第155話 老僧の苦悩


「ふぅ、えらい寿命が縮んだわ」


 溜め息を吐き出したモレッティ大司教は、重ね着していた豪奢ごうしゃなローブを脱いで従者に渡すと柔らかな応接椅子に腰を下ろした。

 余所行きの口調もすっかりを潜めている。


 針のむしろ状態で王城を辞して教会支部に辿り着き、自身に割り当てられた部屋に入ってようやく老僧は溜め息が吐き出せた。

 同行していた別派閥の僧侶に見られるわけにはいかなかったのだ。


「どっこいせ……」


 声を上げて背中を背もたれに預ける。


 いつからだろうか、年齢を経るごとに聖衣が重く感じられるようになったのは。

 老いは怖い。今までできていたことが満足にできなくなる。


「お疲れさまでした、台下」


 労いの言葉と共に、若い司祭が水の入ったガラス杯を渡した。


 この青年はベニート・スプマンテ。

 モレッティ子飼いの者で、自分たちを取り巻く状況を正しく理解させるために会談にも同道させていた。

 あの場でこれといった反応を示さなかったのは「できるだけ公平な目で見ていろ」と命じられていたからだ。


 若い司祭は今もその言葉の意味をずっと考えている。


「儂ももういい歳なんじゃぞ。このように疲れる役目はご免蒙りたいものじゃわい……」


 殊更に年寄り臭い物言いになっている。こういう時はストレスが溜まっている。

 ベニートは経験上それを知っていた。


「アンブロシアーノ枢機卿猊下の信任厚きお立場なのですからそこはあまり……」


 この年嵩の上司は遥かな上層部――枢機卿からの指示を受けて動いているはずだ。

 少々迂闊な言葉にベニートは困惑を隠せない。


「わかっておる、言ってみただけじゃ。……ところで若い者たちはどうしておるかの?」


 モレッティは話題を変えようと問いを発した。


 気にしないようにしたいところだが、あいにくと賽は投げられてしまった。

 本音はさておき「知らぬ存ぜぬ」で放っておくわけにもいかない。


「困惑している者もいるにはいますが、多くは一刻も早く本部に戻って懲罰軍を派遣すると息巻いております。あれはどうなのでしょうね……」


 ベニートは困ったように答えた。


 神に仕える身からすると、〈パラベラム〉を名乗った者たちの態度は不遜と眉をひそめたくなるようなものだった。

 しかし、己の非を認めることなく一方的に相手を罵り、戦を起こすことすら避けようとしない同輩の態度は自分の目から見ても問題に感じた。ヴェストファーレン側がああなってしまうのも無理はないと思う。

 それに、実際に戦って血を流すのは教会軍末端の兵士だ。


「やはりか。あのような形に終われば無理もないが危ういのう……」


 老僧の口から大きな溜め息が出た。もはや隠そうともしていない。


 わかりきっていたことだが、意識した途端に気分が、それどころか身体まで重くなったような気がした。これは年のせいだけではないと思う。


「せめて狙い通りにいってくれればいいのじゃが……」


「ご心配なさいますな大司教台下。あのように不遜な者など懲罰軍により滅ぼされましょう」


 話を聞いていた助祭のひとりが威勢のいい言葉を発した。

 こうした人間もモレッティにとっては頭痛の種であるが、困ったことに本人にその自覚はない。


「……そうなればいいものじゃな」


 思わず投げやりな言葉になってしまった。


 しかし、薄く苦笑しているベニートくらいしか彼の言葉の真意に引っ掛かりを覚えていない。


 ――若い者の育て方が足りなかったのう……。


 こうした“嗅覚”とでも呼ぶべきものは権謀術数の中で生き残るために必須の能力である。


 老いを自覚するとほぼ同時にこの“嗅覚”も鋭くなり「できることとできないことの見極め」が多少なりともつくようになった。

 もう少しすれば老いすらも楽しめるだろうか? そう思うことも稀にある。


 今しばらくはそれどころではなさそうだが。


「……喉が渇いたわい。はて、見たことのない水菓子果物じゃな」


 水だけでは物足りない。モレッティはテーブルの上に置かれた果物籠に手を伸ばした。


「台下!」


 周りの部下たちが止めるが老僧は意に介さず口に運ぶ。とんでもない行動力だった。


「みずみずしいのう! しかも美味い……! 誰かこれは何という名か聞いておるか?」


「……は、リンゴというそうです。ヴェストファーレンよりもさらに東方の領域で育てられているとのこと」


 問いかけに随行員のひとりが土産品の目録を見て答えた。

 彼は毒にでも当たられたら堪らないという意識ばかりが先行し、質問の意味をまったく理解していなさそうだった。


「ふむ、ヴェストファーレンはこれほどのものを作れる国と同盟したということか……。これはちとまずいかもしれんのう……」


 まずい? 周りの僧たちはモレッティの言葉の意味を理解しかねた。

 一瞬、「不味い」と「拙い」の違いがわからなかったのもある。


「ただの勘違いなら良かったが……」


 ひとちてふたたび老僧はリンゴを齧った。

 小気味いい音を立てて果肉が割れる。歯と顎がしっかりしていなければとてもなし得なかったであろう。


 老いたとはよく言ったものだ。同輩のガルガニウス司教がいればきっとそう笑ったに違いない。


 果実を咀嚼そしゃくしながら、モレッティはこちらに来る途中の街で会った司教の顔を思い出す。

 彼もそろそろ任期を終えて大司教に昇進してもおかしくない。自分が少し早かっただけだ。これから先はわからない。


「台下、水菓子を作れる国は手強いのですか?」


 ベニートの若い顔にはありありと疑問が浮かび上がっていた。

 若手では優秀な彼をしてこれはよくない。老僧は内心で思う。


「それは当然じゃろう。おぬしら食糧なしで戦えるか?」


「神から与えられし使命があるのです。そのように惰弱なことは――」


 他の若い僧が自信満々に答えた。


 こいつはダメだ。理屈で何も考えられない。ダメ過ぎる。本部に戻ったらすぐにでも最前線送りか南方に飛ばそう。

 モレッティはそう密かに決意した。


「建前はよい。いくさとは、結局のところ、最も多くの食料を持っているところが勝つ。それが道理じゃ」


 無駄に終わるかもしれないが、モレッティはこの場にいる者に対して自身の考えを説く。


「魔族がこちらを攻めきれないでいるのも、単に我々が戦力で勝っているからだけではない。荒れ果てた北方大陸では食糧を賄いきれないからじゃ」


 ――つまり、この戦いは魔族の生存戦略に過ぎないと?


 ベニートにはすぐにモレッティの意図が理解できていたが、この考えを口にしてしまうのは危険だと思った。

 切実な目的もなしに海を渡るのは並大抵のことではない。


 しかし、


「それほど大事な食糧をじゃぞ? 普通に考えれば麦などを作る量は減るのに水菓子を作る。ならばもうその国の中ではどれも余るほど作っているのであろう。そんな国が弱いわけはない」


「…………」


 何人かは理解を示し、また何人かは納得できないと表情で物語っていた。

 前者は新興派閥の人間で、後者は旧来の派閥の人間だった。話もろくに聞けない過激派がこの場にいないのはまだ幸いだった。


「しかし、台下。我らへの説明のためとはいえ肝の冷える真似はおやめいただきたい。毒でも入っていたらどうするつもりだったのです」


 付き人として言っておかねばならないとベニートが苦言を発した。


「そのようなことはせんよ。


 老僧は軽く笑い飛ばした。まったく意識していなかったわけではなさそうだ。

 それゆえに彼の言わんとするところが読めない。


「意味がないとは?」


 そう言い切れるのが理解できなかった。


「向こうは心底しんていから戦など望んではいなかった。特にヴェストファーレンは疑惑を払拭したいだけじゃ。なのに使者を殺してどうする。疑いを事実と認めるようなものではないか」


 今回の一件は、本来政治的に折り合えば「今後はそのようなことがないように努力する」と曖昧に終わったかもしれない話なのだ。

 それを意図的に選ばなかったモレッティとしては、責任者として顔には出さないものの忸怩たる思いはあった。


「たしかに。しかし、物別れに終わったのであれば、ひとりでも要人を始末したいと考えるのでは……」


 いささか過激すぎる考えだ。若い僧はこんな思考になるような教育を受けているのか。

 モレッティは危惧を覚えた。


「儂の見たところ、小細工に頼るような手合いではない。それどころか珍しい水菓子を寄越したということは、この価値に気付く者がいるか試しておる」


「まさか試すなど……」


 ベニートの表情に不満が見えた。教会の権威を軽んじられたと考えたのだろう。


「教会が真に人類の守護者であるべきか見極めようとしているのじゃろう。いきなり召喚されて魔族扱いまでされればわからんでもない」


「たとえそうであっても、あまりにも僭越では……」


「不敬と申すか? されど異世界人には教会の権威など関係あるまい。本部で“若造”の笑っている姿が目に浮かぶわい」


 そう言ってモレッティは窓の外――教会本部のある方角を見た。


「一刻も早く本部へ戻り報告をせねば……」


 事態は動き出してしまった。

 軌道修正を試みようにも、己の分を弁えない若い連中がいてはあれが限界だった。

 自分が積極的に折れてしまっては派閥抗争が激化するだけで教会に利点がない。彼自身難しい立場にいたのだ。


 ――せめて負けなければよいが……。


 長年溜まった内部の膿をどうにかする前に時代の波が押し寄せている。

 遠くを見る老僧はそう感じていた。


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