37.スケープゴート
残り十日ほどの航海過程で、艦内にて感染症が蔓延しはじめる。
いつからか世界に居着き始めたやっかいなウィルスだった。
素早く型を変え、そのたびに流行して、収まって……。また新たな型で流行するという、一度発生すると広まる力が強い感染症だった。しかも感染すると重症化しやすいケースもあるのだが、軽く済むか重症化するかは罹患しないとわからないという。なんとも気を遣う感染症が艦に入り込んできたのだ。
しかし業務を止めるわけにもいかず、各セクション、罹患していない隊員でなんとか艦の運航を保つための指揮が執られた。
DC隊部隊内でも数名感染を確認、濃厚接触者を合わせ隔離。医療隔離区画にて治療と療養が施されている。
穴埋めのため、再度のシフトが組み直される。罹患していない隊員だけのシフトは負担が大きくなり、通常に休養が取れないため、体力が落ちているものから罹患していく――という繰り返しになってきた。DC隊だけではなく、どこの部署もだった。
常時マスクを装着する指示が出て、乃愛と大河もマスクをつけての巡回を行っている。幸い、幼馴染みバディはなんとか罹患せずに済んでいる。
異性なので就寝する区画が異なるが、あとはほぼおなじ生活サイクルを送っているせいだからだろうか。
いちばん感染者が出ているのは総務隊とのことだった。
また総務か、と、乃愛は思ったが偶然だろうか。
保全巡回で下層階の艦内を歩いていると、またもやシド大佐と世羅少佐と出くわす。
あちらもマスクをしている状態だった。シド大佐は感染していないようで、乃愛はほっとする。それは大佐もおなじか。
「乃愛と大河はまだ大丈夫みたいだな。よかった」
「大佐と世羅少佐も、お元気のままでよかったです」
「一緒に食事はできなくなったけどな――」
マスクをしているので、あのニヒルな笑みを刻む口元を見られない。だが青い瞳の目元が少し緩んだので、乃愛の脳内ではお馴染みの表情がちゃんと浮かんでいた。
シド大佐と一緒に食事ができなくなったのは、感染対策のため。密集を避けるソーシャルディスタンスを維持するために、カフェテリアでの食事時間と入室人数を管理制限されたのだ。部署ごとに食事時間と人数が定められている状態だ。
出会ったそこからしばし、警備バディのお二人と並んで歩いた。
黒い戦闘服に防弾チョッキを身につけ、戦闘要員である彼らはいつも以上に物々しい装備をまとっている。それだけ警戒をしているということなのだろう。
「まさか、パンデミック的なやつがくるとはなあ。こんなの海軍に入ってから初めてだ」
シド大佐は警備のためか周囲を眺めながらも、やるせなさそうにマスクの奥でため息をついている。
そんなシド大佐に、乃愛はここ十日、心の奥で燻らせていた想いを吐いてしまう。
「私がいるからだと、また聞こえてきました……」
「ああ、俺も聞いたよ。馬鹿馬鹿しいな。そもそも、沖縄で折り返してからも順調だったんだ。どこで? そんなの俺も、艦長のウィラード准将も、もうわかってんだよ」
この艦の上官たちは、既に見通しをつけていると乃愛は知る。
シド大佐の言葉を聞いて、大河も会話に入ってきた。
「憶測でものは言えないと黙っていましたけれど……。高知沖で補給艦と接触した後、ということですよね」
「そうだな。そこからなにか入ってきたかんじだよな。誰もがそう考えているだろうよ。物資に紛れていたか、補給艦のクルーに感染者がいたかだ。総務のクルーに多く出ているのも気になる。艦から艦へ物資補給する時に立ち合うのは物資流通セクションのクルーと、搬入手続きをする総務のクルーだ。外から入ってきたなら、補給艦からが濃厚な経路だとすぐにわかるよな」
世羅少佐も、シド大佐の隣から言葉を挟んできた。
「でも補給艦クルーは、こちらウィラード艦と接触後も、誰一人とて感染は確認できていない。あちらが持ち込んだならば、あちらで先に感染者が報告されているはずですからね」
「だよなあ。スナイダーさんが頭を抱えてたよ。俺の艦のなにを狙っているのかと。当然艦長は、一隊員が厄を背負っているからだなんて判断はしない。つまり。乃愛の厄がどうのこうのなんてこじつけで、体の良い『スケープゴート』。乃愛を盾にした噂がさらに広がるならば、もっと考えなくてはならないのは、スケープゴートを立てたやつがいる可能性だ。その裏で、なにかを狙っているやつがいる可能性に気がつかなければ、軍人失格だ」
警備隊の隊長からそんな見解が出てきて、乃愛はほっとした。
大河も『自分もそう思います』と、同意見でよかったと笑顔を見せたほどだ。
「まあ、安心しろ。陸の作戦司令部から立て直しのサポートの指揮案が、ウィラード艦長に届いたようだから」
作戦司令と聞いて、乃愛は『葉月お母様が動いている』と知る。
「御園中将が……ということですよね」
「葉月さん直々に陣頭に立っているらしい。まあもともと、動いている任務の進行やサポートを担っている部署だからあたりまえなんだが。それでも司令が先頭に立っているようだから、安心しろ」
感染を確認、広がり始めた段階で、葉月お母様自ら動き出したということだった。医療関係へ艦内の感染対策に比重を置いた対策マニュアルを依頼、艦内運営の切り替え変更の概要、艦内のゾーニングなどを素早く提示して、ウィラード艦長に届けたとのことだった。
「この艦専用の医療マニュアルを立ち上げてくれたおかげかな。いまのところ、爆発的な蔓延は抑えられているだろ。あとひと息だ。いま、感染した隊員のみを専用の艦を送って入れ替えるか、あるいはそのまま抑え込んで艦ごと新島沖で待機させるか、どちらか決めるところに来ているらしい。あと二、三日の感染者数の増加率を見て、作戦司令部で決定することになったと聞かされた。今日の夜に、各部隊で周知されることになっているから、そのうち乃愛と大河にも詳細が届くだろうよ」
だから俺たちも、感染しないよう乗り越えような――とシド大佐の目元が優しく緩んだ。
「御園中将が自ら指揮に立たれているなら、とても心強いですね。安心しました」
「我慢できなかったんだろう。飛行隊時代に大事にしていたファイターパイロットが、実績功績を黙々と積み上げて、艦長に就任したのに。次々とこの艦を狙ったようなトラブルが起こる。乃愛のせい――なんてことで片付けられるわけないだろ。言いたい奴は言わせておけ。言っている奴を見たら世羅がことごとく、隊員の氏名から部署まで全部メモっているからな」
世羅少佐が戦闘服の胸ポケットから小さなメモ帳を取り出した。
「ちなみに、大佐直属の警備隊員たちからも続々報告があり、メモしております」
うわ……。どれだけの隊員が今後目を付けられることやらと、乃愛は恐れおののいた。
でも、心強かったから、乃愛からもひとこと伝える。
「あの……。ほんとうに悪意がなくて、この悪化する環境の中で不安に引きずられ、つい言ってしまうこともあると思うんです。その程度のことなら見逃してあげてください。お願いします」
「おまえ、やっぱ透の娘だな。わかってる、そんなことは。だが、その中に、スケープゴートを作り上げる担当みたいなやつが紛れているかもしれないだろ。警備としての警戒の一環だ。程度によっては見逃すから安心しろ」
それにも乃愛は安堵する。厄女がいるせいだと影で言うくらいなら、もう仕方がないことだと思っている。嫌な状況に置かれた時に、そんな捨て置き場を求めてしまうこともあるだろうと思ってもいるからだ。
「だが乃愛も、これまでとは少し違った目線で周囲を観察してみろ。なにか気がついたら、すぐ、直接に、長門か俺に、もちろん世羅でもいい、遠慮なく報告してくれ」
「わ、わかりました」
「大河も頼んだぞ。小さなことでもいいからな、気になったことは全てだ」
「心得ておきます。なにかあればすぐ報告いたします」
大河はもうシド大佐直々に頼まれたことが嬉しそうだった。
乃愛も感じている。この大佐は既に、大河が冷静で鋭い見通しを立てられる男だと認め、信頼してくれているのだと。
乃愛もいつも頼りにしてきた兄貴だから、シド大佐に気に入られたことで、ますます頼もしく感じられた。
シド大佐とここで会話することができて、乃愛の心が軽くなる。
警備隊トップのバディが『厄のせいなんて、軍人が言うことではない』と突っぱねてくれたこと、『御園中将自ら陣頭に立っている』と聞けたこと、『直々に報告しろ』と頼ってもいいお墨付きをもらえたことで、安堵したのだ。
どんなに気にするなと言われても――。
出航前に葉月お母様のお話を聞いて、『厄女だという思い込みに引き込まれないでほしい』との想いを胸に抱いて心強くても。
人の悪意を直接に受けるということは、強がって精神を律していても、ふとした瞬間に暗い空間に引きずり込まれるように弱くなることもある。その時に、自分で自分を傷つけている。でも、そこからなんとか光が見える方に向き直って抜け出して、誰にも気がつかれないように毅然とする。
いま、そんな日々を過ごしている。
やがて『帰港延期』が決定したことを知らされる。
この艦に感染症が蔓延して、航行業務が滞っているという報道もされたとのことだった。そのためか、取材するヘリコプターが遠くに飛んでいることが多くなった。
---⚓
艦が小笠原諸島付近に到着。軍港を目の前にして沖での停泊が始まる。
感染者数を抑える対策の実施、そして濃厚接触者たちの待機期間となる。
軍港への入港許可が出るのは早くて半月、感染者数増加によっては一ヶ月以上は帰港できない可能性も出るとのこと。
だが基地は目の前なので物資は都度補給されるため、艦内での生活が困窮することはなさそうだった。
だが艦ごと、完全隔離生活を強いられることになった。
初航海でこんな事象が起きてしまい、呪われた艦と言われないかと人々が囁き始めている。
乃愛がいるせい。この艦の艦長が御園一派のせい。いろいろと聞こえてくる。
乃愛と大河はそれでも感染をせずに済んでおり、この日もいつも通りに艦内保全パトロールを行っている。
消火器が所定の場所にきちんと置かれているか、消火器具がすぐに使えるか、火災報知器、消火スプリンクラーの点検など。毎日おなじ繰り返しで飽きるほどに退屈に思えても、これを怠ると、いざ火災が起きたときに『消火器がどこかに持ち去られていた。定位置に返されていない。器具に不具合があって使えない』なんてことになる。そうすると、またたくまに延焼を招く事態となる。だから、日々同じ点検でも決して怠るなと、DC隊員は刷り込まれている。それを毎日続けている。
今日は総務の前を通過するルートの日だった。
大河と共に器具の点検、火災発生や浸水した際に処置をする防火防水扉の点検などを行い、進んでいく。
総務隊の事務室へと近づいた時だった。
ふと、開いている事務室のドア向こうへと視線を向けると、同年代の男性と目が合ってしまった。
『厄女だ――』
『厄女が来た』
そんなあからさまな声が聞こえてきた。
大河の表情も一瞬で変貌する。まるであちらの男性を牽制するように睨み付けた。大河にすれば乃愛を上官としても兄貴としても守りたいがための姿勢を見せただけだったろうに――。乃愛と目が合った男のほうも一瞬で鬼の形相に変貌し、こちらに駆けてきたのだ。
男の行動は瞬発的だったので、乃愛と大河があっと驚いた時には、男はもう総務隊事務室から通路に飛び出してきた。
しかも睨み合った大河ではない。乃愛へと向かってきたのだ。
「おまえのせいだとわかってんだぞ!!」
構える間もなくその男に突き飛ばされた。向こうが身体いっぱいに全力でぶつかってきたのだ。乃愛も鍛えているとはいえ一瞬の出来事に対応できず、自分より大柄な男の全身全霊のタックルとも言える激突で、通路の床へと吹っ飛んだ。
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