49.明日もSunny
プロペラ機をハンガーに駐機させ、海人先輩の赤い車で空港を後にする。
午後、昼下がり。夕暮れまで今度は新島の海沿いや峠道をドライブして楽しむ。
「少し休憩しようか」
海が見渡せる峠道の途中、なんにもない原っぱみたいな場所に先輩の赤いトヨタ車が左折して駐車した。
季節の緑に囲まれているが、先は溶岩が固まった跡の崖になっている。
それでも小笠原ボニンブルーの海が遠くまで広々と見渡せる場所だった。車のフロントも海と空がいっぱいに広がっている。
先輩から運転席を降りたので、乃愛も助手席のドアを開けて降りようとした。でも、こんな時も海人さんは完璧で、さっと助手席に回って乃愛より先にドアを開けてくれる。
「ありがとう、先輩」
と、彼を見上げて微笑んだのに。
助手席から降りようと両足を外に出しただけ、まだ座っているままの乃愛の足下へと、彼が地面にひざまずいた。
え、なにごと? 乃愛が唖然としていると、先輩が乃愛の足を見つめていた。
「靴、脱いでくれるかな」
「え? りょ、両方?」
「片足でもいい」
なんのつもり? でも先輩の顔は、フライトで離陸操縦をしていた時と同じ真顔だった。
訳がわからず、乃愛はひとまず片足の靴を脱ぐ。
靴は脱いだ足の下へと、海人先輩が置き直してくれる。
さらに、紺色のジャックパーセルの上に乃愛のつま先をそっと置いてくれる。
でも乃愛のつま先を見て、ちょっと驚いた顔をしていた。
「こんな靴下があるんだね」
「えっと、裸足でスニーカーを履く季節はつま先だけカバーしてることもありますよ。ネイルチップつけたりしているので」
今日も乃愛の足指には、ラインストーンやラメで飾った白いネイルチップを付けていた。でもトゥカバーで隠されている。
そのつま先をまた先輩がじっと見つめている。
ほんとになんのつもり? まさか、足フェチ? 先輩の嗜好をついに明かしてくれているの? だとしたら受け入れなくちゃいけないのかと、乃愛はドキドキしている。
「これ、脱がしていいかな」
脱がすのひとことに、乃愛はドッキリ跳び上がりそうになる。
もちろん、つま先を覆っているレエスのカバーのことだとわかっている。
「い、いいですけど」
「じゃあ、ちょっと失礼するよ」
乃愛の目線の下で、跪いたままの先輩が、男の長い指先で女の足に触れた。まだキスもしていない、肌も触れ合っていない関係だったから、乃愛はそれだけで、もう恥ずかしい。
しかも下着みたいなレエスのカバーを、男の人がそっと触れて脱がしているの……。もう『脱がされている』に等しくて、乃愛の身体の芯が熱く火照ってきる。
とうとう先輩がレエスのカバーを脱がして、ジャックパーセルの上へとひとまず置いた。
少し日焼けしている足に、夏らしい白いネイル。それもカイさんはまだじっと見つめている。
「さすが。靴マニアだけあって、いつも足を綺麗にしているね」
「夏は特に。だって、素敵なサンダルをもっと素敵に見せたくて」
「じゃあ、ここに、記念の印をつけていいかな?」
大きな手に乃愛の片足を載せたままの先輩が、そんなことを呟き乃愛を見上げている。
恭しくひざまずいて、ハチミツ色みたいな綺麗な栗髪を太陽に煌めかせ、琥珀の瞳で乃愛を見つめている。
「印って、なに?」
そこで先輩がパンツのポケットへと手を突っ込んだ。取り出してみせたのは、焦げ茶色の木箱。手のひらサイズのそれを開けると、金色のリングが出てきた。
乃愛は驚き、ただドキドキして黙っていると、先輩がそのリングをつまんで、乃愛の足下へと近づけてきた。
「トゥリング。乃愛なら知っているかな」
足指に付けるリングだった。もちろん知っている。
そのリングを、先輩は乃愛の足の指、中指へと通してくれた。
「……素敵」
金色のリングの真ん中には、太陽の彫り物がしてあった。
「乃愛へ。俺とパートナーになった記念に。勝手にお日様のデザインを選びました」
お日様サニーの印を乃愛につけてくれたのだとわかってきた。
乃愛の目にまた涙が浮かぶ。今度は歓喜の涙だった。
「私、海人さんのパートナーとして胸張って、いいよね?」
「もちろん。リングを付けている女性じゃないと、俺のカノジョじゃないってことだよ」
「嬉しい……」
そこで海人先輩がまた真顔で、乃愛を見上げてまっすぐに視線で捕らえてくる。
「だからもう『私なんて』と言わないでほしい。君だけ、乃愛だけ、やっとそう思える女性に出会えたんだから。俺は御園の長男じゃない。海人だよ。遠慮されてすれ違って離れていくなんて、俺だって耐えられない」
乃愛以上に、海人先輩も『恋は不確かなもの』と身につまされていたと知る。
「私のお守りだね。お日様サニーの太陽がいつもそばにある。大事にするね」
「ハワイアンジュエリーだから、彫り模様そのものが縁起がよいものばかりだよ。『太陽』は『魔除け』の意味らしい。乃愛を厄から守って欲しくて選んだのもあるよ」
午後の陽射しに、キラリと金色に輝くリング。乃愛の指先に、太陽が宿ったよう。
靴が好きで、サンダルが大好きな乃愛にはとても嬉しい贈り物だった。
「せっかくだから、もう少し増やしたいだろう。誕生月はいつ?」
「九月――」
「次はプラチナで、乃愛が好きな彫り模様に、誕生石をつけるよ。九月ならサファイアか。水が似合う乃愛にぴったりな、深い青色の石を選ぼう。今日のボニンブルーみたいな青をね――」
素敵な提案と約束をしてくれて、乃愛の顔も綻ぶ。
男と女は急には無理。でも一緒にいて心が震えて心地よく通じるから、そばにいたい。そんなスローなステディから始めたから、いつまでも先輩後輩が抜けなくて……。そんな乃愛と先輩が、最初に望んだゆっくりな速度で始まった恋だったはず。
なのに。乃愛はいつのまにか、『海人』という男性から男を感じ始めて、自分も身体の底から『女』を感じ始めていた。
そうなって初めて、『私は、こんな王子様のような綺麗な男性に相応しい女性なのか』と我に返っていた。ふわふわとしたままの子供のような気持ちで、この人のそばにいつまでいられる? 一緒にいて楽しいだけの女の子なら、ハイスクールの時のパートナーとかわらない。大人の女性として付き合いだしたら、急に波長が合わなくなって、すれ違うこともでてくる?
でも、今日、乃愛は。自分を大人の女性として『そばにいて欲しい』と告げてくれた男性を目の前にして、やっと湧き上がってきた。女の感覚が。
「乃愛?」
また神妙な顔つきで黙り込んでいる乃愛を不安に思ったのか、地面に跪いたままの海人先輩が、下から乃愛の顔を覗き込んだ。
指に付けてくれたゴールドのリングのように、お日様君の瞳も綺麗な黄金色。美しく透き通ったその瞳の奥へと、乃愛はダイビングをするような錯覚を起こしていた。
その琥珀へと、乃愛は飛び込む。まだ座っていた助手席のシートから、跪いている先輩の首元へと抱きついて、飛び込んでいた。
「うわっ、ちょっと、乃愛――」
上から勢いよく抱きついてしまったから、先輩が乃愛を抱きかかえながら地面へと倒れ込んでしまった。
先輩の身体の上に重なって一緒に倒れてしまった乃愛もびっくりして、すぐに起き上がる。寝そべっている先輩の身体のうえで、乃愛は慌てる。
「ご、ごめんなさい。カイさん、だ、大丈夫?」
乃愛を上に乗せたまま、海人先輩がそっと半身起き上がった。
栗色の髪をかきながら、起き上がった先輩の目線は、身体の上にどすんと乗っかっている乃愛の目の前に――。
また先輩が目の前でクスクスと可笑しそうに笑って、ちょっと乃愛から目線を逸らしてしまった。
「え、先輩。また笑ってる。私のこと」
「いや、いつも予測不可能というか。驚かせてくれるのがすごく楽しいというか」
「そ、そうなの? でも、私だって、先輩のこと、いろいろ驚いてばっかりなんだからね。御園が凄すぎ!」
「それも、慣れていってよ。どう足掻いても、俺は御園の長男。それだけは、乃愛も避けられないよ。……避けて、離れていってほしくない……」
そこで先輩はふっと哀しげに眼差しを伏せた。
「もしかすると。親族が選ぶ見合い結婚かなあ。なんて思っていた。自分から好きになれる女性に出会える気がしなくて。千歳のようなことは二度とないと思っていたんだ。それほどに『そばにいて欲しい女性がいる』と思えたことは、俺には簡単なことじゃないよ。何度も起きる気持ちじゃない。そう思ったから。いま……必死なんだけど……」
家柄的に女性を選ぶには慎重になるし、自分から欲した女性はいままでひとりだけ。しかも成就しなかった恋。これまでの最高の恋心を胸に秘めて、二度とないものだと思っていた男性が、もう一度出会った『気もち』。たとえ、ほんのちょっとの回数しか会っていなくても、その時一瞬一瞬の乃愛が先輩を揺り動かしたのだと教えてくれる。
そんな先輩のこれまでの気もちを聞いて、乃愛の心も解きほぐれる。
赤い車の物陰、砂利の上で座り込むふたりが見つめ合う。
潮風にふかれる乃愛の黒髪が頬をくすぐっている。その頬に先輩の手が触れる。
乃愛を乗せている先輩が、おなじ目線で見つめ合って囁く。
「だから、そろそろ。俺の部屋に泊まってくれないかな」
男性としての申し込みだと、乃愛は受け取った。
乃愛の答えも決まっている。海人先輩の琥珀の瞳を見つめて微笑む。
「私も、そろそろ。女として、愛したいな。海人さんのこと――」
見つめ合う目の前、彼の瞳が綺麗に乃愛を写して、そっと微笑みを浮かべてくれる。
「俺のこと、愛してくれるんだ」
「もちろん。だって、ほんとはね、もう……」
すぐ目の前にある彼の唇へと、乃愛から静かに近づける。
彼がまつげをそっと伏せ、乃愛の吐息を感じているのも伝わってくる。彼の息も乃愛の唇に熱く届いたから。
そのまま一緒に目を閉じていたと思う。乃愛から近づけた唇だったけれど、先輩から触れて重ねてきた。
やっと重なる唇と唇。でも一瞬だけ、すぐにお互いに離れてしまった。
もう一度、目の前でふたりで見つめ合う。
また『おなじ気持ち』を感じている。ここから先はもう……。『男と女』。心の中では裸になっている。
彼の身体を跨いでずっと乗っかっているまま、もっと前へと迫るように近づいてみる。先輩はまた身体を迫られるまま背中へと傾いて、砂利の上へと両手をついた。
それでも乃愛はそっと微笑みながら、海人先輩へと再び唇を近づける。
「これ以上、もっと、愛してもいいでしょう」
「じゃあ、愛してもらおうかな」
今度は乃愛から唇を重ねた。あの和の匂いが乃愛を包み込む。
今度は一瞬のキスじゃなくて、深く深く交わる長いキス。
女の乃愛が真上から迫るように男に重なっている中、海人先輩の手が初めて、乃愛のシャツの下をくぐっていく。薄いキャミソールの上から、いままでに感じたことがない男の人の体温が伝わってくる。その手が乃愛の腰のくびれをしばらく撫でて、そのうちに背中へと回って愛おしそうにずっと撫でてくれている。
もうそれだけで――。乃愛の身体の芯から女のなにかが溢れ出てきて、もう止められないところまで来たと熱く感じている。
ひと頃して、やっとふたりの唇がほどける。
それでも乃愛は海人先輩に抱きついて、そのまま離れようとしなかった。海人先輩も乃愛を膝に乗せたまま、身体を起こして両腕の中へと抱きよせてくれる。乃愛も彼の胸元へともたれて抱きかえした。
「さあ。噴火湾をひとまわりドライブをして、お母さんのところに行こうか」
「うん――」
「なにを食べようかなー」
「オススメはフライドフィッシュなの。私、タルタルソース、絶対に二袋使っちゃうの。いままではお父さんがくれて……。あっ……」
まるで『今度からはカイさんが譲ってね』とねだったみたいな言い方に気がついて、乃愛は口をつぐんだ。
「そうなんだ。じゃあ、俺もフライドフィッシュをオーダーして、タルタルソースは乃愛用ってことだね。俺はナゲットでも頼んで、そのソースで食べるからいいよ。俺、あそこのメニューならナゲット必須だから。マスタードソースがイチオシなんだ」
乃愛はびっくりして、まだ乗っかったままの姿勢で海人さんを唖然と見つめた。彼も『どうしたの』と首を傾げている。
「父と同じ事してくれるし、思いついてくれたから!」
「ああ……、そうだったんだ。あはは、俺、お父さんと一緒の感覚で良かった、かな?」
『まだまだパパには敵わないけれど、まずはパパのようなカレシになります』と先輩が言いだした。でも、ふたりでそこも笑いあった。
「パパ以上の人になるよ、絶対」
「光栄ですね。大佐殿のお嬢様だから大事にしますよ」
「私だって。お父様とお母様が大事にしているお日様君、守りますよ」
抱きあったままのふたりは、崖の向こうに広がるボニンブルーの海を一緒に見つめた。
静かな原っぱに風と波の音だけが聞こえる。あとは海人先輩の心臓の音――。
「海人さんと一緒なら、雨に降られてもすぐにサニーになれるね。厄女だけれど、私にはもう、太陽のお守りがあるものね」
足の指のリングが太陽の光を受けて、何度見てもキラリと輝きを見せてくれる。そこにも太陽がある。乃愛だけを照らしてくれる私だけのサニー。
「乃愛は勇敢な女性だ。厄なんて自分で払えるよ。でも俺の願いを込めたお守りも一緒に。いつもそばに置いて欲しい。自分が厄女ではないと思える日が来たら、今度はきっと乃愛が俺の、そして皆のお守りになってくれるよ。そう願って――」
この人が一緒ならば、厄女の厄も逃げていく気がする。
厄女には、強いお日様の守護が寄り添い始めた。
彼の太陽のような琥珀の目を乃愛は見つめる。
「厄を背負って艦に乗っても、私はお日様のところに還ってくるからね」
厄女を乗せたノアの艦は、まだ航海を終えていない。
厄女がいつか、女神になる日まで。
◆ ノアの艦 ―厄女― ◆ 終
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