2.カイ君は誤魔化せない

 前カレは『最初のバディ、先輩で上官だった』。

 そう告げると、海人の息づかいが止まる。

 いまいちばん愛しい人がなにを感じたのか、乃愛も固唾を飲む。


 今夜もこの部屋は、品の良いアロマの香りで包まれている。

 きつくなく、さりげなく漂わせるほどで、男性なのにこんな空間作りが手慣れている海人先輩の部屋。乃愛にとって、いまいちばん素敵な場所だ。その部屋はいまは薄暗く、ほんのちょっとの照明が窓辺の夜の色を醸し出している。ここでは彼とただただ甘くすごしていたいのに……。

 項垂れていた海人から、やっと息づかいが伝わってくる。


「入隊して初めて社会に出たも同然の新入隊員の女性をたぶらかしたってこと?」


 思慮深い彼が、黙っていた間に辿り着いたのがそこだったようだ。

 乃愛は少しばかり驚きつつも、なにも言わずとも通じそうでホッとして答える。


「いまの私は、そう、感じてる」

「その男、いまも結婚したまま? 乃愛から乗り換えた時の結婚相手のまま?」

「うん。離婚はしていないと思う。岩国の艦隊に所属しているよ」

「岩国――。英兄えいにいがいるところか。だったらトップ司令はフレディ兄さんだ。ふむふむ」


 英兄えいにい。岩国基地航空部隊、空海飛行部隊の部隊長をしている『鈴木英太大佐』のことだと乃愛も頷く。彼の『家族同然のお兄さん』であることは乃愛ももう知っていた。そして実妹・杏奈ちゃんの恋人で、夫同然のパートナーで同居人だということも。

 その鈴木大佐の大親友で、戦闘機パイロットとしては僚機であった『クライトン准将』が、数年前、岩国基地の司令に就任。僚機バディそろって転属したんだとも聞かされていた。


 その配下に乃愛の前カレがいる。『気になるなら、兄さんたちに聴けばいいか』と、海人は気がついたのだろう。

 いまあの男がどうしているか乃愛は知りたくもない。


 あの男のことを思い出すと、黒い感情が奥底から湧き上がってくる。

 悔しさ、自分の未熟さ、幼さ、情けなさ、憎らしさ……。様々なものが。

 二度と会いたくないと思っている。そして、いまの自分がDC隊の女性隊員として、少尉として、出来ることならやり返してしまいたいと思っていることがあり、それがずっと胸に燻っている。


 そんな乃愛の様子を知ってか知らずか、海人は乃愛に再度問うてくる。


「その男とはそれ以来は会っていない?」

「仕事以外では会ってない。仕事でも、合同訓練で一緒になったとかで、向こうの部隊にいるなと見かける程度。私からは絶対に近づかないし、向こうも近づいてこない」


 だって、あいつ。絶対に後ろめたいことがあって、二度と乃愛に近づけなくなっているはずだから――。

 そこが乃愛にとって『最初の男はサイアク過ぎた』所以ゆえんなのだ。


 だが乃愛が心の秘めて言いたくても言えないこと、乃愛にしか感じられないはずの心のひだを、海人には見抜かれてしまう。


「向こうからも近づいてこない。つまり、向こうの男は、乃愛に後ろめたいことがあるということ?」


 喋れば喋るほど……。この先輩にはバレてしまうし、暴かれてしまう!? 乃愛は驚愕し、海人の瞳と目があってしまい戦慄く。

 これは彼の追求は最後までやまないと乃愛は観念をする。


「その、業務中もずっとボディタッチをしようとしてきて。かわすのに大変だった。恋人同士だろとも言われたけど、それでも嫌なものは嫌だったし」

「はぁ?」


 海人の目が一瞬で凍った。あの温かい琥珀の瞳が凍るときの瞬間ったらもう、アイスドールのお母様そっくりで恐ろしくなる。


「完全たるセクハラだな」

「……だよね! 私、間違ってないよね! でも、私、その時は……、大人の男性とか男性隊員のノリってそういうもんだと思い込もうとして……」

「他になにかされた?」


 淡々と聞かれるその口調は、彼が少佐として聴取をしているようにも思えた。だが乃愛はかえって話しやすい気もちになっている。これが怒りを露わにするカレシだったら、彼の心情を慮るあまりにすごく戸惑っていたと思う。だが海人はいま、自分の心情より乃愛の心情をすくい取ろうとしている恋人であって、以上に客観的に情報を分析しようとしている『信頼できる少佐』であろうとする比重のほうが大きい。


 だから乃愛はいままで人にあまり明かせなかったことを、勇気をもって伝える。


「男性の住居区域に『来い』って言われた。他の男たちは余所に追いやるから、二人きりになって一晩過ごそうって。ほかの恋人たちもしているから気にするなと言われた――」

「それで乃愛は従った?」


 乃愛は首を振る。


「規則違反だし……。嫌な空気を感じたの。彼の周囲の男性たちが、私を見て面白そうににやけているのを。すごく不穏なものをかんじた」

「つまり……。ひとりの女を誘い込んで、男たちが……ってこと?」

「それもありうると思って。危機感が募って、約束を破った」

「バディの男は? それで乃愛にどんな態度に変わった?」

「面白くない女だ、俺のことをなんだと思っていると文句を言われたから、規則違反だし『父に叱られる』と言ったら、無口になって、艦を下りるまで業務以外は口をきいてくれなくなった。周囲の男たちもなぜか私を避けるか、逆に取り繕うように優しくなった者もいたよ。言いたくなかったけど『父、剣崎中佐に知られる』ということは、お守りになっていたのかもといまは思うの」


 乃愛は再び強く目を瞑った。

 新入隊員の時には訳がわからなかったことが、大人になって『男のよこしまさ』がなんであるかわかってきた。『あれってすごく危なかったんだ』と気がついた時にかいた冷や汗の感触や、『あいつら、まだそんなことしていないよね』という女性隊員としての不安がずっと燻って残り続けている。自分にできることはしたと思う。然るべき軍の機関に申告もしたけれど、なんの変化もなかった。


「よくわかった。もう……いいよ……。いろいろ聴いて、ごめん。乃愛……」


 目を瞑っているうちに、窓辺にいた彼が乃愛のそばへと戻って来てくれる。

 タオルケットを巻いている乃愛をそっと抱きしめてくれる。黒髪にキスを落としてくれた。

 そして、それ以上、海人はなにも問うことはしない。『あの瞬間に海人を直視できない』ことにももう触れてこない。


「シャワー浴びてくる。なにか冷たいドリンクでもつくろうか。カクテルでもソフトドリンクでも」


 下着を身につけた彼が、ベッドのそばにある棚へと向かう。

 アンティーク調の木棚には、アロマストーンがいくつか置いてある。そばにはアロマオイルの小瓶も並んでいる。その茶色の小瓶を手に取り、蓋を開けた海人が一滴二滴つぎ足した。


 いつもの香りがまた鮮烈に漂い始めて、乃愛はますますホッとする。

 心落ち着ける効果でもあるのかな? 茶色のガラス小瓶に品名はなく、『右京』とだけプリントされている。そして『海人』とマジックペンで書かれた白い紙シールが貼られている。

 聞けば『鎌倉にいるオジサンの趣味で特別にブレンドしてもらっている』とのこと。だから、どこにもない香りとのことらしい。

 先輩の『和』のトワレも鎌倉のオジサンのブレンドとのことだった。


 この部屋の香りも数種類あるけれど、乃愛が『これが好き』となにげなく伝えたものが、訪問するときに必ず使われている。

『やっぱり乃愛はマリン系だね。父さんもそうなんだよね~』――。隼人お父様がお気に入りのアロマは海人にとっては『父の匂い』らしく、そのブレンドも置かれているとのこと。いまは恋人が好きな香りにもなったと言っていた。


 その匂いを置いて、海人はひとりシャワールームへと消えていった。


 ベッドにひとり人残った乃愛も、上質なタオルケットにくるまったままため息を吐く。


「あんなやつのこと。知られたくなかったな……」


 でもカイ君、誤魔化せないんだもん。

 乃愛の小さな仕草も僅かな表情もきちんと見てくれていて、そっとしてくれるのも上手いし、気遣ってほしいとか構ってほしいときはきちんと声をかけてくれる。

 でも。ふたりだけの大事な時間を邪魔するものは見逃せなかったということらしい。




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