44.おかえりなさい


 いきなり先輩専用の男子部屋を使い回すのは気が引けて、乃愛はまたコンドミニアムに滞在している。


 お風呂に入って、ベッドに寝転んでひたすら眠って自堕落に過ごしたりしている。

 たまにエリーがご用伺いにやってくるので、それも遠慮なく会話を交わしているうちに、ほんとうに彼女が『ステディ君のお姉さん』に思えてきて親しくなっていく。


 そんなエリーが夕方になると『カイ君のお部屋、遠慮しているなら私と一緒に入るのはいかが』と誘ってくれて、エリー付き添いの元、先輩のキッチンを使わせてもらった。

 先輩の作り置きと、お父様の差し入れをエリーが持ってきてくれ、それが乃愛の滞在中の食事になっている。

 隼人お父様とは、帰港してすぐこちらにお邪魔したときに、再度のご挨拶を交わしたきり。『いまは気を遣ってほしくないので、貴女のことはそっとしておきますね。ゆっくり休んでほしい』と、乃愛の心情をおもんぱかってくれ、コンドミニアムで過ごしていても放置してくれていた。

 なのに差し入れがどんどこやってくる。ランチは海老のビスクがやってくるのも定番に。噂の『大沼風、美瑛風 食べ比べ』をすることができた。エリーにも遠慮するなと言われ、元気よくいただいていた。


 そのうちに乃愛の心も潤って、重苦しい感覚が心から消えていく。

 四日ほどそんな生活をしていたら、旧島のジェイブルー飛行隊でフライト業務をしている海人先輩が、非番の日がやってきて帰ってくる。


 コンドミニアムでゆったりゆるゆるとくつろいでいる昼下がり。

 白いリビングで海を目の前にファッション誌を眺めて『次のボーナスでなにを買おうかな~』と、ひとり楽しんでいるところだった。

 コンドミニアム玄関のチャイムが鳴った。いつも対応してくれるのはエリーなので、乃愛が自ら出ることもなく聞き流した。

 でもコンドミニアムを訪ねてくるって誰? お父様? いつも夜にならないと帰ってこないお母様? まさか。

 

 乃愛は雑誌をたたんで、いちおうとばかりに姿勢を正した。


「ただいま。元気になったかな」


 ソファーの後ろからそんな声が聞こえて振りかえると、制服姿の海人先輩がいた。

 これまでほぼ私服だった海人先輩が、制服姿で登場。夏の白シャツ制服、肩に黒い肩章、黒いネクタイにスラックス。まさに少佐のお姿だった。


「先輩の制服、真っ正面で見るのは初めてかも」

「そういえば、そう、だったかな?」


 パンツスタイルのルームウェアでのんびりしていたが、乃愛はソファーから立ち上がって、『御園少佐』へと敬礼をしてお辞儀をする。


「御園少佐、お帰りなさいませ」

「ただいま、乃愛さん。だいぶ元気になったと、エリーから聞いて安心していたよ」

「もう~すっかり自堕落になっちゃって。でも……、ありがとうございました。また非日常のようなお部屋でくつろげて、心の中にあった黒い点が消えていくようでした」

「よかった。それなら、今夜、外出できるかな。レストランを予約しているんだ」

「レストランですか。先輩の車で?」

「ううん。せっかくだからワインのペアリングも楽しみたいでしょう。エリーが送り迎えしてくれるよ。個室だから安心して。また俺と居ると噂が立つとかなんとか気になっちゃうだろう。正々堂々としたいところだけれど、いまは君が楽になる方法で過ごそう」


 これってもしや、初めての夜デート?

 しかもエスコートしてくれる場所が、やっぱり御曹司ぽい?


「えっと、その、私、庶民女子だから……。正式なマナーとか、その……」

「リーズナブルなトラットリアだよ。でも、このあたりの住民嗜好に合わせて個室を備えているところが多いだけだから。ハーバーの奥にあるんだ。ヨットが並ぶ水辺がすぐそこに見えるレストラン」

「素敵ですね。行きたいです。でも、服装……」

「普段着でいいよ。俺もいつもそうだから。ドレスコードなんてない気軽な店だよ」


 乃愛はほっとして『じゃあ、着替えてきますね』とベッドルームへ。海人先輩は自分の専用部屋へと着替えに向かった。

 それでも乃愛は、もしかすると必要かもと、女性らしい服も数枚持ち込んで来た。その中から黒いシックなワンピースを今日は選ぶ。いつもだいたいパンツスタイルだけれども、ここは急に女心が働いた。靴も一足、あのパールがいっぱいベルトについているサンダルだけ持ってきた。それを履いてコンドミニアムを出る。


 着替えた海人先輩も専用の部屋から出てきた。

 こちらも今日はラフさだけじゃなく、ソフトな紺ジャケットを羽織ってきていた。やっぱり、ちょっと背伸びのお店なんじゃないかと乃愛は心配になってくる。


 なのに海人先輩は、紺色のジャケットの襟をつまみながら照れくさそうに顔を伏せる。


「ほら、いちおう初デートだからね」


 また、おなじ気もちだった。だから乃愛も素直に微笑んだ。


「私も。今日はちょっと背伸びしちゃいました」

「似合っているよ。パンツスタイルも、いつも自分に合わせていてお洒落だけれど。今日は、大人っぽいね」


 乃愛も気恥ずかしくなって顔を伏せてしまった。耳が熱かった。


「エリーが待ってるから。行こうか」

「はい」


 あのラグジュアリーなエレベーターに乗って、地下の駐車場へ。

 今日は『大人の海人さん』だった。少佐の姿で現れて、初デートのお誘い。いつもの『先輩』の姿に戻って、スマートなエスコート。エレベーターという狭い空間で一緒に居ると、あの和の香りが先輩から漂ってくる。


 もうこれだけで充分、女の子の心をとかしてくれている。

 大人の男なんだなあ……と、栗髪の先輩をそばに乃愛はドキドキしていた。

 それに。こんな大人のデート、実際には初めてだよ!

 もちろん憧れていたよ? 海外ドラマとかさ、ファッション雑誌とか眺めて。素敵メンズがきらめく女性をエスコートしているワンカットとか。ボーイッシュなアクティブスポーツ女子だけど、乙女心はちゃんと育てていたんだから。

 もう今夜がそれで、乃愛は違う意味での『初体験』に心臓が高鳴り、肌はしっとりと熱を持ち始めたことも自覚する。


 地下駐車場には、黒スーツのエリーが黒いワゴン車を準備して待っている。

 親しいお姉さんみたいになった彼女でも、お坊ちゃん付のスタッフの顔になり真顔で無言に徹する。

 海人先輩とともに後部座席に乗り込んで、エリーの運転で出発。


 先輩とお喋りをしていても、エリーは空気に徹していた。

 これは彼女にも言われている。『私たち黒スーツのスタッフのことは、空気だと思ってください。慣れてくださいね』と……。気兼ねなく女同士で話せることもあれば、エリーから『いま仕事中』という空気を放って無言に徹する落差がある。でもそれも彼女の使命だから、乃愛も彼女との距離感をいま掴もうとしている。


 黒ワゴンは海辺のガーデンマンションを出て、セレブ特区からマリーナ地区の街中へと向かっていく。

 観光街の大きな道路を走り出すと、ヨットが浮かぶハーバーは茜に染まり始めていた。

 綺麗だな……。乃愛の頬が茜に照らされていることを感じながら、鴇色に染まる夕凪の海を見つめて、また気もちがほぐれていく。

 もう頬に残っていた辛い感覚も、心の重苦しさもない。

 先輩のおかげ……。そう思って、隣に座っている栗髪の男性を見上げた。彼の白い肌も茜に照らされて、琥珀の瞳も透き通って綺麗だった。彼も乃愛を見つめてそっと微笑んでくれる。


 だが乃愛は途中で気がつく。

 美しい鴇色のハーバーを車が素通りして行ったからだ。


「え、レストランって」

 ここのあたりでは? また隣にいる先輩を見上げる。

 でもカイさんは、さらににっこりと微笑み返してくるだけ。

「忘れ物を思い出して。ほんのちょっとだけ付き合って」

「はい、いいですけど……」


 エリーの目線がちらっとフロントミラーに定まり、そこで一瞬だけ乃愛の視線とかち合った。だがさっと青い瞳に避けられ、彼女はまっすぐ前を見据えて運転に徹する。


 セレブ街のマリーナ地区を抜け、海辺を黒いワゴン車は走っていく。

 いつも見ている夕の海がきらきらと陽射しを反射して、太陽が水平線に近づいてきている。

 もう夕刻――。

 忘れ物とはなんだろう? 先輩のその忘れ物をとりにいったら、レストランへと向かうのかな。そう思っていた乃愛だったが、エリーが運転する車が車道を逸れて右折したのは『住宅街』だった。

 でも乃愛の自宅方向ではない。それでも住宅地の細い路地を車が徐行する。やがて停車したのは――。乃愛のRX-7を駐車しているレンタルガレージのところだった。

 なんで? 妙な胸騒ぎがした。黙って連れてこられて、先輩がなにをしようとしているのか読めない。忘れ物とはいったい?


「降りようか」


 運転席を降りたエリーがさっと、後部座席のドアを開けてくれる。

 海人先輩が降りたから、乃愛も続いて外へと出た。


「あの、先輩……。ここ、私の車を入れているガレージですよね」

「そうだよ。RX-7、いまどうしているかな」

「え、まさか今夜、セブンに乗ろうとしているってことですか?」


 レストランは? ワインでイタリアンのペアリングをするんじゃなかったの?

 訝しげに琥珀の瞳を覗き込む乃愛へと、先輩も見つめ返してくれる。でも、その目線がすっと外れる。乃愛のRX-7を入れているガレージへと向いた。


 乃愛もそちらへと視線を馳せる。

 シャッター付きのガレージがいくつか並んでいる路。

 RX-7を収納しているそこに誰かがいる。

 夏の白シャツ制服姿の男が立っていた。


 その人をひと目見て誰か知り、乃愛は驚愕で震えた。


「ど、どうして……」


 父、透だった。海軍の制服を着て、RX-7のガレージ前に立ってこちらを見ている。

 さらに乃愛は動揺して、なにか答えを知っているだろう海人先輩を見上げる。


「行っておいで。お父さんに『ただいま』と伝えておいで」

「え、だって、どうして、制服……」

「お父さんに聞いておいで。ここで待っているから」


 海人先輩に背中を押され、乃愛は信じられない思いでヒールのあるサンダルを履いた足でゆっくりと踏み出す。

 ほんの十数メートル、でも足が震えているようで速く歩けない。信じられないから。

 でも、いつかの父がそこにいる。乃愛が待っていた父がそこにいる!


「乃愛――」


 その声を聞いて乃愛は歩けなくなり立ち止まる。何年ぶりに呼ばれたことか。

 涙が溢れてきて、ガレージ前に立っている父の姿が、滲んで歪んで見えなくなりそう。


「乃愛、おかえり」


 もう躊躇わなかった。サンダルの足で急いで、乃愛はその逞しい男の胸へと抱きついた。


「お父さん……も、おかえりなさい……で、いいの?」

「うん、そうだな。これまで、すまなかった。ずっと辛い思いをさせてすまなかった」


 抱きついて抱きついて、白いシャツに顔を埋めた。

 男の汗の匂いしかしないその胸に、溢れる涙をいっぱいこぼした。


「乃愛、よく頑張ったな。よくやった、堪えた」


 父は艦でなにがあったか知っている?

 そこで父が乃愛を両腕いっぱいに抱き込んで、逞しい腕で強く抱きしめてくれていた。

 一気に子供にもどってしまう。

 優しい男性に出会えたけれど、それでもいまも、乃愛を力一杯に抱きしめてくれる男は父だけだと痛感するほどに――。


 よくわからない熱い涙が蕩々と流れるばかり。

 もう我慢できなくて、乃愛はしゃくりあげながら思いっきり、父の胸で泣きじゃくった。


 そして父が乃愛を抱きしめながら、意味深なことを呟いたのだ。


「すまない、おまえの近辺を危険に晒してしまったかもしれない。だが、これからは父さんとシド、葉月さんに任せろ」


 なんのことだろう? 父の胸元で流していた涙が止まる。

 瞳を濡らしたまま、乃愛は制服の胸元から父の顔を見上げた。

 哀しげな眼差しが乃愛を見下ろしている。


「あれは事故ではない。あれも事件、だった」


 父があの日のことに触れたことが乃愛に伝わってくる。

 さらに父は衝撃のひとことを放つ。


「相馬は殺されたんだ――」




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