41.ダメージコントロールできません

 半月遅れの帰港を迎えた。

 港はあいにくの小雨――。しかも夜明けに近い早朝の下船となる。

 夜が明けてきたが、雨雲が垂れ込める天候で港はどんよりとしている。


 今回は感染症騒動もあったために、華々しいお出迎え式はせずに、家族の出迎えのみ許可の、ひっそりとした下船となる。

 それでも埠頭には、迎えに来ている家族の姿がある。カラフルな傘が紫陽花のように並んでいる。



 報道で『就航したばかりの海軍艦船にて感染症発生、帰港できず』というニュースが流れたので、クルーの家族は『感染していないか』と案じていたことだろう。

 ネイビーメールが開放させた時に、家族と連絡をした者がほとんどだ。感染した、感染していない、感染しても『案じるな』と返信したことだろう。乃愛も母宛てに、『私は感染していない。大河とともに元気に業務に励んでいる』とだけ送信した。

 襲撃されたことなど伝えられるはずもない。まず、まだ査問中。軍人の守秘義務範囲にされている。軍人同士で情報が交わされても、家族には伝えられない。

 だから乃愛は、許可が出るまでは、なにがあっても口をつぐんでいなくてはならない。


 感染症のため、帰港の時に行われる式は簡略され、早々に艦を下りる時間がやってきた。

 この日は白い制服ではなく、通常の制服で下船することに。夏白シャツに濃紺のスラックスというスタイルで、乃愛と大河はスーツケースを片手に下船口へと向かう。


 もうスマートフォンが一般電波で通信できるようになり、大河が通知音に気がついて眺める。


「陽葵が迎えにきてる」

「ほんと!? 珍しいね。やっぱり感染していないか、すごく心配していたんだよ」

「まあ、ネイビーメールが開放された時に『感染していない』と伝えていたから安心はしてたはずだけどな」

「それでも、待っているだけの奥さんは心配だよ~」


 照れくさそうにしている大河を見て、乃愛は笑っていた。

 そんな乃愛を大河がじっと見つめてきた。


「頬の痣、消えたな。よかった」

「……うん。残っていたらまだ降りられなかったよね。私だけここにまだ留置させられていたかも。それに、痕が残っていたら、陽葵にも会えないよ」

「そうだな。あいつ、経緯を知ったら、総務に殴り込みに行きそうだ」

「ほんとほんと。かわいい顔して、とっても恐ろしいお嫁さんですからね」

「そこがいいんだろ。キリッと凜々しく逞しい奥さんってとこがよ」

「は~! もうすぐご対面だからって、浮かれて惚気ないでくれる~!」


 いつもの岩国幼馴染み節が復活できていることにも気がつき、思わず大河と真顔で見つめ合ってしまった。


「よかった。ほんとうに。よかった……」

「大河……。大丈夫だよ。私だってそんなヤワじゃないよ……」

「だよな。20メートルの高さから飛び込める度胸を持ってる女だもんな」

「大河にも心配かけちゃって、ごめん」

「俺も。守れなくて、ごめん」

「私は守られるより、大河を無事に陽葵に届けたい。大河も陽葵も大事だよ」


 何故か。大河のほうが目を潤ませていた。

 やめてよ……。私も泣いちゃうじゃないかあ……。

 それだけ、幼馴染みバディには、DC隊職務とは別に激動の航海になってしまったのだ。


「次はさ、海人先輩との宿題で紐解いていくから。今回の感染症ウィルスが入り込んできたのも疑わしいようだから」

「乃愛が乗る艦に、なにがあるのか、だな」

「見くびられるもんか。お父さんたちが護ったように、私も私で艦を護る」

「おう。俺もそばにいる。宿題は手伝えそうにないけど、いつだって力になるからな。えっと……。海人先輩にもそう言っておいてくれよ」

「わかった。シド大佐だっているよ」

「そうだな。乃愛が行動制限されている間も、すげえピリピリモードの怖い顔で巡回していたからな。もうそこらへんの隊員みんな震え上がって、『厄』というワードが禁句になったんじゃねというくらいに聞こえなくなったわ」


 そんなシド大佐は今日同じ日には下船できないようだった。

 艦に警務隊を迎え入れ、例の総務少尉の聴取を陸で行うために『引き渡し手続き』が残っているとのことだった。


 そんなことを思い返しながら、乃愛は艦を降りる――。

 下船口をくぐり抜け、乃愛と大河は制服姿で桟橋へと出る。

 小雨の中を、傘をなしに歩く。


 桟橋を渡りきった岸には、カラフルな傘の色合いが並んでいる。出迎え家族がたくさん待ち構えている。

 そこから『大河、乃愛!』という声が聞こえてきた。

 淡いラベンダー色の傘をさしているロングヘアの女性が手を振っている。『陽葵ひまり』だった。


 大河と顔を見合わせ微笑みあう。


「ほら~、行きなよ~。旦那さん!」

「うっせい。おまえの名も呼んでるだろって」

「いいから、夫が先に行けっ」


 乃愛は大河の背中を押しに押しまくった。

 まだ照れている男をもう一押し、突き飛ばすように前へ押した。

 やっと、大河は嬉しそうに目元を緩めて、大股に歩き出す。その足が妻へと急いでいた。


 ロングヘアに女性らしいワンピース姿の彼女が、家族の人垣から抜け出てくる。


「おかえり、大河」

「ただいま、陽葵」


 大河が人目も気にせずに、陽葵を抱きしめた。

 ああ、やっぱりね。照れくさいくせに我慢できないんだからもう……。乃愛はちょっとだけ目をそらした。ええ、もう、中学ぐらいからずっとこんなかんじですよ……と。

 陽葵も嬉しそうにして、夫の大河を抱きかえしていた。


 陽葵はほんとうに女性らしい女性だ。ボーイッシュな乃愛とは正反対。

 だけど気が強いのはお揃いなのだ。陽葵のか弱そうな見た目に騙され、やり返された男共をどれぐらい見てきたことか。

 そんな陽葵をまるごと理解して包み込んで守ってくれるのは大河だけ。

 幼馴染みでそのまま結婚したふたりのアツアツぶりは、乃愛にとっても微笑ましくて尊くて、宝物だ。乃愛だってこの夫妻を守っていきたいと思っている。


 ひとしきり夫と妻の再会を堪能すると、二人は必ず肩を並べて、乃愛へと向かってきてくれる。


「乃愛、おかえり! よかった~、ふたりそろって感染していなくて。もう~ヤキモキしていたよ~」


 彼女は小学生のときからずっと、少女漫画のヒロインみたいな線の細さを漂わす女性。いまも清楚さをふりまいて、乃愛を迎え入れてくれる。


「ただいま、陽葵。大河のこと、心配したでしょう。半月遅れでやっと帰港できたよ」


 可憐な微笑みが乃愛へと向けられる。


「なにいってんの。乃愛のことだって心配していたよ。いつも二人のことを常に一緒に考えているのに……、あら……、乃愛……」


 そんな幼馴染みの彼女が、いつも和ませてくれる笑みを見せてくれていたのに、乃愛の顔を見たとたんに首を傾げた。


「……怪我でもしたの? こっちの頬、ちょっといつもと違うように見えるんだけど……」


 うわ、ここにも手強い女性がいるよ――と乃愛は絶句する。


「えーっと。うん、ちょっとね……」

「なに。まさか、男と取っ組み合いの喧嘩なんてしてないよね」

「し、してないよっ」


 近い予想をぶつけられて、乃愛は一気に狼狽えた。


「怪しい! 乃愛、ムキになったら後先考えずに行くでしょ」

「大河が止めてくれるもん!」


 いけない。つい幼馴染みモードになったと乃愛は我に返る。

 というのも、陽葵の隣に並んでいる大河も焦った顔を見せたからだ。

 この妻、弁が立つので、さすがの大河も理路整然に追求されると負けてしまうことがある。あとで納得できない妻がとことん向かってきたら、今回のことをどう言い訳たらいいのかと怯えたのだろう。

 だから、乃愛から伝える。


「陽葵。言えるのは『安心して』。ここから先は仕事の話になる。大河もおなじ指示を受けているからそっとしておいて」


 陽葵から笑みが消え、冷めた真顔になった。


「わかった。変に誤魔化されるより、最初からそう言ってくれるほうが助かる」


 陽葵は父親も夫も『海軍人』だ。娘であって妻である。

『職務でなにかあった。でも言えない』、そう伝えれば『妻は黙って控えている』こともよくよく理解している。

 そして『言えるのは、安心しろ。これだけだ』。この言葉は、父親たちが繰り返してきた言葉だった。

 陽葵も乃愛も、そしてふたりの母親たちも、海の男のこの言葉を信じてきたのだ。

 いまは乃愛と大河が伝える立場になってしまったけれど。そう聞けば、陽葵は妻として肝を据えて黙ってくれている。


「朝ごはん、うちで食べて行きなよ。最近の乃愛、私と大河に遠慮しすぎだよ」


 嬉しい誘いだった。いつも二人きりにしてあげたいと、遠慮しているのもほんとうのこと。そして、今日も最初から、帰ってきた夫とゆっくりしてほしいから、乃愛は遠慮する心積もりだった。


 でも……。今日は少し違う。


「ごめん。陽葵。今日は……、一人になりたいんだ……」


 乃愛は……。この親友の彼女にすべてをぶちまけたいけれど、できなくて。聞いて欲しいけど言えなくて、辛くなりそうだった。彼女もきっと見抜く。乃愛になにかあったのなら許さない! 彼女もそう決したら、けっこうな手を使って洗い出しそうだった。それぐらいの気概がある女でもあるのだ。


 俯きかげんに声を絞り出して断る乃愛を見て、陽葵はそばにいる大河の様子を確認するように、彼の顔を見上げてる。大河がそっと首を振った。『そっとしてやれ』の合図だった。


「わかった。じゃあ、来週は来てよ。絶対」

「うん。久しぶりにお邪魔するね」

「送るね。今日はゆっくりして――」


 帰りは杉谷夫妻の車で、乃愛が住んでいる住宅地まで送ってくれることになる。


「雨が強くなってきたわね。急ごう」


 気が利く陽葵はもう一本、傘を手に持っていた。それを乃愛へと差し出してくれる。

 あいあい傘で仲睦まじい夫妻がひとつの傘にはいって歩き出す。大河の笑顔がもう……、DC隊中尉の顔ではなく夫の顔なっている。幼馴染み夫妻を見て、乃愛の顔も綻ぶ。陽葵を真ん中に、三人並んで歩いた。


 三人で駐車場に到着した時には、さらに雨足が強くなっていた。


 荒れた波が見える海岸線、そこを陽葵が運転する車が走り抜ける。

 午前5時過ぎ、もう空も明るくなって朝の景色が広がっていた。

 住宅地の入り口に到着、いつも大河がおろしてくれる地点で乃愛は車を降りる。

 荷物を降ろし傘を借りて、夫妻と近いうちに一緒に食事をすることを約束して別れた。


 傘をさし、ひとり。ざあざあと降る雨の中、スーツケースを引きずって家路を辿る。


 まるでいまの私の心のようだ――。乃愛はひとりになって、一気に重苦しい想いに包まれ始める。

 曇っていて湿っていて、心の水面は大荒れだ。心に大量の海水が入り込んで重々しくなって、破裂しないように我慢している。


 どんなに『厄女』と囁かれても、聞き流せばいいだけだった。

 今回初めて、『人の悪意』というものを一身に受けた。身体にも心にもだった。

『もう平気』と周囲には元に戻ったような顔で繕っていたが、やはりそうではない。心は重く、時折、頬が受けたあの時の圧迫感が蘇るときがある。男の形相も覚えているが、警備に拘束、制圧される様子を目にしたせいか、『もう大丈夫』という意識に変えられ恐怖はなくなっている。これはすぐに駆けつけて、あっというまに制圧してくれた警備のおかげだと思っている。呼べば一瞬で、警備隊員が駆けつけてくれる体勢を整えてくれていたシド大佐に感謝したい。


 それでも、疲れた……。


 帰ったら、もう、海人先輩にすぐメッセージを送ろう。

 帰ってきました、会いたいです。メール嬉しかった、すごくすごく、嬉しかった。あれがなかったら――。乃愛は激しい雨音の中、一人の世界に沈み込んでいく。


 濃紺のスラックスの裾が雨で濡れていく。

 あと少しで自宅だ。

 雨でけぶる住宅地の路、平屋が並ぶ中、乃愛は自分の自宅の玄関へと目線を向けた。

 そこで立ち止まる――。


 乃愛の家の玄関先に、傘をさした人がいる。

 激しい雨でうっすらと煙るそこに、栗色の髪の男性がいる。


 彼もこちらに気がついた。


「せんぱい……」


 彼が乃愛に向けて手を振って笑顔になる。


「おかえり、乃愛さん」


 海人先輩がそこにいる。

 乃愛の自宅まで出迎えにきてくれていた。


 雨の日でも綺麗に輝く栗色の髪、琥珀の瞳、そしてお日様君の笑顔。

 その人の顔を見て乃愛は初めて感じた。

 心にたまった重々しい水がどこかに一気に流れ出ていく。その勢いで急に心の中が軽くなって、心のバラストが保てなくなる。心が一方向に勢いよく傾く、あの人に。ダメージコントロールは皆無、完全に傾いた。あの人がいる海へと沈んでいく。海中にいるその人へと、乃愛は手を伸ばして……。


 手放した傘がひらりと地面に落ちる。

 スーツケースを放って、乃愛は走り出していた。

 雨に濡れながら、でもその人を目指して駆ける。


「せんぱい……!」


 その人の胸に飛び込んでいた。

 あの和の匂いがするシャツに、溢れ出た涙が染みこんでいく。

 唐突に泣き出した乃愛のことを驚きもせず、彼の手がそっと、乃愛を胸の中へと抱き寄せる。その体温だけが伝わってきた。




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