42.伝わる体温


 ひとしきり泣いて落ち着いた乃愛は、涙を手の甲で拭って落ち着こうとした。

 一気に恥ずかしさが襲ってきて顔が熱くなってくるのも自覚している。

 どうしよう。先輩に抱きついてしまった!

 我に返った乃愛はなんとか笑顔に取り繕って、ここまで出向いてきてくれた先輩に明るい顔を見せようとした。


「す、すみません。取り乱しちゃって……」


 やっと目が合った海人先輩は、笑っていなかった。

 真顔で睨んでいるようで、でも乃愛を見つめている眼差しは哀しげだった。


「怒っていたよ。俺――」

「え……、怒って……?」

「安易な行動を起こしたそいつを、何度か頭の中でぶん殴ってる」


 乃愛は驚き、なにも言えなくなる。

 そんなふうに感じてくれていたなんて……。

 雨音だけがふたりを包んでいる。


 朝の静けさの中、二人は無言で向き合っているだけになった。


 会うまで不確かだったが、やはり先輩は乃愛が襲撃されたことを知っている。乃愛から辛いあの時のことを伝えなくていい。既に噛み砕いて理解して会いに来てくれている。それだけで、心が軽くなる。


「先輩のメール、行動制限を受けていたときだったから、すごくすごく嬉しかったです……。あれがなかったら、暗い方へ暗い方へ沈み込んでた、きっと。もうパエリアのお焦げだけ考えて過ごせました」

「ちょ……っ」


 涙混じりにしんみりと伝えたのに、先輩がまたぷっと笑い出していた。


「いや、確かに余計なこと考えてほしくないと思って、届けた内容なんだけど。ごめん、あの、乃愛さんがお焦げだけ考えていた顔がすぐに思い浮かんじゃって」

「なんですかっ。私だって元気になってほしい気もちだと思って、心を元気にしようと上向きに頑張っていたのに……、可笑しいですか??」

「だからさ、ごめん。だって、出港前になんでも美味しく、かわいく食べてくれていた顔が思い浮かんじゃって」


 かわいく……? いま可愛くと言った!?

 一気に涙が消えて、乃愛は仰天、目を見開きあんぐりと口を開けてしまっていた。


「父がさ、美味しく食べるお顔がかわいい子はいいねえ~と言っていたんだよな」


 あ、先輩じゃなくてお父様が言っていた『かわいい』だったのか。乃愛は動揺した自分をどこかに隠したくなって、また頬に熱を感じながらも平静を保とうとする。


「俺も同感だったんだよな。もう、食いしん坊百面相を思い出して、楽しくなっちゃって」

「食いしん坊百面相!?」

「いま俺の中の、楽しくなっちゃうツボになってんの」


 かわいいと耳にしてちょっとポッとしちゃったことを乃愛は後悔する。

 なにそのお正月の福笑いみたいなネーミング――とプンスカしたくなってきた。

 でも、そこで急に海人先輩の琥珀の目が優しく、静かに、乃愛へと注がれる。


「そんな君に、早く会いたいとずっと思っていた。父も母も、しばらくは君のことばっかり話題にしていたよ。父は君の帰りを心待ちにして、キャンプ飯の準備をうきうき始めていたし……。母は、ちょっと忙しそうだったけどね」

「お母様が陸から、感染を抑えるマニュアルを急いで作成して送ってくれたと、艦内で聞きました。それで半月の延期で済んだって部隊長が言っていました」

「うん、うちの母、動くと早いの。だからそこは安心していたけどね。あと、やっかいな『本物の疫病神』の追跡とかも頑張ってるね、いまは」


 本物の疫病神の追跡?

 乃愛は先輩の顔を見上げて、首を傾げる。


 そこで先輩がふと乃愛から視線を外して、住宅路の向こうへと視線を馳せた。乃愛もその方向へと視線を向ける。

 この独身用平屋の住宅地は碁盤の目になっているのだが、乃愛が住む区画を出た路に黒いワゴン車が駐車していて、そこにエリーが立っているのが見えた。さっきまで見えていなかったので、乃愛はハッとする。


 海人先輩が黒いがっしりとした腕時計を眺める。


「五時半、もうすぐ六時になるな。家の中に入ってもいいかな」


 人目を気にしたことがわかった。

 乃愛の自宅へ入って、ゆっくり話したいということなのだろう。

 乃愛は頷いて、家の鍵をポケットから取り出す。


「エリーは……?」

「気にしないでいいよ。彼女は警護と周囲の警備、俺の送り迎えで来てくれたから。夜が明けて人目が増えるって合図だよ。しばらく外の警護にあたってくれるから安心して――」


 御園の御曹司がわざわざここまでやって来て、いつまでも女と二人きりで話し合っている姿を見られたら……。また変な噂になるかもしれない。

 そう思いついた乃愛は放っておいた荷物を取りに戻り、その後すぐに鍵を開ける。ひさしぶりの自宅玄関ドアを押して、そのまま海人先輩に中に入ってもらった。


 靴を脱いでもらおうとしたら、先輩も足下が濡れていることに気がつく。私用できたからなのか、私服だった。上質な水色のリネンシャツに、夏らしい白いパンツ。その白いパンツの裾に泥がついていた。

 激しく降っていた時に、車を出て歩いてしまったのだろう。


 乃愛はさっと玄関をあがって、すぐそばにあるバスルームまで。脱衣所に揃えているバスタオルを取りだし、玄関に戻る。


 そのタオルを海人先輩へと差し出す。


「先輩、白いお洋服が――」

「気にしない。これよく履いているから」


 スニーカーを脱いで先輩が玄関からあがる。

 そのままバスタオルを使ってほしいと差し出していると、海人先輩がそれを受け取ってくれて安心する。ほっとして、先輩を見上げて乃愛はやっと笑顔を見せることが出来た。


 その途端だった。先輩がバスタオルを広げたかと思うと、自分ではなく、乃愛の頭へと被せてきた。


「俺より濡れているのに。傘をほうって走ってきてくれて……」


 優しいため息が聞こえた。柔らかいバスタオルには、乃愛が安心する家の匂いが染みついている。その匂いに包まれながら、海人先輩の大きな手がゆっくりと乃愛の黒髪を拭いてくれる。

 そのまま優しい手に甘えるように受け入れていると、先輩がバスタオルに包まれている乃愛の顔を覗き込んだ。


「生え際……。これ、ひっかき傷? こんなところまで? まだ治っていないんだ」


 男のひっかき傷が瘡蓋かさぶたになって剥がれようとしているところだった。

 すぐに海人先輩の視線が険しくなる。でもなにも言わず、乃愛の頭をさらにバスタオルに包んでくれた。

 そのまま先輩の手を感じていると、頭のてっぺんから海人先輩の香りがふわっと舞い降りてきた。ふと、バスタオルの隙間から見上げると、彼が乃愛の頭の上に額をくっつけて、またため息をついている。


「なんだよ、そのひっかき傷。どれだけのことをされたんだよ」


 震える声だった。悔しさを滲ませている声に聞こえ、ここでまた涙がぽろぽろとこぼれてきた。

 今日はひとりきりで泣くはずだったのに。艦で我慢してきたいろいろを吐き出す時間にするつもりだったのに。

 でも、体温を感じられる人が目の前にいて、なんだか心地よい香りが乃愛を包んで、おなじように悔しがってくれる人がる。それだけで、もう涙が止まらない。

 今度は乃愛が先輩の肩先に額をくっつけ、そのまま泣いた。


 海人先輩の手が、バスタオルの上からそっと頭を撫でてくれる。


「忘れることを願う……」


 先輩のリネンシャツもしっとりと湿っているようだった。そこからこの前以上に、和の香りが漂っている。その独特な香りはもう海人先輩の目印のようになってきている。だから落ち着いてくる。


 乃愛は涙を拭いて、やっと自分で頭を拭く。


 いつまでも玄関にいてもと、海人先輩を自宅リビングへと招き入れた。



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