48.ボニンブルーの気もち
雨は止みそうにもない。海は荒れる一方だった。
先輩のお部屋で一緒に夕食の支度をして、また作り置きを増やして保存。夕食になると、カウンター席で隣り合って座って食事をする。日に日に、距離が近くなって、最近は肩先が時々触れる。お互いの顔がそばに近づいてきても気にならなくて、食事と会話を楽しめるようになっていた。
漁り火もない
乃愛はまだ先輩の寝室には入ったことはない。先輩も決してほのめかしたり、誘ってきたりはしない。ただお喋りを重ねて、もっとお互いを知って――。まだ男と女にはなれない『お泊まりデート』を二回ほど。乃愛は未だにお泊まりはコンドミニアムにお邪魔していた。
そして今回も三度目のお泊まりデートになるのだが、いよいよ先輩と約束をしていた『御園家プロペラ機でお空デート』をすることになった。
でも、前夜がどしゃぶりで『だめかな、今回は』と乃愛は思っていたのに、先輩は天気図を何回も眺めて、天気予報を確認して『きっと大丈夫』と悠然としていたのだ。
そして本当に翌朝、快晴に。目が覚めるとベッドルームの窓には青い海がきらめいていた。晴天、風もなし。海もいつもの小笠原新島のボニンブルーに戻っている。
この日も乃愛はシンプルなシャツとパンツスタイルに整え、靴はジャックパーセルのスニーカーを選ぶ。
今日はほんのちょっとの女心を忍ばせて、白いレエスのトゥカバー、つま先だけのソックスを履いてみる。
コンドミニアムで支度を済ませて、先輩のお部屋へ。先輩はこの日も爽やかに水色のリネンシャツにキナリパンツ。乃愛がジャックパーセルのスニーカーを履いているのを見て、『俺も』とおなじコンバースのスニーカーを選んで、足下をお揃いにしてくれた。
赤いトヨタ車でいざ出発。
雨上がりのマリーナ地区には、青空が広がっている。
夏の陽射しがはいる運転席で、サングラスをしている先輩が唐突に言いだした。
「俺、晴天を運んでくるサニーと呼ばれているんだよね」
運転中の先輩がそんなことを言いだしたのは、昨夜が雨だったのに、翌朝、おでかけデートの日になると晴天になったからだ。
「昨夜、雨だったのに。ほんとうに晴れちゃいましたね」
「だろう。乃愛が航海から帰って来た日も雨だったけれど、俺が来たらそのあと晴れただろう」
「あっ。ほんとうだ!」
雨の中、気もち赴くまま先輩に抱きついて、その後、家を出るときはアスファルトの水たまりに青空が映っていたことを乃愛は思いだす。
「俺が生まれた日も雨だったんだってさ」
「え? それじゃあ、サニー君じゃないじゃないですかあ」
「翌日。降水確率80%の雨天予報だったのに、家族写真を撮影する時、急に一時だけ晴れたんだって。俺が生まれたことを祝う家族写真撮影の時にね。それで晴れたから『お日様サニー』になったんだ。藍子さんとエミルさんの結婚式も、ナオの結婚式も、みーんな晴れ。いちおう、俺のおかげってなってんの」
ほんとかな、でも、実績をお持ちのようで乃愛は唸る。
今日もその実績をひとつ積み上げたことになるのだから――。
今日は終日晴れ模様の予報になっていて、やっぱりお日様サニーのおかげなのかなと、乃愛も納得してしまう。
葉月お母様所有のプロペラ機は、いまは新島の民間空港に駐機しているとのこと。こちらもセレブが集まるマリン観光地区にあるから、すぐに到着した。
駐車場に車を置いて、先輩と滑走路へと向かう。
乃愛はもう滑走路に並んでいるセレブたち所有の小型飛行機を見ただけでわくわく。
「さすがに空を飛ぶなんて、私にはできないからどきどきする~」
「俺は、乃愛がフライトデッキから躊躇わずに海面へと飛んでいった姿に、ドキドキしたけどね」
戸塚中佐同様に、海人先輩は『あの鮮やかさがずっと目に焼き付いているんだ』と、優しく微笑みかけてくれる。
「海人さんも今度、10メートルから飛んでみます?」
「お、いいね。やりたい、やってみたい! じゃあ、乃愛も今日は操縦桿を握ってみような」
「やりたい、やりたい、絶対にやりたいでっす!」
手を挙げて飛行場のアスファルトの上をぴょんぴょん跳ねてみたら、また先輩が可笑しそうにお腹を抱えている。
「ほんと、乃愛と一緒にいると楽しいよ」
「私は……」
「……私は?」
ちょっとずつドキドキ、女のキモチが高鳴っているよ? まったく感じていなかったのに、海人さんから男の匂いを感じ始めているの。なんて、言えなくて――。
乃愛は気恥ずかしいから、うつむいて黙り込んだ。
「乃愛?」
「どんどん好きになってるだけ……」
小さく呟いたけれど、海人さんには聞こえたらしい。
ちょっと驚いた顔を見せて、すぐに目元が柔らかに崩れる。琥珀のガラス玉みたいな瞳が乃愛をじっと見つめて離さない。さらに乃愛の心音が高鳴る。
「俺もだよ……」
そっと乃愛の腰に手を回して抱き寄せてくれる。
いままでにない密着度。乃愛も嫌ではない。むしろ嬉しい。
ふたり並んで、乃愛は顔を上げて先輩を見つめて、海人さんは乃愛を見下ろして見つめて、そうして一緒に滑走路を歩いた。
だんだんと違和感がなくなってくる近すぎる体温――。
今日も先輩からは『和の香』がして、乃愛はその香りを吸い込む。
御園家のプロペラ機を格納しているという空港ハンガーへ。
小型機といえども、乃愛は『うわ……』とプロペラがある飛行機を見上げて感動をする。
海人先輩が飛行機の車輪止めを外したりして、ハンガーから滑走路へと出す準備を始める。
空に上昇すると光が眩しくなるからと、先輩が乃愛用のサングラスを渡してくれた。
さっそく先輩が機体のドアを開ける。乃愛も共に乗り込んだ。
操縦席に海人先輩が、隣の席に乃愛が並ぶ。
プロペラの騒音で声がかき消されるからと、通話ができるヘッドホンも渡された。それを乃愛も頭にセットしてシートの安全ベルトを締める。
ドアにロックがかかる。先輩がついにエンジンを掛けた。
いよいよ機体が前進、動き始めた。
機体は滑走路にていったん停止。
プロペラが回り始めた。回転数が整うまで、海人先輩は各計器の確認をしている。
こうして見ると、ほんとにほんとに、カイさんったらパイロットなんだと初めて実感している。
こうなったら、あの青いジェット機を操縦しているところも見てみたいと乃愛は思ったほどだ。
ヘッドセットのマイクをつまんで、先輩が管制と英語で交信をはじめる。時々日本語も混ざっていたが、上空に障害もなく、時間通りに離陸の許可を得られたようだった。
「さあ、行こう」
「ラジャー、カイさん」
「アイハブ――。はい、乃愛さんどうぞ」
「ん?」
なにを言われたのかなと乃愛は首を傾げた。
「同乗者と確認をするんだ。どちらが操縦するかの確認。アイハブ=私が操縦桿を手に操作します――という宣言、意思表示をする。お互いに同時に握って操縦しちゃわないようにね。今日は乃愛の目の前にも操縦ハンドルがあるだろう。だから意志を確認して合わせます。同乗者はそれを任せたという意思表示で『ユーハブ』と返答する。では、もう一度」
意味がわかって乃愛は背筋を伸ばす。
「さあ、行こう。アイハブ」
「ユ、ユーハブ、少佐!」
「では、go-now、走行を開始する」
プロペラが唸りながら高速で回っている。いつもお日様君の笑顔を見せているカイさんの横顔が引き締まった。『あ、もしかして仕事の時のお顔と一緒?』と、乃愛は黙って見つめてしまった。
計器が並んでいる正面の操縦ハンドルを握り、身体のそば、機体中央にあるレバーを握った先輩が前だけを見据えている。乃愛も一緒に前だけを見ていると、機体が走り出す。徐々に滑走路のアスファルトが高速に流れて見え、速度がアップしていく。
「V1――」
先輩がなにかを呟き始めた。
「VR――テイクオフ」
先輩の手元、操縦桿をぐっと角度を変え手前に引いている。
「え、え、離陸?」
乃愛は助手席の窓を下へと覗き込んだ。すぐそばにあったアスファルトが遠くなり、ふわっとした感覚が身体に伝わってくる。
「V2――上昇を開始する」
乃愛も先輩も背中を倒したように、斜め上へと向いている。
上昇しているのだ、青い空へ! 乃愛の目の前に太陽の光が一直線に向かってきている。
うわ、うわー! ほんとうに空に飛んでいる!
なんにもないから、光と青色しかない!
「カイさん! 飛んでる!! すごい、先輩がいま飛ばしているんだよね!?」
先ほどまで真顔だったのに、離陸を終えたからなのか海人さんは余裕で笑っている。
「そうだよー。だって俺、パイロットだもん。毎日、こんなかんじ」
「えー、いいなあ、いいなあ。こんな素敵な景色を毎日! あ、でもお仕事だもんね。雨の日も、夜の日もあるのに……。私ったら」
「俺だって。乃愛が見ている海中の景色、知りたいよ」
「スキューバーダイビングもできますよっ。今度一緒に!!」
「あはは! ほんと、乃愛って凄いな。俺、やりたいこと増えていくばっかりだな。楽しみだよ」
まだ機体は斜め上を向いている上昇中なのに、そんなお喋りも平気で答えてくる。ほんとうに、パイロットなんだと乃愛はドキドキ、『先輩素敵、かっこいい』とずっとときめきっぱなしになっていた。
そのうちに機体が旋回を始め、乃愛側の席が下向きに。横の窓が下を向いているので怖々覗くと、真下は海――。小笠原ボニンブルーの海が青い宝石のようにきらめいている。
「綺麗……」
旋回を終えた飛行機がやっと上空で水平飛行に落ち着いた。
いま乃愛に見るのは青い海と、まだ島の端から立ちのぼる火山の噴煙。新島が一望できる高さまで到達したのだ。
「こうして住んでいる島を上から眺めるの、久しぶりかも」
仕事で輸送機に乗ることがあってもだいぶ前だったから、乃愛はプライベートでじっと眺められる今に感動している。
しばらく新島上空からなにもない海上を飛行していたが、遠くにまた島が見え始める。小笠原総合基地、初期に小笠原防衛の礎を築いた旧島が見えてきた。先輩の飛行部隊と、いまの住まいがあるところ。そして乃愛が十代を過ごした島――。
新島よりずっと小さな島だった。緑の山の麓に基地が見える。その隣が隊員が住むアメリカキャンプ。そして日本人官舎が並ぶ地区も見えてきた。キャンプには、乃愛が通学していたスクールの建物も見える。
「スクールが見える。懐かしい。でも、私もカイさんも、既にあそこで一緒だったんですよね」
「そうだね。知らない間に一緒だった」
「どうしてかな。遠くに見えていただけの先輩が、いま私の隣にいるの。どうしてかな。私、御園先輩が操縦している飛行機で、こんな綺麗な空にいるの……。ほんとうのことなのかな。いまも時々、ふわふわしてるだけで、わかんなくなっちゃう……」
乃愛の本心だった。
御園家のマンションへ招待いただいて、ご両親と楽しい時間を過ごしたあたりから、乃愛には現実的な出来事に思えなくて、ふわふわしている。
「私なんかに、もったいなくて。いいのかな。もうなくなったら怖い……」
そう思うともう泣きたくなっちゃう。
御園のセレブリティな生活は嫌いじゃないし、むしろ快適で素敵な時間で満足している。でも当たり前になって浸りきって、いつかなにかがあってサヨナラになったら? それ以上に、もう海人さんがいなくなったらイヤ。恋って壊れやすいじゃない? なにかで喧嘩して別れたり、先輩に嫌われたりしてお別れが来て。その後、先輩が他の女性とお付き合いを始めた姿を遠くから見ちゃったりした日には、乃愛は海に飛び込んでもう沈んでいたくなる。
なによりもそのお日様サニーの笑顔が、他の女性に向けられるだなんて。絶対に嫌!!!
せっかくの素敵な青空とボニンブルーが美しいフライトなのに。
乃愛は太陽の光に照らされながら、涙を流していたようだった。
「乃愛。俺のこと、信じられない?」
「信じてる。でも、絶対ってないでしょう。でも嫌、先輩が……私じゃない人になんて……」
雰囲気を壊しそうだったから、乃愛はそれ以上を言えずに口をつぐんだ。
でももう遅い、壊していた……。
水平飛行に落ち着いていたので、カイさんの片手が乃愛へと伸びてきて、黒髪の頭をそっと撫でてくれる。
「今日、夕食はお母さんが勤めているファーストフード店だっただろ。ちゃんと挨拶するよ。楽しみだよ」
「うん……。お母さんも楽しみにしていたよ……」
今日決めていたデートコースのひとつだった。
気を取り直し、乃愛も笑顔に戻してサングラスの先輩に微笑み返す。
操縦ハンドルを握らせてもらい、先輩の指導で乃愛も機体を斜めに傾けたりして、スリリングなフライトを楽しんだ。やっと、先輩と笑い合える時間を取り戻す。
少し心にしこりを残したまま、それでもふたり笑顔でフライトを終えた。
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