38.厄女、厄を受ける


『乃愛!』――。大河の声が聞こえたが、その時の乃愛は床にたたきつけられたところで目を瞑ってしまい、なにも見えない。

 そのあとすぐ腹部にどんと沈むような重みを感じて、一瞬息が止まった。やっとひと呼吸を得て目を開けると――。目の前には男の顔があって大きく開いた片手が迫ってくるところだった。


 この時になって、乃愛は床に仰向けに倒れ、なおかつ男が馬乗りになっていると把握する。しかし既に、怒りの形相で顔が赤く燃えている男の手が乃愛の顔へと向かってくる。


 殴られる!? そう構え目を瞑った。だが殴られる衝撃は感じず、その代わりに男の大きな手が乃愛の片頬を強く掴んできた。無理矢理に横向きにされ、もう片頬は床に押し付ける形で頭を押さえ込んできたのだ。


 痛くて重くて息苦しくて、乃愛はうめき声を漏らす。頭を抑えられたら身体を起こし上げられない。いや、馬乗りになっているから元々無理か――。しかし殴られるのも嫌だが、頬を床に押し付けられているのも屈辱的なものだった。

 しかも男がなにか叫んでいる。


「おまえが乗っているとなにかが絶対に起こる! 出航前にパイロットが落水した時にもおまえがそばにいただろ! おまえが活躍するためのデモンストレーションだったのか!? おまえ、なにか手引きしているだろ!! おまえがなにかを引き込んでいるんだ。厄じゃねえ、おまえがこの艦を陥れることを目的とした者を呼んでいるんだ!!」


『吐け、いまここで白状しろ!!』


 男の叫びはそれだった。『厄じゃない、なにかを手引きしている。不審な隊員』、乃愛へ疑いの目を向けていた挙げ句の突撃だったらしい。


 この男は『厄なんてありえない。だったらもっと不審ななにかが隠れている、この女に』と、確かに軍人の目を持っている。その視点からの攻撃――。


『答えろ、吐け、白状しろ』という、乃愛の耳をつんざく男の怒号が繰り返される。

 顔を横向きの状態で床に押し付けられているので上の光景が見えないが、大河の『やめろ、離れろ。剣崎から降りろ!!』という声が聞こえてくる。それだけじゃない、『先輩、やめてください』、『兄さん、落ち着け』という数人の男の声も――。


 やがて乃愛の身体が軽くなる。顔が動かせて上へと向けると男がさっと消えていた。


「拘束しろ!」

「ラジャー!!」


 そんな声が聞こえてくる。

 なにが起きたのか。そっと上半身をやっとの思いで起こすと、乃愛の足下には黒い戦闘服の警備隊員が数名、総務の男を床に伏せる形で抑え込み後ろ手で制圧していた。『拘束!』という完了を告げる声も聞こえた。男の腕に結束バンドが施される。まるで逮捕のようなシーンが目の前で起きている。


 頬がじんじんと熱くなってくる。殴られていないのに、それに等しい感覚が乃愛に襲ってくる。

 乃愛の目の前に現れたのは金髪の大佐、シド大佐だった。


「大丈夫か、乃愛――」


 そばに跪いたシド大佐の大きな手が、床にへたりこんでいる乃愛の片肩にそっと触れた。

 その瞬間に涙がじんわり浮かんできたが堪えた。

 女だから泣いたなんて思われたくなくて、ぐっと堪え、乃愛はここで意地を張った。




---👿




 乃愛はすぐに、医務室へ連れて行かれた。

 大河だけではなく、世羅少佐まで付き添ってくれる。

 身体は軽い打撲ぐらいだったが、頬には真っ赤な痣が浮き上がっていた。それだけ強く抑えられ、圧迫していたらしい。爪を立てられ指ものめり込んでいる形で、引っかき傷まで付けられている。殴られたに等しい状態だと軍医に言われる。そこに湿布を貼られてしまった。


 処置が済むと、世羅少佐に告げられる。


「聞き取りがあるから、すぐに長門部隊長のところに出向いてくれるかな。大丈夫だろうか。気もちが落ち着かないなら、少し休んでからでもかまわないよ――」


 シド大佐に『付き添え』との指示を受けたのか、世羅少佐はずっと、乃愛と大河から離れずにいてくれる。


 大柄な男に突き飛ばされ、床に倒れ込んだ後はなにが起きたかわからなかった。大河を始め、そこにいた隊員達の目にはどのような光景が繰り広げられていたのやら。


 大河と世羅少佐の説明だと、乃愛が倒れ込んだあと、その男は大河がいるにも関わらず、すぐに乃愛の身体の上に馬乗りになり、顔を押さえつけて怒鳴り始めた。

 大河がその男を除けようと背中に飛びついたが、大柄な男がどっしりと座り込んでいて、こちらも暴力並の力を使わないと引き剥がせない状態で、その力を使うべきか躊躇してしまったらしい。


 だがここで堪えたことは正解だったと、世羅少佐が言う。


 大河もここでバディの女性をなにがなんでも助けようと、暴力にて対応していたら、喧嘩両成敗の処分になった可能性もあったかもしれないと少佐が言う。ここで大河が冷静に判断をしたこと、それが後に乃愛に有利になると、世羅少佐も堪えた大河を慰めてくれている。乃愛も大河が処分されるような助けなんて望まないから、それを聞いて胸をなで下ろした。


 総務室から彼の後輩たちも仰天した様子で何人も飛び出してきて、その男の背に飛びついて『やめてください』と懇願するも、男は興奮状態で聞く耳持たず。


 総務の上官が出てきたが、自分の部署の隊員が女性に馬乗りになって叫んでいる姿を見ただけで、一瞬で顔面蒼白。総務の若い隊員に『警備隊を呼んでこい』と指示。幸い、すぐそばを巡回していた警備隊員がいたため、駆けつけてきた。


 警備隊は艦内の諍いの時にも、暴力では無い力業で仲裁にはいる権限を持っている。仲裁へと乗り込むが、まずは男へ警告。しかし男は乃愛から離れずに『この女に白状させる』と叫び続ける。警告を無視したと見なされ、取り押さえ拘束を実行。


 駆けつけた警備隊員は四名、その時点ですぐに無線にて報告。そのあと近くを巡回していた世羅少佐とシド大佐が駆けつけたとのことだった。


 そんなことを聞いてはいるが、乃愛の頭の中は真っ白で茫然としているままだった。


 その様子を見た世羅少佐が、それ以上の説明はいまは無駄と判断したのか黙り込んだ。大河もなにも話かけてこなくなった。



---⚓




 DC部隊本部室へと到着。長門中佐が狼狽えた様子で出迎えてくれた。


「剣崎――、大丈夫か」


 ほんとうに父親のような顔で受け入れてくれる。

 椅子が準備されていたので、部隊長デスクの前に大河と並んで座る。

 世羅少佐は付き添いと部隊長への報告要員として、大河の隣に座った。


 長門中佐が口惜しそうにうつむいて、眉間にしわを深く刻んでいる。


「すまない……。女性隊員にこのような事態を招いてしまった。剣崎にまつわる噂を放置しすぎたせいだ……。申し訳ない」

「いえ……。くだらないことだと思っていてほしかったので……。その程度で済むと私も思っていたので……」


 部隊長が気に病むのが嫌だったので、なんとか口を開いたが、殴られていないのに本当に頬が痛くて口の中も血の味がしていた。喋るのも痛いことに気がつく。


「拘束された総務の隊員はすぐさま聴取を行って、こちらにもある程度の報告が来ている」


 男も観念して乃愛を襲った理由を神妙に答えたらしい。


「兄弟で総務に配属されていてね。襲ったのは兄のほうだった。襲った理由は、帰港後、弟が結婚式を挙げる予定だったが上陸できなくなったせいで延期になったから、だそうだ。それを剣崎のせいだという思い込みからだ」

「結婚式。心待ちにしていたということですよね……」


 新艦のテスト航行で航海期間も短い。順調に航行はなされ、帰港は目の前だった。

 愛する花嫁さんの出迎えで、その後は幸せな時間が待っているはずだったのに……。帰港は延期、まだ未定。酷ければ一ヶ月は港に入れないことになってしまったのだ。

 その想いが『艦になにかを引き込んでいるあの女のせい』という強行に結びついたということだったらしい。


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