EX2 お日様君のご挨拶(番外編)
①剣崎大佐の復帰
制服を身にまとうのは数年ぶりだった。
さらに司令部へと出向くのも数年ぶり。今日は御園葉月中将に呼ばれて、剣崎透は基地へを向かう準備をしているところだった。
ぼうぼうにはやしていた髭も剃った。今日はきちんとした身だしなみで仕事に出向かなくてはならない。ヘアスタイルも短髪に整え、以前通りの『海軍隊員』の自分に戻れた。
さっぱりとした自分の顔が洗面台の鏡に映る。
やっぱり。数年も経つと、俺も歳を取ったんだな……。そう思える皺が増えている。そんな歳月、妻にも娘にも心労をかけてしまったと、透はため息を吐いた。
ベッドルームに戻ると、陽射しが入り込むそこで、長い黒髪を束ねている妻の後ろ姿がある。
壁のハングバーに、準備した海軍制服一式をかけてくれるところだった。
「あなた。準備できましたよ」
「ああ、ありがとう。優乃香」
朝日を背に、透に微笑んでくれる妻はいつも変わらない。
でも今日はいつも以上に顔をほころばせているように見えた。
「久しぶりね。透さんの制服姿。大佐になってから初めてでしょう」
「肩章の付け替えをしてくれて、ありがとうな」
「葉月さんからいただいて、ずっと隠してしまっていたものね」
「……俺のすることに、『嘘をつきつづける』ことに付き合わせて申し訳なかった」
「いいえ。『敵』を欺いて追跡するためですもの。おなじ軍隊にいる乃愛に災難が近づかないようにしてくれていたのでしょう」
「でも。意味がなかった……」
「幾分かは遠ざけていたと思うの。そしてあなたはその間に、少しは有益な情報を手に入れていたでしょう」
「しかし。乃愛が『厄女』と呼ばれ苦労させ、ついに……」
航海に出ている娘が、艦内で男性隊員に襲われ軽く負傷したとの報告を、城戸心優中佐経由で聞いたばかりだった。
それを知った透は『俺が娘を遠ざけて、二度と軍隊には復帰しないふりをしていたのはなんだったのか』と愕然としたものだった。
妻もそうだ。自分たち夫妻にとっては大事な大事なひとり娘。ただでさえ、男社会の軍隊に送り出して『なにもされないか』という不安を常に携えている。それどころか今回の新空母艦のテスト航海でクルーに選ばれた娘が乗る艦で感染症が発生。少し前に、毒性が強い状態で世界に蔓延したときは、感染すれば死を覚悟するぐらいのもので社会を震撼させた。
そのウィルスが型を変えて毒性が弱って社会が徐々に通常に戻りつつある中でも存在は消えず、未だに日常を害するものとして、人々は注意深く暮らしている。
そのウィルスが艦内に入り込み、感染症が蔓延。艦は予定通りの帰港ができなくなってしまった。
軍から乗員家族へとその報せが届いてから、妻の優乃香は日々おろおろしていた。パートから帰ってくると『透さん。園田さんからなにか連絡はないの? 乃愛のことだけでも聞くことできない? 大河君も大丈夫? 陽葵ちゃんもひとりで心細そうだったから会いに行ってきたのよ』と、透から安心できる情報はないかと詰め寄ってきては、不安な日々を過ごしていた。
それはもちろん透もだった。娘が感染して重症化していないか、幼馴染みの大河も大丈夫か。心の奥は毎日、不安な大波小波で荒れている。
作戦本部司令である御園葉月中将が、艦内の感染症対策のマニュアルを即座に制作しウィラード艦長に指示を送ると、徐々に落ち着きを取り戻してきたという話は城戸心優中佐経由で届いた。
その時に『お嬢様とバディの彼も感染はしておらず元気にすごしているようですよ。シドが気に掛けて、なるべく目につく範囲で見守っていますから』との連絡も添えてあり、妻とホッとする瞬間があった。
しかし。その安堵する連絡を受けてから数日も経たなかったか。
娘が男性隊員から暴行を受けたとの報告をもらうことになった。
城戸心優中佐との連絡は、すこし手の込んだ方法をとっている。
彼女本人とは落ち合わない。彼女は常に御園中将の護衛として周囲に適切な隊員を配置することに神経を尖らせていて、彼女ももうおおっぴらな行動はできない立場になっている。
では。透と城戸心優中佐がどのようにコンタクトをしていたかというと、『ある人物を介して』だった。
彼女のそばにいる新入り秘書官『海野晃少佐』が連絡係になってくれている。
少し前にも城戸秘書室の中年男性が担ってくれていたが、いまはその若い青年が抜擢されている。
透が出掛ける場所に、それとなく現れる。
釣りにでかけたらそこに。倉庫の搬入アルバイトをしていれば、波止場で休憩しているときに。漁の手伝いに出掛ければ、彼自身がおなじ船に乗っていることもあった。つまり、漁の手伝いで呼んでくれる漁師が軍と密約を交わしている。そこに呼ばれたら、軍から伝言があるという仕組みにもなっていた。
だが透はなるべく、釣りに出ることにしていた。
あそこに行けば剣崎がいる。向こうからもコンタクトが取りやすいようにするためだった。
その日は釣りに出掛けたら、彼が現れたのだ。
釣り人の風情で、透がいくつか決めている釣りスポットの一カ所にやってきた。
城戸心優室長から指令を受けたら、どんな時間でも彼は釣り人の顔で姿を現す。
港の釣り場で偶然に隣同士になったふりをして、まずは釣りを始める。若い青年が、有給休暇でもとって日中に釣りに来たような雰囲気作りも完璧で、彼は透の隣に自然に位置取る。
慣れた手つきで釣り竿の仕掛けを準備し、ひゅんと沖合へむけて釣り糸を飛ばす。なかなかの腕前だった。
晴れやかな平日の日中、陽が海面にあたり波間から光が照り返す。その向こうには軍艦が停泊している軍港に司令本部が見える。
この隣にいる青年は、こうして見える新島の海軍基地を束ねる長、『海野達也総司令』のご子息でもあった。
なるほど。身のこなしに落ち着き、そして、悠然と仮の姿を演じる度胸。フロリダ本部で鍛えてきただけある。さすが、総司令殿の子息だと透も感じたものだった。
なによりも、このご子息が完全たる『御園一派の一員』であるから信用も絶大、間違いはない。彼の父親に、親しくしてきた御園の葉月おば様、そして幼馴染みの海人君を裏切ることはない。城戸心優中佐が側に置いて、いま丁寧に大事に育てていることも頷けた。
彼は報告するときに呼吸が乱れない。淡々と素早く的確に手短に報告をして、適当に釣りをした後にすっと透から離れていくのが定番だった。
これは既に優秀な諜報員だと、透も彼に信頼を置いて接触をしている。
しかし、その日、海野少佐はいつもの手早い報告を躊躇っていると透は感じた。最初に小さな小さな、ほんとうにわずかなひと息、ため息をついたのだ。
その報告が――『そのまま伝えます。お嬢様が艦内で総務の男性隊員から暴行をうけ、いま療養のために艦内で業務停止状態で職務から外れています。人目がある場所での襲撃だったのですぐに警備隊が男を拘束したとのことで、お嬢様は軽い負傷ですんでいます。シドがそばにいたのに、申し訳ありません――とのボスからの伝言です』だった。
さすがの透も頭の中が一瞬真っ白になる。思わず、見ず知らずの釣り人同士を演じなくてはならないところ、彼の姿を凝視していた。
それが伝わるのか、海野少佐からリールを巻いて釣り糸を巻き上げ、帰る支度を始めてしまう。道具を片付けながら、彼がさらに追加の報告をしてくれる。
『エリーがバックアップについています。ご安心ください。お嬢様はいま女性専用区画で美祢少佐が付き添って落ち着いています。騒動の発端は感染症が蔓延した原因は厄女の剣崎少尉が、艦内パニックを引き起こそうとしている者と通じて手引きしていると疑われたためです』
釣り竿をケースにしまいながらも、合間合間に『ああ、今日は手応えなさそうだな。早めに引き上げよう』――なんて、そこは声を張って帰る準備をしている釣り人を演じることは忘れていない。
そのあとに彼が簡潔にまとめたことは、『襲ってきた男は総務に弟もいて、その弟の結婚式が今月中に予定されてたが帰港できないため中止になった。感染症が入り込んだ原因を剣崎少尉が手引きした何者かのせいだと決めつけた。その言質を取ろうと男が暴力で自白を迫った』とのことだった。
それだけ伝えると、海野少佐はさっと釣りスポットから去って行った。
透はしばらく茫然と、青く煌めくままの水平線と空を見つめるだけになった。
自分がやってきたことはなんだったのか。
娘に強いた我慢はなんだったのか。
俺が駄目な男を演じていても、相馬を殺した男は娘を利用して御園を貶めようとしている。あるいは俺をまたひっぱりだそうとしている? 『犯行現場にいて目撃者』でもあるから。
様々な思いが巡り、娘が帰港するまでに透は決意を固めた。
また釣りスポットを日替わりで回っていると、海野少佐が現れる。
遠く離れた場所で小一時間、彼が他人の顔で釣りをしていた。また帰り支度をして、釣り竿ケースとクーラーボックスを肩にかけてそこを去る。車へと向かうその道の途中に、座って釣りをしている透がいる。
背後、さしかかった時に、彼が透が側に置いているバケツを覗いた。
「獲れていませんね」
「釣れませんね」
「自分も駄目でした。場所を変えるところです」
そんな釣り人同士ぽい会話を交わす。
その後、彼が声を潜めて口早に伝えてくる。
「帰港が来週半ばに決定。帰港後、お嬢様はエリーにお任せください。自宅到着と同時にピックアップして保護、警護します」
すぐに娘を迎えにいきたかったが、これまであからさまに避けてきた父親が急に駆けつけては娘を混乱させるかもしれないと迷っていたので、そこは助かると透もほっと胸をなで下ろす。御園に任せておけば、なによりも安全だ。
『娘を迎えに行く』――。そのまえにやっておかねばならないことがある。今日はそれを、この連絡係の彼に伝える決意をしていた。
「軍に戻ります。そう伝えてほしい」
彼の呼吸が乱れたのがわかった。でもさすが。他人の振りだから、彼はそこで透の心情を追求するような問いを口にはしなかった。
「了解――」
すっと青年が去って行く。
すこし離れた場所に駐車していた軽自動車に乗り込み、ドアを閉める音が聞こえた。
透が司令部基地内に姿を現すとまた混乱を起こすため、ミセス中将から直々に呼び出されるまで透は待つ。
娘が帰港。それから数日して、ミセス中将から呼び出しがかかった。
数年ぶりの基地への出勤となる。
表向き『辞職』をしたことになっていたが、『御園中将の意向で極秘の開発に携わるために外部に出向していた』という筋書きが準備されていた。
そのお達しをしていたボスのところへご挨拶が今日、久しぶりに制服を着る日となった。
娘が帰港して数日、保護された状態で心身ともに健やかに過ごしていると聞いて、父親としてさらに安堵する。
透は新たに前を向く。今日からは、真の姿で真っ向勝負で敵に向かう所存。娘も妻も、相棒の家族も守ってみせる。
その決意で、基地の司令作戦本部へと向かった。
★――
ミセス中将とも久しぶりに対面をした。
彼女配下の隊員を通じて何年も連携をしていたのに、その麗しいお姿を目の前にしたのは久しぶりだった。
立派な司令室に入室をすると、応接ソファーではなく、彼女の大きなデスクの前に椅子が用意されていて、そこで向き合うことになった。
透がDC隊員となって艦に乗り込み、初めて彼女を目の前にした若いあの日から見る目は変わらない。確かにお互いに老いてきたが、それでも透にとって、ミセスはミセスのまま。栗色の髪とガラス玉のような琥珀の瞳、冷たい表情で悠然としているアイスドール。……いや、陸に上がってから表情は少し柔らかくなったか……。
そんなミセスの琥珀の目が午前の陽射しに輝きながら、透を捕らえた。
「おかりなさい。剣崎君」
「ありがとうございます。御園中将。我が儘を聞き入れてくださり感謝いたします」
「まあ……。向こうはお嬢様を盾にあれこれやりだしたんじゃあねえ。敵を欺くために味方を欺く意味もなくなってきたわよね。でも『数年は守れた』と私は思っているのよ」
妻とおなじことを彼女も呟いた。
自分よりかは何歳か年上のこの女性上官、透が所属する艦隊を彼女が常に率いてきた。現場を退いても、いまは中枢で四方八方を見渡し、司令部から隊員を守っている。長年、防衛に身を投じてきたこの女性を、透は部下として見続けてきたから、この女性がそういうなら間違っていなかったのだと思うことができた。
そして、ミセス中将はから『娘になにが起きたか』を詳しく聞かせてもらい、『今後、どうしていくか』も示唆される。
その中のひとつを明かされる。
「実はね。お嬢様のそばで起きたインシデントをデータ化してみることにしたの。『厄女』がどう仕立てられてきたか、いつから仕立てようとした動きが起きたのか。可視化できるのではないかという狙いでね」
「それは自分も常々気になっていました。しかし、軍から離れていましたから、データ閲覧の許可をいただける状態ではありませんでしたし。まさか娘を軸に、狙いを定めたインシデントをそんな頻繁に起こせるものかと懐疑的にも思える部分もあります」
「そうね。だから、これを機に『お嬢様自身』にその仕事を任せることにしたの。夫がね、『宿題』と称して、お嬢様とうちの息子に命じたの。あ、表向きは私が命じたことになっているのだけれどね」
定年がやってきて退官をしたはずの彼女の夫も、まだまだ裏でご活躍のようだった。
いやそれよりも――! 何故ご子息と娘が――と透はのけぞった。
「海人君と、うちの娘で、ですか」
「そう。海人にもいい勉強だと思うの。なにより、内密に捜査を進めるためには、息子ほど信用できる隊員もいないと思ってのことなのだけれどね。これまでの航海データを開示することにしたの」
そこで透は気がつく。
「相馬が殉職した日のデータもですか……?」
「そこは警務隊にいるテッドが閲覧制限をする準備をしているわよ。安心して。『殉職事故があった』と手短なデータで、殺人があったなどは隠しておくの」
「そうですか」
まだ娘には知られたくない気持ちがあったため、透は若干の動揺していた。知られたくないが、それで娘を守れるのかという戸惑いも生じた。目の前のミセス中将も見抜いていたと思う。
「なので。息子も今日、ここに呼び出しているの。もうすぐ来るはずよ。待っていてね」
「え、海人君が、ですか」
「うん。そろそろなんだけど……」
ミセス中将が司令デスクで腕時計を眺める。
彼女の後ろにある大きなガラス窓の向こうには、白い
やがてこの司令室ドアからノックの音。
外からドアを開けたのは、秘書官の海野少佐だった。
「中将。御園少佐が到着いたしました」
今日は制服姿の彼を見て、透は思う。お父様が若いときにそっくりになってきた美男。釣り人スタイルの時にはどれだけその空気を押し殺しているかが良くわかる。制服の軍人になると、とんでもなく美麗なオーラをもった青年だと目を瞠った。
黒髪の青年の後ろから、栗髪の青年が現れる。
久しぶりに見るその青年も、すっかり大人の男性になっていた『海人君』だった。
「中将、お待たせいたしました。おじゃまいたします」
美しいお辞儀と敬礼。そこに現れた青年は、ミセス中将にそっくりだった。こちらは光り輝くといいたくなる佇まいだった。
※次回、2/19 朝6時更新予定
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