43.スローステディ


 出掛ける前に掃除しておいてよかったーと思いながらも、散らかしていってもおそらく母が途中で掃除に来てくれていただろうから、まあ安心をして案内をする。


 それでもよくある女性ひとり暮らしのコーディネイト。

 この海辺の町に合うようなマリン風の部屋にしている。これは母の真似、つまり実家のセンスの流用。

 ベージュや白、紺色、濃いブラウンの欅インテリアなどでまとめている。母と違うのは、男っぽい機械的なインテリアがあること。たとえば、船の中で使っている釣りランプとか、浮きガラスを飾ったりして、ほんとうに『港!』みたいにしている。そこは船乗り女子のセンス。

 壁にはサーフボードがあるし、ハワイアンな小物があったり、緑の植木鉢もある。


 今度は海人先輩が余所様を一目見て、目を瞠っている。


「すごいマリン!」

「はい、えっと。海で育ったわけですので。あと実家もこんなかんじです」

「うわーうわー、サーフボードがある!」


 よく見ている無邪気お坊ちゃまの海人先輩に戻ってくれて、乃愛も笑顔が戻る。


「そこ、ソファーに座ってくださいね。無糖の炭酸水とかペットボトルのお茶しかないんですけど」

「無糖の炭酸水でいいよ」

「レモンの輪切りぐらいは入れられますよ」

「いいよ。なにも入れなくて。それより、もうちょっと話したいんだけど――」


『わかりました』と返答をした乃愛は、冷蔵庫から無糖の炭酸水をだしてグラスに注ぐ。それだけのものを、ソファー前のテーブルへと置いた。


 久しぶりに、海人先輩と対面する形で向き合う。


「無事にとは言えないけれど、でも無事に帰還おめでとう」

「ありがとうございます、少佐。いろいろと良い経験を得た航海になりました」

「宿題のこと……とか言いたいところなんだけれど。まあ、なんていうか……、その……」


 そこで海人先輩が正面の乃愛から目線を逸らした。

 ひとり暮らし用の狭いリビング、二人の間にあるテーブルに朝陽が射し始める。雨が止んで空が晴れてきたことを知る。

 明るくなる窓辺を見つめて、先輩は黙ってしまった。そんな先輩の次の言葉を、乃愛はひたすら待つ。


「その人の顔を思い浮かべると、楽しいとか、わくわくするとか、久しぶりで。君の帰港をすごく心待ちにしている自分がいたんだ。同時に、千歳でよく感じていた気もちを、妙に思い出している。これって、つまり、君に対してそういうことなのかなと。君が出港してからずっと感じて戸惑っていた」


 御園家で過ごした一晩、あのあと乃愛は任務のために別れて出航した。

 海上勤務の間も海人先輩は乃愛のことを、そんなふうに思っていたと言いたいらしい。

 乃愛も密かに驚き、徐々に胸がドキドキと高鳴っていくのを感じていく……。


「それで、休暇のたびに新島の親のところに泊まりにいって、君が帰ってきたらなにをしようどうしよう……と父と相談ばかり。そうして楽しく過ごしているところに、母が忙しそうにして、基地に泊まり込んだりして、『なにかが起きた』と父と察知したんだ。母は守秘義務で他部隊の俺にも言えないし、もう軍人ではない父にも『なんの緊急事態が起きたのか』は情報共有はできない。でも、父は様子でわかるようで、独自のツテで情報を入手してきてね。それならば、母が家族に口を割ったとはならないだろ。それで、知ったんだ……。感染症が起きていること、君が変な疑いをかけられて男性隊員に襲われたことをね……」


 葉月お母様は軍人としての義務を守っていた。でも情報の入手は、元准将のお父様が独自にしたことだと乃愛は初めて知る。

 でも驚きもしない。きっと隼人お父様はまだ軍と繋がっていると感じていたし、エリーのような裏方を引き受けている御園家の従者スタッフがいれば情報収集もお手の物なのだろう。シド大佐と繋がっていることでも、よくわかることだった。

 そのルートで海人先輩は、陸にいる隊員がまだ知り得ない、一部の隊員しか知らないことを知ったという。


「その時、浮かれていたところを一気に突き落とされたような気もちになった。そんな自分にも驚いて……」


 まだ目線を逸らしている海人先輩が、窓の向こうに見え始めた青い海を見据えている。そこで言葉が再度止まり、でも、乃愛はまた待っている。

 なんだか信じられない言葉を聞いているようで、乃愛は乃愛でグラスの中で舞い上がっていく炭酸の水泡を見つめることしかできない状態だった。


「どんな男だ。そいつにやり返したい。父に言えばなんとかしてくれるのだろうか。いや、母にも君にも迷惑がかかるだろう。なにも出来ない。胸に渦巻くのは怒りややるせなさばかりで……。そんなふうに気もちが、大きく動くのも久しぶりだったんだ」


 陸で待つ海人先輩も揺れ動いていた……。

 また乃愛の瞳に熱いものが込み上げてきた。


 今度は乃愛から伝える。


「顔にけっこうな痣が出来て、艦内を歩けなくなり行動制限を受けました。いろいろと叫びたいことはあったけれど……。堪えられたのは、先輩のメールが届いたから。その時に思ったんです。帰ったら、いちばんに先輩に会いたい。母よりも父よりも先に……」


 そこで、先輩の視線が乃愛の正面に戻って来た。

 あの琥珀の目を大きく見開いて、あちらも乃愛の気もちを知って戸惑っているのがわかる。


「だったら……俺……、伝えたいことがある」

「はい、なんでしょうか……」


 通じている、わかっている。でもお互いに『本当に?』と戸惑っている。それに海人先輩が先ほどから目も合わせてくれないのは、急に踏み込まないよう乃愛との距離感を図っているからだ。


 海人先輩はそんな男性だ。

 男の欲をまったく持っていなくて、いや見せないように保って、ほんとうに静謐な空気を放っていて、どちらかというと本当に『先輩』。

 男の目的ではなくて、心の目的。乃愛はそう感じている。


 それは乃愛も同じだ。まだ女の気持ちがわからない。

 でも、この人と一緒に居たい――。


「これから、君がどこかに行くなら俺も一緒とか。あ、絶対に毎回とかではなくて。俺もどこかに行くなら君を最初に誘うとか。えっと……つまり……」


 特定の相手になってほしいということなのだろう。

 男と女になりたい約束はまだしっくりしない。

 でも、他の男から害を与えられたら酷く怒りを覚える女性になっている。

 乃愛は父よりも母よりも、すぐに会いたい男性になっている。


「そっと無理なく、距離を縮めたいというか……。ごめん。男としてはっきり言えなくて。君にとって、男ってなに? それがわからなかったんだ。でも、これからは俺を最初に思い浮かべてほしいというか」


 ええ、御園のお坊ちゃん。ほんとうに『なんでも器用で思い通りに生きている人じゃない』のだと、乃愛はちょっと気が緩んで微笑ましく思えてきた。貴公子さんも大変なんだなって。


 でもなんだろう。それがすごく安心できて信用できて、心地が良い。

 恋人になろうと無理矢理に迫ってくる男は、いまの乃愛にも要らない。でも乃愛のことを心配してくれる男性、一緒に楽しい明日を思い描いてお喋りできる男性がいい。


 そこで乃愛にひとつの言葉が浮かんだ。


「先輩、私……、インターナショナルスクールに入ってから、憧れていた言葉があるんですよ」

「スクールのときに憧れていた言葉?」

「そう。ステディ。アメリカぽくて、素敵だなあって。私は水泳に夢中だったので皆無だったんですけれど。でも、先輩達の国際クラスグループは海外ドラマみたいにキラキラしていて、カップルさんたちは『ステディ』と呼び合っていたでしょう。あれですあれ」


『つまり?』と海人先輩が乃愛に聞き返してくる。

わかっているくせに、でも、これは乃愛からの『返事』だから、先輩は信じられなくて、まだ飲み込めていないのだ。


「だから。ステディになりましょう、です」

「ステディ。特定の相手、パートナーってこと」

「はい。月に二回はデートしてくださいね。もうシフトとシフトを付き合わせて、なんとか捻出しますよ、一緒の休暇を! ん? 休暇が合わなくても、私が旧島まで、先輩のところに行けばいいのかな? あ、先輩、ここの合鍵、もう要ります?」


 そうと決まれば『ここから始めましょう』とぽんぽんと提案する乃愛に、海人先輩が面食らっている。


「あ、あい、合鍵、くれるの? 俺に?」

「うーん、でも。こんな一般的な住まいに御園のご長男さんが出入りしちゃったら、また変な噂になっちゃうかなあ~」

「いや、俺もあるよ、憧れ! 合鍵、ほしいです! っていうか、そんな簡単に信用しちゃっていいのかよ? 男にはもっと慎重に」

「だから。海人先輩だから、信用していると言ってるんです。要らないならいいんです」

「いや、それなら、ちょうだい!」


 ちょうだいって……。御園の御曹司様が、一般的な住まいにいる女の合鍵を欲しがるって。ちょっと必死すぎて笑えてきた。


「だってさ。藍子さんとエミルさんは、恋人同士で同じ勤務地になった途端に、お互いの家に通い始めて、エミルさんなんて藍子さんの自宅に入り浸っていたんだ。あれさあ。日常を分け合う恋人っていいなあって俺も憧れていたんだよね」

「むむ、お姉さんの藍子さんと、クインさんの真似ですか」

「だから、俺は、御園の環境でがっちがちにされているから、ああいう一般的な男と女の気ままな日々の積み重ねっていうのに憧れてんの」


 あ、そういうの確かにいいかも。乃愛も一緒に素敵と思えた。

 だからって、男と女の密着はまだいらないのだ。

 そこは海人先輩もおなじようだった。


「では、急速に男と女ではなくて、ゆっくり先輩後輩ステディから行きましょう。合鍵、持ってきますね」

「じゃあ、俺も。新島マンションのカードキーを持ってくる」

「えっ、あのマンションの!?」

「うん。俺が旧島にいる間も、君が非番で休暇の時は勝手に入って良いよ。エリーにも言っておく。君なら出入りできるだろう。おなじフロアだからコンドミニアムのほうを使ってもいいよ。でも旧島の実家住まいは母の持ち物だから、こっちはまだ勘弁して」

「ふああ、待って待って、先輩……。それはちょっと、さすがにちょっと、庶民女子にはいきなりすぎっ。先輩だって女子には慎重にならないと!」

「冷蔵庫の俺の作り置き、勝手に食べてもいいよ」

「それは……、……たべたいかも……」

「はい、決定ね」


 決定に持ち込まれてしまった。

 でも本心は……。『あの素敵なコンドミニアムで、またまったり一日を過ごしたい。先輩のご飯食べたい!!』だった。

 そんなことは知られまいと乃愛はぐっと口をつぐんで、もじもじとしていたら。


「なんなら、今日、いまから俺のマンションに来る? 俺は夜には旧島に帰ってしまうけど、ひとりで過ごしてもOKだよ。帰還後の骨休めでゆっくり過ごしたらいいよ。ひとりきりになるのが嫌なら、父もいるし、エリーもいるし」

「うわわ、なんでそんな凄いことを平気で言えちゃうの」


 御曹司様が真顔でさらっと言い放つことに、今度は乃愛が仰天する。誰もがそこまでなかなか行けないことなのに、乃愛にはもう当たり前のことだよとばかりに勧めてくる。しかも、抵抗できない。あそこでまったりできるならしたい……。


「いまから俺に遠慮してどうするの。そうだな。慣れるための訓練だな。行こう、すぐ。着替えとかなんとかいらないかな。エリーに言えば、君に似合う服も靴も全部揃えてくれるよ」

「いえ、そこまではまだ、甘えられません。着替え、準備してきます」


 乃愛がそう答えると、海人先輩の表情が明るくなった。


「来てくれるんだ。俺のマンション」

「あんな素敵な体験させられちゃったんだから、責任とってくださいよね。でもこれだけは。私は庶民女子らしくしていきたいです」

「そんな君だから、いいんじゃないか。実家資産の甘い汁を狙ってくる下心があったら、エリーか父が門前払いか叩き出すかして、出入り禁止にするだろうさ。でも君は、すごく自然体なんだ。それに家族思いだ。人を色眼鏡で見ない。俺はそこに心地よさを感じてる。俺の友人も親しい先輩もみんなそんな人たちだから」


 先輩も乃愛を乃愛らしいままに、御園に相応しくなんて押し付けてこない。そんな付き合いを好んでくれているようで、乃愛も安心する。


「よーし、もう。いまから先輩のところのお風呂に入ってくつろいじゃおう」

「そうしな、そうしな。また父がランチを準備しているよ。昨日も市場まで行って海老を買い込んでいたからね」


『海老のビスク、また食べたい』も、乃愛の頭の中に浮かんできてしまった。


 泣こうと思っていたのにな……。

 どっぷり海底に沈んでから、明るい海面に戻ってこようとしたのに……。

 もう涙を流したい気持ちは消え去っていた。

 先輩のシャツが全部、吸い取っちゃったのかもしれない。


 航海任務用のスーツケースはそのままにして、乃愛は大きめのボストンバッグに数日分の着替えを適当に詰め込む。

 帰ってきたばかりなのに、乃愛は制服を着たまま、海人先輩とこの家を出て出掛けることに。


 雨上がりのアスファルトには水たまり。初夏の青空が映り始めていた。

 路の向こうにエリーが待っている。

 海人先輩と一緒に、乃愛はその車に乗り込んで、いざ御園家へ。


 艦を下りた隊員は数日の代休休暇になる。

 その間、先輩のマンションでくつろぐことにした。



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