくれたな……。アンブロシアーノめ……」
上がって来た報告書を読み、表情を不快げに歪める青年の姿があった。
座る位置をわずかに直すと椅子が軋む。
青髪の青年の名はイリストフ・ディエス・アズラエル。
聖剣教会の枢機卿にして、近年では改革派を率いる存在と目されている注目株だ。
古くから高位聖職者を輩出してきた家柄の出にして、若くして枢機卿にまで上り詰めた傑物だ。
出身から保守派と思われがちだが、彼は現在教会内の綱紀粛正を裏に表に行っている異色の人材でもある。
権力の証にしてアズラエル家の象徴であるワインレッドを基調とした上質の僧衣に身を包み、整った甘いマスクは多くの尼僧によろしくない影響を与えている。
エルンストあたりが見たら即座に「育ちの良さそうなイケメン死すべし」と口走った可能性がある。
「あらあら。ずいぶんとご機嫌斜めですわね、アズラエル猊下。例の騒動――東方の件ですか?」
来客用に置かれた応接椅子に座る深紫髪の女性が声を発した。
「ええ。余計なことをしてくれましたよ」
イリストフは嘆息する。二重の意味で。
「あらあら」
女性は蠱惑的に微笑むと足を組み替えた。美しい曲線を描く足が動く。
いつ何時見ても、美の化身が服を着て歩いていると錯覚を受けそうになる。これが尼僧なのだから目の毒としか言いようがない。
あまり動じないイリストフですらそう思うのだ。他の者がどうなるかは察するに余りある。
「あのような場所に世俗を知らぬ者を送り込めば必ず暴発する。わかっていたことでしょうに」
同僚が視線の向け先に困る中、女性は別の身で困ったように笑う。
彼女が身に纏うのは、教会で採用されている色気が出ないよう工夫された尼僧服だ。役職もあって飾り布や装飾品が多くなっており、一般的なそれよりも身体のラインはずっと隠されている。
そのはずなのに、絶妙に垂れ下がった目尻に泣き黒子、形の良い鼻梁が形成する容貌は見る者の警戒を吹き飛ばし、絶妙に整った身体つきのせいか不思議とそれらがかえって彼女を煽情的に見せているのだ。
〈パラベラム〉のメンバーが誰かひとりでもここにいれば「新手の痴女か?」や「煩悩を刺激してから耐える修行でもしてるのか?」と冗談を口にしただろう。
「送り込んだ者の名を見れば、そうするためとしか思えない構成でしたよ」
どうにか入手した派遣者の名簿を見てイリストフが忌々し気に表情を歪めた。
「あら、でも会議では全面的な反対はされなかったでしょう?」
目尻を細めて美女は笑う。からかうのではなく若き枢機卿の真意を問おうとしているのだ。
「さすがに、そこまでしては私の“信仰心”が疑われます。彼らは、なんとなれば容赦なく私も内通者に仕立て上げるくらいはしてのける」
政敵に隙を与えるわけにはいかない。家柄だけではこの伏魔殿で我が身を守れない。
「たしかに……。守旧派は手が広いですものね。“あの子”も……その被害者でしたわ……」
美女はわずかだが顔を不快の形に歪めた。
これでも立場がある。内心の怒りを隠したのだ。
「そういえば、あなたの教え子でしたね、件の“魔女”殿は」
イリストフの探るようなコバルト色の瞳が向けられる。
「断定をするなど。そのような物言い、枢機卿とて許しませんよ」
紫の瞳が不意に鋭さを帯びた。
妖艶さを持つ彼女が向けると、不釣り合いゆえに並々ならぬ圧迫感を感じさせる。
イリストフはすぐに「降参」と両手を軽く掲げた。
「これは失礼。よほど大事な教え子だったのですね、聖女殿には」
「ええ。無鉄砲ですが真っ直ぐで。わたくしの後を継ぐに相応しい少女でした。あの子なら無事に故郷まで辿り着いていることでしょう」
イリストフが語りかけると、尼僧――当代“聖女”カテリーナ・ミネール・インフォンティーノは艶然と微笑んだ。
やはり、尼僧の身にはまるで似合わぬ蠱惑的な笑みである。良くも悪くも《愛の聖女》などと呼ばれるわけだ。
「はて。たしか生死までは明らかになっていないのでは?」
それも含めて詰問の使者を派遣するのが守旧派の主張だった。
フランシスに派遣し、クリスティーナの側に付けていた子飼いの騎士が殺され、本当のところが何もわからなくなってしまったのだろう。
そのような状態でまだ強気に当たろうというのだから、イリストフから見れば救い難い政治的生物だと呆れざるを得ない。
話が逸れた。
今はなぜカテリーナがそれを知っているかだ。
「ふふふ、事情通な猊下が過去形で語られませんでしたから。あとはわたくしの個人的な願いも加味されています」
なるほど。そこから判断したか。
――イリストフは密かに肝を冷やした。
まだまだ自分も言葉ひとつひとつまでの注意が足りてない。ここが政治の場でなくてよかった。そう真剣に思う。
「ところで、使者たちはヴェストファーレンに審問を要求するようですが、ここからいかようになると思われますか?」
カテリーナも一度若き枢機卿に落ち着く時間を与える。
「……おそらく、彼らは要求を跳ね除ける。
「やはり……」
聖女は深々と息を吐いた。その仕草すら妙に艶かしい。
段々とイリストフも「これはなにかの修行か?」と思い始める。
「私が派兵、もっと言えば審問にさえ前向きでないのも、守旧派がしきりと口にしている『騎士クリスティーナが魔族と内通した魔女である』との嫌疑自体が疑わしいからです」
尊称はつけない。教会の中で働いている以上、王族であっても配慮はされど
王族と接する当人が平民や下級貴族であればその限りではないが、イリストフは彼らとは地位が異なりその慣例に従っただけだ。
「つまり謀略か何かと?」
カテリーナは声の調子を落とした。
教会には絶大な権威がある。冗談や推測だけで口にできる言葉ではない。
「ええ。これは推測だけで根拠もなく口にしているのではありません。アンブロシアーノ枢機卿もほぼ黙認しているだけで情報は掴んでいるようです」
「そんな……。彼は進歩派と言われていたのでは?」
なぜ身内を助けてくれないのか。そんな思いが聖女の口から出そうになった。
「あの御仁も多少動いてはおりますが、私ほど“改革”に積極的でありません。それを悪と罵るつもりもないですが、あれでは時間がかかり過ぎる。人類圏での問題を解決するどころか、自身の政治闘争の範囲に絡め取ってしまうのが彼の限界です」
イリストフとしても、余人には漏らせないもどかしさがあった。
日頃から教会の権威がどうだと偉そうに言っていても、一向に魔族との戦いに終止符どころか区切りさえつけられない。
そのくせ富や権力を抱え込んで離そうともしない二面性。
誤解を恐れなければ、「最終的に教会の傷が浅ければどうでもいい」と言わんばかりだ。これでは人類の発展はますます遅れてしまう。
「それはわかりました。それでアズラエル猊下の掴んでいる情報とは?」
「フランシスの教会支部には私の派閥の司祭が派遣されていましてね。あの騎士団襲撃時も無事に生き残っているのですよ」
「ならば、あそこで何があったかも――」
「はい。騎士クリスティーナと直接言葉を交わした騎士が何人かいます。言ってみれば彼女の腹心ですね。彼らは公式に証言はできないと断った上で真相を語ってくれました」
そこからは概ねエリックが教会の使者たちに語った内容と同じだった。
唯一違うのは、騎士たちがクリスティーナに協力を申し出た際に本人がそれを拒んだことだろう。「無理のない範囲でわたしの無実を信じてくれる者を探してくれ」とだけ残したそうだ。
「……猊下。つまり、わたくしの教え子は政争の道具にされたのですか」
今度こそカテリーナは怒りを隠そうとはしなかった。
それほどまでの怒りを覚えているのだ。笑顔だけは保っているがそれが逆に恐ろしい。
「有り体に言えば……」
美女が怒るとここまで怖いのか。
イリストフの背筋に冷や汗が浮き上がってきた。
「いずれにせよ、これが事実だとすれば非常によろしくありません。しかも、バルバリアに派遣されていたガルガニウス司教の報告から判断するに、魔族が召喚した魔王と目される者たちがあちら側についている。国を攻め滅ぼしたのはほぼ彼らの力だと言うではありませんか」
表情だけは平静を装うも、枢機卿の頬をひと筋の汗が伝っていった。
「魔王が……!?」
カテリーナもまた衝撃を受ける。
魔族の中でもほとんど伝説の存在で、前線に降臨したこともない。過去に勇者が倒したと知られているだけに過ぎず、どのように継承されるかもわかっていない。
だが、そんなものが人類圏に現れればどうなるか。言うまでもない。
いささか信憑性に欠ける部分はあるが、それゆえに一刻も早く明らかにすべき事柄ではないか。
「しかも、これこそ表沙汰にはできませんが、騎士クリスティーナと行動を共にしている――いや、むしろ騎士団に紛れ込んだ愚か者を倒し、フランシスから彼女を連れ出したのがその者たちのようなのです」
だからこそ、イリストフは自分同様に情報を持つアンブロシアーノが動かないことに憤りを感じるのだ。
このままでは、聖剣教会は人類内乱の引き金を裏で引いた愚か者として歴史に名を残しかねない。
無論、勝てばそんな痕跡は消されてしまうが、そうような愚行に走った事実は消えない。
そしてまたいつの日にか繰り返されるのだ。
若き枢機卿にはそれが耐えられなかった。
「……猊下、しばしお暇をいただきたく」
そうした政治的思惑が幾重にも絡み合う中で、カテリーナの動きは早かった。
「何をされるつもりですか?」
「わたくしが現地に向かいましょう」
問いへの返事はあまりにも衝撃的な言葉だった。
ただイリストフも予想していなかったわけではない。
クリスティーナの話になったあたりから聖女殿の様子がおかしかったのはわかっていた。
「よ、よろしいのですか? 十中八九、いやほぼ間違いなく戦に巻き込まれますが?」
言うことを聞きそうにないのはわかっていたが一応問うておく。
身代わりを使ってでも目的のためならいくらでもやってのける。この女性はいざ決意した時にはそういう性格を表に出す。
「関係ございません。どちらが勝つでも、当代聖女がいればそれなりに戦後処理で配慮をしてくれるでしょう。争いの被害を最小限に抑えるのであれば、我が身に勝る存在はないと自負しておりますわ」
まさしく聖女と呼ばれるに相応しい言葉だった。
しかし、彼女には言葉にしていない思惑もある。
――あの子を動かすなんて、いったいどんな人なのかしら……。
教え子であるクリスティーナ、しかもあんな真面目で少々融通がきかなかったくらいの少女が心を許し行動を共にする存在はどれほどの者なのか。
イリストフから見えない位置で唇が大きく歪む。
カテリーナは年甲斐もなく胸中で昂る鼓動を感じていた。
☆あとがき代わり☆
教会関係者ということで前話とくっつけようと思いましたが10,000文字近くなるので分割しました。
二日連続更新したので許してください。
次話から野郎どもに戻ります。
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