私の犬十戒

満月光

私の犬十戒

 私の名前は真琴。

『犬十戒』というものがある事を、つい最近知った。

 それを読んで、私が一緒に過ごしたライルとの10年余りの日々が思い起こされた。

 最初にライルと出会ったのは、ペットショップの店頭だった。

 その頃の私は、まだ小学四年生だった。

 小さな仔犬に混じって、もう仔犬とは言えないほどに成長してしまった一匹の犬がいた。

「売れ残ちゃってね。もこうなるともう引き取り手はないよなぁ。」

 ガラス越しにその犬を見つめる私に、そう言って店員が声をかけて来た。

「じゃあこの仔、どうなっちゃうんですか?」

 そう尋ねた私に、店員は肩をすくめて見せた。

「ブリーダーの所に戻すしかないよねぇ。」

「戻したら、その後はどうなるんですか?」

 すると、店員は少し悲しそうな顔つきになった。

「余り考えたくないけど、保健所送りにされちゃうんじゃないかなぁ。」

「そんな...。それが分かってて、ブリーダーに返すんですか。」

「そんな事言われても...こっちだって商売だからねぇ。」

 私は、ガラスの内側の犬舎にいる犬を改めて見た。

 犬は、私に真っ直ぐに視線を合わせて来た。

『僕を買ってください』

 そう犬にお願いされている気がした。

 私は、すぐに店員を振り返った。

「分かりました。このワンちゃん、私が飼います。」

 私は、すぐに家に帰ると、机の上にあった貯金箱を叩き割った。

 その場の成り行きという奴で、私はその犬を買ってしまった。

 もっとも話の行き掛かり上、大した値段は付かず、タダ同然だったが...。

 母からは、猛反発を喰らった。

「何考えてるのよ。お父さんが犬嫌いという事は、あんたも知ってるはずでしょ。」

 目を吊り上げて怒る母の様子に、犬が反応した。

 ごめんなさい、ごめんなさい、と訴えるようなその瞳に、母はその後の言葉を失った。

「なんなの、その眼は...。あざとい仔ね....。....それなら....お父さんが帰ってきたら、あなたから頼んでみなさい。」

 やがて帰宅した父は、リビングにうずくまる犬を見て絶句した。

「な、何。なんで犬がいるの?」

 父の様子をみた犬は、まず父の顔をじっと見詰め、やがておずおずと父のそばに歩み寄った。

「な、なんだ…。」

 すると犬は、父の膝元でお座りをすると、父の足に自分の頭を擦り付けた。

 それを見た父の目尻がだらんと下がった。

「ねぇ。お父さん、お願い。この犬、飼ってもいいでしょう?」

 そう言った私に、父はあっさりとうなずいた。

「真琴。お父さんの許可が下りたからといって、調子に乗っちゃ駄目よ。犬を飼うっていうのは、大変なんだから。食事の世話、毎日の散歩、全部あなたが責任を持って、きっちりやるのよ。約束しなさい。」

 そう言いながら、母はなかば呆れたように父を振り返った。

 犬嫌いだったはずの父が、人が変わったように犬に頬擦ほおずりをしていたのだ。

 犬の首筋を撫でながら、父が私を振り返った。

「なぁ、この仔の名前は、もう決めたのか?」


 犬十戒①『私と気長に付き合って下さい』


 ライルが我が家に来てから、私の習慣は一変した。

 それまでは、朝食ギリギリ迄ベッドの中から離れなかった私が、朝食の1時間前には起床し、ライルと一緒に散歩をするのが日課となった。

 散歩から戻ったライルは、足を拭くとすぐに餌の皿の前に座り、大きく尻尾を振る。

 そして、フードが皿に注がれると、いつも10秒も経たずに完食した。

 ある日、母からお叱言こごとがあった。

「真琴、またライルが台所の隅でおしっこしをてたわよ。こういう事は、きちんとしつけてもらわないと。」

 まぁ、言われる通りなのだろう。

 しかし、こういうしつけってどうすれば....。

 考えあぐねて行った先は、ライルを引き取ったあのペットショップ。

 面倒くさがられると思いきや、ちゃんとアドバイスしてくれた。

「犬は、凄く清潔好きなんだよ。だから自分のハウスでは、おしっこはしないんだ。」

 へぇ、そういうもんなんだ…。

「だから、時間をかけて、ここがおしっこするところだよ、と教えてあげればいいよ。自分のトイレの場所が理解できれば、おしっこはそこでするようになるから。でも絶対ではないからね。ライルはおすだから、自分のエリアを確認する為に、おしっこを付ける行為をする。それは、あなたの家のどこかに、まだ自分の住処すみかとは疑わしい所があるからなんだ。あせっちゃ駄目だよ。」

 なるほど...と思った。

 我が家のあちこち、縦横無尽に行き来するライルなのだが、まだ何となく不安な場所があるのだろう。

「それと、急に自分のハウスや慣れた場所でおしっこやウンチをした時には、体調が悪い事を疑った方が良いね。特にウンチは要注意。そういう時は、軟便の場合が多いから。」

 そういう事か....。

 ライル。お前とは、気長に付き合わなきゃ駄目なのね。

 父は、今はライルにべったりだ。

 犬嫌いだったあの人がなぜ?...と、母は、呆れている。

 ライルも、父のそんな気持ちが分かるのだろう。

 父の帰宅時間が近くなると、いつも玄関にうずくまる。

 そして父が玄関の扉を開けると、一声吠えてすぐに父の足元にじゃれつく。

「お前だけだよ。俺の帰宅を玄関で出迎えてくれるのは。」

 そう言ってライルを抱き上げる父に、母はいつも苦笑している。


 犬十戒②『私を信じて下さい。それだけで、私は幸せです』


 夕方遅くに帰宅すると、ライルが母の前でしょんぼりと座っていた。

「どうしたの?」

 そう尋ねると、母は怒りに満ちた顔でキッチンを指差した。

 母の指先の向こうには、目茶目茶になったキッチンの光景があった。

 キッチン台に置かれていた調味料類が床に落下し、醤油がこぼれて床を汚していた。

 さらには、調理器具や食器が床に散乱して、陶器の幾つかは破損して無残な姿をさらしていた。

「何、これ?ライルがやったの?」

「ライル以外の誰が、こんな真似をするの。あなたやお父さんが、ライルを甘やかすから、こんな悪戯いたずらをするようになっちゃうんじゃない。」

 その時、玄関の扉が開き、父が帰宅した。

 家の中の異様な雰囲気を察して、父はすぐにキッチンにやってきた。

 父はまず割れた陶器を一つ一つ拾い上げて片付けた。

 そして、濡れた雑巾ぞうきんで床を拭きながら母に尋ねた。

「ライルが、こんな事をするところを、君は見てたのかい?」

「見てはいないわ。買い忘れがあったんで、ちょっとスーパーに行ってたの。帰って来たらこの有様ありさまよ。家にはライルしかいなかったもの。ライルの仕業しわざに決まってるじゃない。全く、もう.....。」

 すると父が、首をかしげた。

「ふうむ....。しかしなんか変だな。ライルは、キッチン台の上に飛び乗ることは出来ないだろう? それなのに、どうしてキッチン台の上の物が、床に落ちてるんだ?」

「何よ、それ。地震でもあったって言いたいの?」

 まだ怒りが収まらない母を上目遣うわめづかいで見ながら、ライルはずっとしょげ返っていた。

「二人共、これからはライルをもっと厳しくしつけてね。こんな事二度としないように。」

 翌日、帰宅した私の目の前には、ライルの頭を抱きながら涙ぐむ母の姿があった。

「どうしたの.....?」

 母は、涙を拭きながら私を振り返った。

「昨日の事だけど...。ライルがやった事じゃなかったの。さっき、隣の奥さんから聞いたの。夕方にライルの吠え声が聞こえたんで、外を見ると、うちのキッチンの窓から野良猫が飛び出してくるのを見たって。最近、色々な家に忍び込んで悪さをする野良猫だったらしいの。」

 そう言って、母はもう一度ライルを抱きしめた。

「お父さんも昨日言ってたわよね。ライルの仕業しわざにしちゃあ、なんか変だって。それなのに、私....。一方的にライルが犯人だと決め付けて。今日1日、ライルと顔を合わせようともしなかったの。ゴメンね、ライル。」

 母に強く抱きしめられたライルは、身動ぎせずにじっとしていた。

 やがて、大きく尻尾を振ると、母の顔をペロリと舐めた。

『もう、いいよ』と言わんばかりに。


③『私にも心がある事を忘れないで下さい』


 ライルを家に迎えて2年ちょっとが経った頃だ。

 中学生になって部活が忙しい事もあって、家に帰ってからライルの相手をするのが面倒になってたんだと思う。

 ライルが擦り寄って来るのが鬱陶しく感じていたのかもしれない。

「ちょっと...。うるさいわよ。かまって貰いたいんだったら、お父さんの所に行ったら...」

 今思えば、その言葉を、ライルはどう聞いたのだろうか。

 クラブの合宿に出掛ける朝、私は焦っていた。

 その為、散歩に連れ出した後、ライルにご飯をあげるのを忘れてしまっていた。

 訴えるようにすり寄るライルを、私は振り払った。

「今日は、早く出掛けなきゃならないのよ。お願いだから、うるさくしないで。構って欲しいんだったら、お父さんか、お母さんの所に行きなさい。」

 その時のライルの茫然とした瞳に、私は気付いていなかった。

 合宿から帰ってきてから、ライルの私に対する態度が、素っ気無い感じになった。

「ライル、こっちにおいで。おいでったら。」

 そう呼んでも、ライルは私の方をチラリと見るだけで、直ぐに父の膝元にうずくまってしまう。

「何なのよ。あんたは、私よりお父さんの方が良いのね。毎日散歩に連れてってあげて、ご飯もあげてるのに.....。少しは感謝の気持ちを示したらどうなの...。」

 私の言葉に、父の眉が吊り上がった。

「真琴、お前。何か勘違いしてないか? 最近は、いつもそんな態度でライルに接していたのか?」

「何よ。いつも散歩にも連れてあげてるし、ご飯もあげてるのに。」

「なるほど。今のお前のライルに対する気持ちはその程度か? ライルを飼い始めた時の気持ちは、どこに行った? それじゃぁ、ライルの気持ちがお前から離れても、仕方ないよな。」


 ④『言う事を聞かない時には、理由があります』


 父から強い口調でそう言われて、私は動揺した。

「ど...どういう意味?」

 すると父は、私に向かい合ってさとすように言った。

「散歩に連れ出せば、それでいいのか? ご飯をあげてさえいれば、それでいいのか?」

「そ、それは…」

「お前は、ライルが自分の思いどおりに動かない事に腹を立てているが、それはライルが悪いんじゃない。ライルが言う事を聞かないのは、お前のせいだ。」

「ど、どうして…?」

「犬という動物は、主人の気持にとても敏感だ。自分の事を、主人がどう思ってくれているかをいつも気にしている。それは、主人がいつも自分を愛してくれているかを見ているんだ。最近のお前、ライルに対して平気で冷たい態度を取る事があるよな。思い当たる事があるんじゃないか?」

 そう言われて、私は最近の自分のライルに対する態度を振り返った。

 父の言う通りだった。

「犬というのは、人間が考えている以上に賢い。主人と考えている者が、自分への愛情を無くしたと知った時には、自分が見捨てられたと思って絶望する。そうなってしまえば、言う事を聞かなくなるのは当然だ。今のライルがそうだ。」

 それを聞いた私は、呆然となった。


 ⑤『私に沢山話しかけて下さい。私には人の言葉は話せないけど、貴方の言ってることは分かっています』


「最近のお前、ライルに話しかけなくなったよな。気が向いた時だけ、ライルを呼ぶようになってるんじゃないのか? ライルは、お前の気持が自分から離れてると察してるんじゃないのか?」

 そう言えば、最近の私は、ライルに話しかけてなかった。

 言われみれば、ライルを迎えて以来、父は帰宅すると、小一時間はライルに様々な事を語りかけていた。

 なぜライルは、その時に父の顔をじっと見詰めていたのだろう?

 話しかけられている時のライルの様子は、ただ甘えているだけではなかった。

 父の心の中を覗き込もうとする真剣さがあった。

「最近のお前のライルに対する態度が気になっていた。ライルは物ではない。心を持った生き物だ。話しかけられることで、相手と感情を共有する。それを相手がやめたら、ライルはどう思う?あぁ、もうこの人は、僕を捨てたんだな。そう思うんじゃなのかな?」

 正直、犬嫌いだったはずの父に、この言葉は言われたくなかった。

 でも....その通りだ。

 私は、まだまだライルの主人として未熟だったのだ。

 横で、私と父の会話を聞いていた母が口を挟んだ。

「お父さんのいう通りよ。ライルは、うちの家族なの。私も、ライルからはいつも色々なものを貰ってる。真琴、あなたもそうでしょう。ライルは、ただ世話をするだけの相手じゃないのよ。分かるよね。それと、ライルをこの家に最初に迎えたは誰?。あなたでしょう。それなら、ライルの本当のご主人様は誰なの? あなたじゃないの?」

 父と母の言葉には、何も返せなかった。

改めて、私はライルに向き合った。

「ゴメンね。至らない主人で....。お前との会話を怠って...。でも、これからはちゃんとする。一杯、一杯、ライルと話をするようにするから。だから、許して....ライル。これから、また前のように仲良くしてくれる?」

 その時のライルは、神だった。

 私につと近寄り、私の顔を見詰めると、手先を舐めた後そっと頭を摺り寄せた。

 その瞬間を、私は一生忘れる事はない。

 そうなんだ....この仔はかけがえの無い家族なんだ。

 擦り寄ってくれたライルの頭をぎゅっと抱きしめて、私は囁いた。

「これから、もっと色んな事を、お前に話すよ。家の事だけじゃなく、学校のことも、友達のことも、一杯、一杯......。だから、これからも、私の事、好きでいてくれる?」

 問いかける私に、ライルは尻尾を大きく振って応えた。


 ⑥『私を叩かないで。本気になったら、私の方が強いのですよ』


 ある朝、ライルとの散歩の際に、犬を連れたご近所さんに出会った。

 その男の人の手には、乗馬用の長鞭ちょうべんがあった。

 怪訝な顔をする私に、その男の人はいった。

「あぁ、これ?犬のしつけに使ってるんだ。悪さをした時には、痛い思いをする事がわかるようにね。」

 そう言いながら、鞭でかたわらの犬の首をピシリと打ってみせた。

 それを見たライルは、思わず立ち止まり、私を見上げた。

『何で、あの人はあんな事するの?』と、問い掛けて来た気がした。

「お嬢さんも、犬は甘やかすだけじゃなく、時には厳しくしつけた方がいいいよ。俺は、この方法で、今まで何頭もチャンピオン犬を育てて来たんだ。」

 私は軽く会釈をすると、すぐにその場を離れた。

 分かるけど...。私とライルには、そんなの似合わない...。

 数週間後、近所の人の噂話を耳にした。

 あの男の人が、飼い犬に手を噛まれて大怪我をしたそうだ。

 その男の人の怪我よりも、怪我をさせてしまった犬が、その後どうなったかの方が気になった。

 それを聞いた母が言った。

「あの人ね。ご近所じゃ、飼犬を虐待してるって評判だったのよ。ワンちゃんなら心配しないで。保健所に連れてかれたのを、保護団体の人がすぐに引き取ったって聞いたわ。」

 それを聞いて、私はライルに話しかけた。

「ライル。あのワンちゃん、無事なんだって。今度は、優しい飼い主に巡り合えれば良いよね。でも...本気で怒った時の犬って、怖いんだね。お前も、怒ったら怖いのかな? きっとそうだよね。お前が、本気で怒ったら、どうなるんだろう? そうだ...。もしうちに泥棒なんかが入って来た時には、お前はきっと怒るんだろうな。そうなのかな.....?」

 そう語りかける私の言葉を、ライルは首を傾げながら、じっと聞いていた。

「ねぇ。もし泥棒が家に入って来たりしたら、ライルは追い払ってくれるよね。そんな悪者から私や家族を守ってくれるよね。」

 問いかける私の顔をしばらく見つめた後、ライルは背筋を正して座り直すと一声吠えた。

『当たり前だよ。任せといて。』

 そう言ってくれてる気がした。


 ⑦『あなたには、学校もあるし、友達もいます。でも私には、あなたしかいないのです』


 ある日、クラスメイトの沙織が、突然問い掛けて来た。

「ねぇ、真琴。高村君から告白されたって本当?」

 高村というのは、同じクラスの男子だ。

 スポーツ万能で、成績も優秀。

 おまけにけっこう美形とあって、女子の間での人気は高い。

 確かに昨日、その高村からラブレターらしきものを渡されたのだが..。

 私の前で、沙織が溜息をついた。

「あんな上玉、何で振っちゃうのよ。あんたが男嫌いだとは知らなかったわ。」

「別に高村君が嫌いなわけじゃないわよ。ただ、急にお付き合いしてと言われても、今はそんな気になれない....。それだけよ。」

 すると、横から親友の優里が口を挟んで来た。

「高村君、随分と落ち込んでるみたいね。それでバレちゃったみたい.....。まぁ、真琴は、ライル命だもんね。」

 すると、沙織がぴくんと眉を上げた。

「ライル...?誰、それ...? 真琴あんた、外国人の男の子と付き合ってるの?」

 そんな沙織を見て、優里が笑った。

「ライルはね。真琴が飼ってるゴールデンレトリバーよ。あんた達、いつも一緒だもんね。高村君でさえも、あんた達の間に割って入るのは無理だったって事か...。」

 いやいや...私だって、人並みに恋愛に興味はある。

 でも、ライルのように、痒い所に手が届く態度でいつも接してくれる男子がいるとは思えない。

 ライルは、私が楽しい気持ちの時にはとてもハイになる。

 尾っぽをぶんぶんと振り回して、部屋中を駆け回る。

 逆に、私が落ち込んでいる時には、ライルもしょんぼりとした様子になる。

 落ち込んでる時の私の気持を、ライルに隠そうとしても絶対に無理だ。

 考え込む私の横に邪魔しない程度に寄り添うと、黙っていつまでもそばを離れようとしない。

 こんな事、出来る男子などいないだろう。

 沙織は、私を見て呆れた顔になった。

「真琴って、ちょっと変わってるよね。高村君みたいな完璧男子よりも、犬の方がいいなんて..。私には理解出来ない。」

 犬を飼ったことがない沙織に、私とライルの絆を分かって貰いたいなんて思わない。

 そんな私の顔を、優里が心配そうに覗き込んだ。

「真琴。あんたが、ライルを大好きなのは良く分かってるよ。でもね。気にもなってるの。ライルは、間違いなくあんたよりも先に死んじゃうのよ。その時、真琴、大丈夫....?」


 ⑧『私の寿命は10年くらいしかありません。だから少しの間でも、あなたと離れていることは辛いのです』


「ライル、お前は私を置いて、いつか先に逝っちゃうんだね。でも、その時の事なんて、私は考えるも嫌....。」

 そんな私の様子を見て、両親は心配したようだ。

「ペットロス病...? 真琴の事...? ライルはまだ元気じゃない。まさか、そんな事...。」

「いや...。優里さんから、ライルの寿命が来た時の事を言われて、考え込んでしまってるようだ。ライルももう9歳だ。これは...今から考えんとな...。」

「どうするの?」

「今のうちにもう一頭、新しい仔を家族として迎えよう。真琴ももう来年は大学生だ。ライルが気になって、引篭りになられては困る。」

「でも真琴が承知するとは思えないわ。」

「ライルは、私達が思う以上に頭の良い仔だ。自分が居なくなった後の真琴の事を、実はライルが一番心配しているんじゃないのかな?」

 勿論私は、最初は両親の提案を受け入れなかった。

「どうしてライルとは別の犬を家に入れなきゃ行けないの?」

 抵抗する私に、父はさとすように言った。

「確かに、最初はそう思うよな。でも、ライルはどう思ってるかを考えてごらん。ライルがその仔を後継者と認めれば、大歓迎してくれると思うんだがな。」

 そんなはずはない...と思っていた私の思い込みは、あっさりと打ち砕かれた。

 私よりも、ライルの方がずっと上だったのだ。

 父に抱き抱えられ、居間に下されたその仔犬は、細かく震えながら周辺を見渡していた。

 そりゃそうだよね。

 いきなり初めての家に連れて来られたんだもの。

 細かく震え続ける仔犬のそばに、最初に近寄って行ったのはライルだった。

 大丈夫、大丈夫、となだめるようにライルは、その仔に顔を摺り寄せた。

 やがて仔犬の震えが止まり、ライルのそばに歩みよると、そのふところに身を埋めた。


 ⑨ 『私が歳をとっても、ずっと仲良くして下さい』


 新しく家に来た仔犬には、キッシュという名前をあげた。

 大型犬のライルとは違い、中型のビーグルだった。

 キッシュの腹を撫でながら、父が言った。

「真琴がいない時に散歩に連れ出す時には、さすがにライルと同じような大型犬では自信がない。もう歳だからな。それにしても、ライルは本当にキッシュを可愛いがるよな。犬同士とは言いながら...。」

 キッシュは甘えん坊だ。

 何時もお腹を上にして、撫でて、撫でて、と催促してくる。

 野生の世界だったら、あっという間に喰われてしまうだろう。

 家族の姿が見えなくなった時のキッシュの居場所は、いつも決まっている。

 ライルの懐だ。

 一番安心出来る所なのだろう。

 ライルの懐に身を委ねたキッシュは、あっという間に爆睡し始める。

 そんなキッシュを見ながら、ライルも微睡む。

 ある日、優里が私に聞いて来た。

「真琴って、今はライルとキッシュのどっちが好き?」

「何それ。絶対に返答不能の質問よね。同じ家族に差は付けられないわ。」

 すると優里は、私の顔を覗き込んで来た。

「ねぇ、真琴。高村君の事、覚えてるよね?」

「あの時の事?高村君には、悪いことしたかもって、そう思ってるわよ...。」

 すると優里は、全く違う話題を口にした。

「知ってる?高村君、犬を飼い始めたんだって...」

「どうして?」

 すると、優里が肩をすくめるのが分かった。

「あんたって... 。本当に男の子の気持ちを察せないのね....」

 優里が何を言いたかったのか、全く分からない。

 ライルへの想いは、キッシュが来てからも何も変わらない。

 キッシュも、ライルが歓迎した仔だ。

 それで家族になったんだから、同じように愛おしく思えるのは当然だ。

 そこに.. 何で高村君?。

 優里は、何を言いたかったんだろう? 

 家の玄関の扉を開けると、待ち構えていたキッシュが飛び付いて来た。

 その後ろからライルもゆっくり顔を出した。

 夕食の後、リビングのソファで寛ぐ時間が、私は最高に好きだ。

 横になったライルにもたれて、その体温を感じると、とてもリラックスした気分になる。

 そんな私とライルの間に、キッシュが懸命に潜り込んで来ようとする。

 その様子を見ながら父が言った。

「今度の連休なんだが、ライルとキッシュを連れて、久々に皆でキャンプに行かないか? 丹沢渓谷に新しい釣り場が出来たそうだ。」


 ⑩『私が死ぬ時には、どうか傍にいて下さい。そして、思い出して下さい。私がずっと貴方を愛していたことを』


 歳をとったライルは、腰が弱って、思うように歩けなくなってしまった。

 その為、リビングのソファでいつも横になっている。

 昔なら軽い身のこなしで出来た動作が、いまやとてもしんどくなってしまっている。

 排泄の時に、トイレの場所に移動して戻るだけでも、結構辛そうな様子なのだ。

 今では散歩も、ライルはカートに載せて行く。

 固いペットフードだと食べにくそうなので、ライルのフードはお湯でふやかしてあげるようにした。

 ライルは、それをゆっくりと時間を掛けて食べる。

 昔なら、10秒メシだったのに。

 そして、遂にライルは動けなくなり、食事も受け付けなくなった。

 ライルを診察した獣医が言った。

「寿命ですね。ここまで良く頑張ってきましたね。最後は、ご家族皆で見送ってあげて下さい。」

 その夜、私達家族3人は、代わる代わるソファに横たわるライルの身体を撫でて時を過ごした。

 私も、父も、母も、余り言葉は発さなかった。

 それぞれが、ライルとの思い出を心の中でじっと噛み締めていた。

 家族のそばだといつもは騒がしいキッシュも、今晩に限っては、神妙にライルに寄り添っていた。

 夜半が近づく頃、ライルは静かに眼を閉じた。

 そして、そのまま天に召された。


 ライルが死んで10年が経った今でも、私の心の中にライルは生きている。

 私達家族に、多くの思い出を残して逝ったライルには、今でも本当に感謝しかない。

 その後の私の生活には多くの変化があったが、ライルとの思い出だけはいまだ色褪せる事はない。

 今の私は、新米の獣医だ。

 同じく新米獣医の夫と共に、同じ動物病院に勤務している。

 結婚して、姓も変わった。

 今の私は、高村真琴だ。

 あの高村君が飼い始めた犬というのは、キッシュと同じビーグルだった。

 優里からは、私と付き合うきっかけを作ろうと思ったのが、彼がビーグルを飼い始めた動機だと聞かされた。

 しかも彼は、大学も私と同じ獣医学部を選んだ。

 これは、どう見ても反則だ。

 そこまで一途に想われてしまうと、とてももう拒絶など出来ない。

 大学で一緒に授業を受けながら、私は彼との交際を始めた。

 そして現在。

 我が家のリビングは、いつも騒がしい。

 彼の愛犬とキッシュとの間に生まれた5匹の犬達が、縦横無尽に部屋中を駆け回っている。

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