第2部 女神になる日

1.ニセモノの恋


 恋をするようになって初めて知ることがいっぱいある。

 乃愛にとって、その中のひとつは『これが本物の恋である』ことであって、『前のあれはニセモノだった』ということだった。


 御園海人少佐と恋仲になって、そんなに時間をおかずに身体を結んだ。

 太陽のトゥリングを指にはめてくれた日の夜。マリーナ地区にある彼の部屋で、彼のベッドルームに初めて訪ねて、そこで一夜を過ごした。


 乃愛はすごく緊張していた。

 正直、セックスに興味がなかった。いや、なくした――といえばいいのか。いい思い出がないのだ。

 それが海人先輩に伝わらないよう、乃愛は努めた。

 男の人は勝手に女の身体を触って、好きなように扱って、どうやっても女の身体の中に力を込めて入ってきて、獣のように我を忘れた行為を上から押し付けてきて、女はそれに耐えなくちゃいけない。男が我を忘れる『あの一瞬』が怖い。あの時の男の顔が、乃愛はどうしても受け入れがたくて、男の怖さを理解して女は受け入れていくものなのだと思っているのだ。


 そんな受け入れがたいことに慣れて『大人の女になる』なんて、面倒なことだなと思ってきた。

 父と母はどうだったのかな。お父さんもあんな怖くなるの? お母さんはそれを平気になったの? お父さんのために? それが愛なの?

 なんて……。いま思えばすごーく子供だったと乃愛は振りかえる。


 そしてその子供みたいな思考を置き去りにして、乃愛は男は皆無、元気いっぱいマリンスポーツひと筋な海軍女子ライフを送ってきたのだ。海人先輩とこんな関係になるまでは、だ。


 なのになのになのに。全然違った。

 なにあの先輩の美しさ。男って荒々しくて勝手な動物に変貌するんじゃなかったの? なにあの優しいの。なにあの、うっとりするの。匂いもすごく、いい匂いしか記憶にない。

 海人と過ごした一夜は、それまでの乃愛の恋愛観を一変させた。


 それでもだった。あの瞬間だけ、どうしても目を瞑る。

 男が本能的になった一瞬、もしも『カイ君』も、あの男とおなじような顔を見せたら……見てしまったら……、乃愛は『男そのもの』に幻滅するような気がして。

 海人先輩には美しいままでいてほしい。幻滅したくないよ。そう思って、乃愛はその瞬間は目を瞑っている。顔を背けて見ないようにしている。気がつかれないように――。

 顔を逸らしてうっすらと瞼を開けると、今夜もこのベッドルームには、夜の静寂しじま色につつまれた碧い海――。

 男の熱が乃愛の身体の中に少し残って、海人の身体の重みも乃愛の上から去って行く。

 大きな窓辺に広がる静寂の海と、微熱を帯びた素肌を見せる男が見える。



「あのさ……。聞いていいかな。俺、乃愛が嫌がることしてる?」



 今夜『気がつかれていた』と乃愛は知り、事を終えたベッドの上、素肌の状態で驚愕する。

 彼の大きなベッド、窓辺側になるベッドの端に腰を掛けている海人先輩――。汗ばんだ額に張り付く栗色の前髪をかき上げながらため息を吐いて、綺麗な素肌の背をまるめて項垂れている。


「我慢、させているのかなって。最初から思っていたんだよね、俺……」

「が、がまんって?」

「ほんとはセックスに興味がないのに、俺に合わせて無理矢理、付き合っているっていうのかな……」

「無理矢理じゃないよ!」


 トゥリングをはめてくれた日の夜なんて。彼と一緒にいる時間のなにもかもが素敵で、愛おしい気持ちに溢れてこの部屋に来た。男らしい匂いより、いつも気を遣って癒やせる空間になるよう手入れをされているきちんとした匂いがしていた。ほのかなアロマオイルの匂いがする部屋なんて、丁寧なことが好きな海人先輩らしい。そんな彼らしさに乃愛の心は安堵に包まれて、ごくごく自然に、海人へと素肌をさらして、身体を委ねることができた。


「最初から、素敵な夜だよ。ここに来ること、私、とっても楽しみにしているし大好きだし……。癒やしの空間だよ」


 なにも身につけていない素肌にタオルケットを巻きつける。乃愛は気恥ずかしい思いで、海人の視線を避けるようにそっと背を向けてしまった。

 それが彼を焦らせたのか、海人から包み隠さず彼の本心を乃愛にぶつけてきた。


「いや、乃愛が嬉しそうにしてくれて、俺にもかわいく寄り添ってくれる瞬間も伝わっているから! だから……余計にその、あの……。あの瞬間っていうか……。あの時って、男は、一瞬、我を忘れるから、女性を置き去りにしがちだとはわかってるんだけど。一度、乃愛にとってはそれがダメなんだと気がつくと、自信をなくすっていうか……。だんだんと、力をなくしそうな感触があって……。今日もやっとだったというか……」


 うわっ! やばいやばい。このままじゃ、カイ君にトラウマを植え付けちゃうかも!? 御園家長男を不能に追い込んだ女なんてなったら大変だ!! いや自分の立場より、カイ君にそんな嫌な思いを植え付けたくない!!


 乃愛は覚悟をする。正直に言おう……。

 でも、『前の恋愛』なんていまカレに伝えるなんてデリカシーないのでは? そう思って乃愛は心に秘めて、それでもカイ君との恋は最高――と思って来たのだ。

 だがどうにも乗り越えられていない一瞬だけが、海人先輩であっても立ちはだかっている状態。


 思い悩み憂う彼の横顔。それすらも美しい。乃愛もそんな彼が愛おしい。そんな顔を自分がさせているだなんて、乃愛の胸に痛みが走る。

 だから信じて告げてみる。乃愛も眼差しを伏せ、緊張で早く動く心臓の鼓動を抑え込むように、小さく呟く。


「えっと、あの。前がサイアクだったの」


 夜の海が月明かりで青く浮かび上がってる。それを前にして、項垂れていた海人の視線が肩越しから、乃愛へと注がれる。


「前の? 少し前に教えてくれた『男から押し切られて、こんなものだと思い込んでつきあってみた』とか言っていたあれのこと?」


 付き合う前にちょっと話したことも、きちんと覚えてくれている。乃愛は素直に頷く。

 また彼の深いため息が聞こえてくる。話しちゃいけなかったかな。乃愛は不安になる。あんな男の話なんて、カイ君と一緒に素敵な時間にこの空間に持ち込みたくなんてなかった。でも、それが原因で彼を困らせているなら……。避けてこじれて心が離れるのはもっと嫌だから……! 乃愛はこの重苦しい瞬間が過ぎ去るのを、目を強く瞑って願う。


「そいつ。乃愛の上官だった? おなじDC隊員と言っていたよな」

「その……」


 だめだ。海人先輩ほどの男性が、そこをなあなあにして聞き逃してくれるはずもない……。再度、乃愛は意を決して告白する。


「いちばん最初のバディで、指導付きの先輩だった」


 乃愛にとって『とても近くなった』と感じられるようになった彼の息づかい。それが止まったのがわかった。


 あんな男との交際なんて『恋した』とは言いたくない。

 あれはニセモノだ。乃愛は、大好きなこの人にそう伝えたい!

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