第108話 てめーは俺を怒らせた
聞き覚えのない声がテオドルの肩を震えさせ、オルヴァーの身体を硬直させた。
わずかに遅れてドアが開けられ、入口から人影が室内に入って来る。
揃って視線を向けた先にはふたりにとって見覚えのない、灰色がかった髪と瞳に鋭い目つきの巨漢が立っていた。
「誰だ、テメェは!!」
オルヴァーが腰を浮かせて怒声を上げた。
どこまでもスジ者らしい条件反射ではあるが、この時に限ってはあまりにも悠長な対応だった。
外には見張りがいたはずだ。
にもかかわらず、争う声もそれに類する音も一切聞こえてはこなかった。
誰もが予期せぬ者の出現に驚くばかりでその事実に気付かない。
「あいにくと名乗るほどの者じゃない」
一二歩進んだ巨漢は、見た目に反して通る低い声で退屈そうに答えた。場に反して緊張感の欠片もない。
そのような態度が場にいる者たちを苛立たせていく。
テオドルの護衛が揃って主人を見た。
「――構いません。消してください」
低い声で放たれた青年の命令は至って簡潔だった。
先ほどの会話を聞かれた以上、何者かは知らないが生きて帰すわけにはいかない。それを知るがゆえに、彼だけは誰よりも早く決断を下していた。
護衛ふたりは黙って頷き、携帯していた両手剣をそっと抜く。手馴れた動作だった。お飾りにできるものではない。
「いいねぇ。周りのヤクザモンより、よっぽどヤクザらしいじゃねぇか」
巨漢は立ったまま身構えることなく小さく不敵に笑った。彫りの深い顔に浮かんでいるのは獰猛な獣の笑み。
距離を詰めようとしていた護衛たちは一瞬怯みそうになるが、無手を相手に何を血迷ったかと気を取り直す。
何か策があるのだとしても、自分たちの後ろには十人からなる組織の護衛もいる。たったひとりでなにができるわけもないのだ。
――しかし、なぜ構えない?
ふたりとも間合いが詰められない。言い知れぬ気味の悪さがあった。
「……行くぞ」「おう」
やがて意を決して踏み込む。ふたり同時に仕掛けたことへ若干の羞恥心を抱きながら――
「悪いが、正々堂々勝負をしに来たわけじゃない。――
依然として立ったままの巨漢が告げた瞬間、護衛ふたりの頭部が爆ぜた。
「「「!!!???」」」
誰ひとりとして何が起きたか理解できなかった。
ほんのひと言――
あるとすれば、それは神話上でのみ語られる邪神や悪鬼の所業だ。
「う、う、うああああああああっ!!」
絶対的な恐怖が場を支配するのを防いだのは、たったひとりの無知ゆえの暴走だった。
「「「カチコミだぁぁぁっ!!」」」
ひとりの激発が引き金となり、本当に今更ではあるが、絶叫にも似た怒声が重なった。
頭部を失って事切れたテオドルの護衛に代わり、オルヴァーの背後に控えていた構成員たちが各々の武器に手をかけ遅まきながら殺気を纏う。
これが致命的な誤りだと彼らは知るはずもない。
「いや……普通に考えて備えがこれだけなワケないだろう? ――突入!」
依然として立ったまま、呆れたように頭を掻いた巨漢の言葉が意味するところは――
次の瞬間、開かれた各部の窓から一斉に黒ずくめの男たちが飛び込んできた。
当然、
「「「なっ!?」」」
不意を打たれた全員が背後を振り返った。
彼らは覆面よりも漆黒に彩られた何かを手にしていた。それらが自分たちの方に向いたと思った瞬間、一斉に火を噴いた。
室内に響き渡る猛烈な音。連続して重なる破裂音がその場にいる者の耳に突き刺さった。
それらと共に、侵入者に斬りかかろうとしていた男たちが次々に悲鳴と血を撒き散らしながら薙ぎ払われる。
押し返されるといった生易しいものではなく、その場で床に崩れ落ちて息絶えるだけ。無慈悲の嵐――いや、死神が暴れ回ったと言われても驚かない惨劇が一瞬にして生み出された。
「この野――」
未知の攻撃に晒される中、オルヴァーとテオドルが動けたのは奇跡に近い。
しかし、互いの異なる動きがその後の運命を分けた。
ヤクザの頭は叫びながらも立ち上がり、全身を瞬く間に貫かれて絶命。
一方の青年は転がり落ちるように床へ倒れ、身動きを止めて必死に事態を把握しようとする。
――なんだ!? いったいなんだ!?
視線を動かすと目を開けたまま事切れたオルヴァーと視線が交差した。
苦悶に歪む恨めしげな死人の瞳が自分に向いていた。思わず悲鳴が漏れそうになるが何とか耐え切る。
やがて静寂が訪れた。
床を踏みしめる複数の靴音が聞こえる。
「生きてたか。当てるつもりもなかったが、まぁ上手にケツを隠したもんだ」
感心したような声をかけられ、恐る恐る視線を上げると例の巨漢が自分を見下ろしていた。
周囲の男たちが持っていたものとは異なる、小さな“武器”をこちらに向けている。自分の心臓の音だけがうるさいほどに胸の中で鳴り喚いていた。
「な、何者なんだ……。いったい、何が狙いだ……」
震える声と身体で青年は口を開いた。
いざ事ここに及んでは商人の胆力など何の意味も価値もない。護衛も一瞬で屠られる圧倒的な暴力の前でヒトはあまりにも無力だった。
その証拠に、今や生き残っているのは自分しかいない。
「狙いか……」
男は小さな“武器”をわずかに逸らして逡巡する素振りを見せた。
「俺はな? 話し合いで済ませるか、数人叩きのめして終わりでも良かったんだ。……だが、人を攫うとなったらそりゃもうダメだろう」
男は問いに答えなかったが、言葉からテオドルはすべてを察した。
「ッ! 貴様ら、ヴァンハネン商会に雇われた刺客か!」
瞬間的に憎悪が湧き上がり、それが身体の震えを止めて叫びを生み出した。
――私を裏切っておきながら、自分たちが窮地になったら殺し屋を寄越すとは!
黙っていられなかった。突如として己の身に襲いかかった不条理に対する怒りだった。
少なくとも本人はそう思っている。
自身の策で死ぬかもしれない人間が存在するなどとは考えてもいなかった。
「残念ながら違う。結果的にそうなっただけで、俺らは通りすがりの傭兵だ」
男は青年からの憎悪を真正面から受けるがまるで動じた気配はない。不快感だけがわずかに滲み出ていた。
「よ、傭兵、だと……!? たかが傭兵風情が私を手にかけようと……? タダで済むと――」
「思っているさ。こちとら教会相手に戦争をするんだ。本来なら商人やヤクザ者の遊びに構ってる暇はない。……だが、“身内”に手を出されれば話は別だ」
淡々と答える灰色の瞳には鋼を思わせる冷たさと昏さがあった。腹の底が震えるような声だった。悪寒と共にテオドルの頭から血の気が引いていく。
「み、身内だと……?」
テオドルは何を言われているか理解できなかった。
それよりも教会を敵に回すと言ったかこの男は。冗談でも狂っているとしか思えないし、本気なら尋常ではない狂人だ。
「焦らずもう少し調べとくべきだったな。どうしてサシェがこの国に戻ったのか、その理由を」
そう言われた青年はわずかに冷静さを取り戻す。
たとえ困窮したとしても、故郷に戻れば実家では厄介者になりかねず、外からもいい目では見られない。それでも戻って来るならば相応の理由がある。
そこまでバカな娘だとは思っていない。だから婚姻を承諾したのだ。
――まさか、感情に踊らされていたのは私だったのか……。
図らずもテオドルは自身の内面と向き合うこととなった。感傷に浸っている暇など今はないのだが、湧き上がる感情だけは止められない。いったい何を間違えたのか。
「そんな……バカな……。貧民と共に出奔した商人の娘が……」
「真っ当に生きていたさ。自分たちの力で。お前よりずっとな」
――カチリ。テオドルは撃鉄の起きる音を知らない。しかし、それが死の宣告だと直感的に理解した。
「私があの娘を――」
続く銃声が、最期まで他者を理解できなかった青年の声を掻き消した。
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