6.パイセン

『ダイビングガールちゃん』ってなんですか?

 しかも、あの御園先輩がRX7と乃愛がいるところまでずんずんと歩いて近づいてきた。


 うわ、うわ、あの栗毛の先輩が近づいてきた! 目の前まで来ちゃう! 一気に乃愛の身体が硬直した。

 それはもう高校生のときに植え付けられた感覚そのものだった。

 遠い遠い関わりのないグループにいる、お偉いさんのお坊ちゃま。

 カースト上位中の上位てっぺんみたいなところにいた先輩がこっちに来る!?


 だが先輩の琥珀の瞳がきらきらとしていて、あんまり大人っぽくみえなくなったので、乃愛は『あれ?』と一瞬、気を抜いてしまった。


「うわー! すげえ、FDじゃん! 白なのにぴっかぴっか! 大事にしてるんだね」


 きらきらっとした笑顔がいきなり乃愛に向けられた。

 いままで遠くでしか見られなかったあの笑顔が、当時そのままだった。

 え、先輩って何歳だったっけ? わかっているのに、ほんとうにそう思えるほどに無邪気なものだったのだ。


 緊張から一転拍子抜けした乃愛は、車を夢中に眺めている先輩へと素直に答える。


「父から譲ってもらったものなんです。父も手入れを手伝ってくれるおかげもありますけど、私にとっても宝物なので」

「同じだ!」

「え、おなじ? ですか?」

「そう。俺のあのトヨタ車も、母から譲ってもらったんだ。大人になったら譲ってくれるという約束だったんだ」

「え、先輩もお母様から? って、お母様って御園中将ってことですよね」

「そうそう。あの人、若い時からあの車に乗って、小笠原の旧島基地に通勤していたから」

「そうだったんですね。かっこいい……!」


 思わず乃愛も感じたままに声にしていた。

 母親のことを『かっこいい』と言われたからなのか、御園先輩が『えへ』と照れたので、乃愛は目を瞠る。


 なんだか、遠くから見ていたイメージと違うなと初めて感じている。

 なんていうか……。栗色の髪、琥珀の瞳、ちょっと色白なかんじの肌に、品の良い顔つき、『貴公子』という言葉がまさに似合っている。その見た目に相応しく凜々しくスマートな人に見えていたのだ。なのに目の前に来た彼は、それに相反して憎めなくてかわいいというか。か、かわいい? 先輩が?? いや、きっと見間違いだと乃愛は密かに頭を振って否定していた。


「この前のダイビング、凄かったよ。スナイダーさんから聞いたんだ。ハイダイビングって、30メートルちかい高さからも行けるんだって?」

「それは父が……です。私はそこまでの高さからは未経験です。もう少し低いです」

「でも、怖じ気づかず身軽にひらりと飛んでいったからさ。まさに、スナイダーさんが喩えた『水に飛ぶ』だった。だから剣崎少尉なら迅速にレスキューをしてくれるはずだと、確信を持って行かせたんだって言っていた」


 あの厳格そうなウィラード艦長のことを、親しげに『スナイダーさん』と呼べるだなんて。さすが、高官の息子さん。子供のころから親しんできた顔見知りのおじさんという空気を自然に醸し出す。やっぱりお偉いさんの息子なんだなと若干の畏怖が生じる。


 それでもスコーピオンと呼ばれてきた艦長が、乃愛の経歴をそこまで知っていて信じて任せてくれただなんて。手短でも『感謝する』というお言葉を准将殿からいただけただけでも下官には光栄すぎたのに、さらに光栄すぎる……。

 

 そんな准将殿からの素の言葉を運んできてくれたのは、やはり御園家の子息だからなのだろう。


「エミルさん、えっと、戸塚中佐が、僚機の三原少佐が助かって泣いて感謝していたよ。近いうちに直接に御礼を伝えに行くと張り切っていたから」

「三原少佐は新しくサラマンダーに着任されたばかりのパイロットだったんですよね。戸塚中佐の新しい僚機パイロットだったようなので、飛行隊長としても驚いたでしょうし、心配だったかと思います」

「そうなんだよ。パイロットは骨折とかして症状がよくないと、資格が剥奪されてしまうこともあるんだ。今回は奇跡的に打撲ぐらいで済んだみたいで、あのエミリオさんがもう号泣しちゃって大変だったんだ」


 今度は『エミルさん、エミリオさん』。名が知れた上官たちを次々と親しげに呼ぶ彼の御曹司としての凄さしか伝わってこない。もう乃愛はたじだじするまま、先輩が繰り出す言葉を受け止めるだけ。

 しかも、あの気高そうな戸塚中佐が、大号泣してオロオロしている姿なんて想像できないと言いたいが……。でも乃愛がダイビングする前は取り乱していたなあと思い出したりした。


「その戸塚中佐が、剣崎少尉のダイビングを大絶賛していてさ。良かったら今度、戸塚中佐の家に来てみない?」

「え、え、はい?」


 軽々と唐突に『美しすぎるパイロットオジサマのご自宅に行こうよ』と言われて、乃愛は面食らっていた。先輩と面と向かって話すのも初めてで戸惑っているのに、ぽんぽんと物事が目の前で進んでいくので乃愛は目を白黒させるだけ。


「あ、ごめん。俺ったら……。独り善がりに……」


 我に返った先輩が、申し訳なさそうに栗毛をかいてうつむいた。


「いいえ。先輩は小笠原育ちだから、お知り合いの上官も多く、ご両親を通じて親しくされてきたんですよね。自然なことなんですよね。スクールでも、米国籍幹部のお子さんたちと仲良くされていたみたいですし」


 そこで先輩が『ん?』と不思議そうに首を傾げ、乃愛を見下ろしてきた。


「先輩? スクール?」

「私も旧島基地の日本人官舎で十代をすごしたので、キャンプのインターナショナルスクール通いだったんです。先輩の三つ下です」

「え!? じゃあ、俺たち、おなじ卒業生ってこと」

「そうです。御園先輩はご存じなかったかと思いますけど、先輩は皆が知る方だったので、私はその時から知っていますよ。ただ、私は日本人が多めのクラスにいたので、国際クラスの先輩とはグループが遠かったといいましょうか」

「なるほど。そうか。お父さんも海軍人だったとスナイダーさんが言っていた。となると、おなじ子世代で同窓生ってことになるのか。いま気がついた!」


 乃愛も『初めての会話』にたじたじだったが、御園先輩もいちいち驚いてばかりいる。そのせいか、またもや先輩がはっと我に返った顔になる。


「えっとー、今日ってここに食事に来たんだよね」

「はい。今朝から非番になったので。休暇の過ごし方の定番で、この車に乗って夕食によく来ています」

「ここでずっと話し込んでもなんなので、俺、もっとお話したいんだけど、一緒に食事とかどう? ダメかな?」


 さらっと食事を一緒にと誘われ、乃愛はかえって絶句していた。

 そんな品の良い貴公子のお顔で、でもなんだか無邪気なかんじで、嫌味もなく下心もなさそうにナチュラルに誘える先輩の上手さ?


 しかもなんだろう。気構えているのに、乃愛の心にするりとなにかが自然と入ってきたこの感覚――。


「ああ……。俺ったら。ほんっとにごめん。休暇のたびに来ているってことは、ひとりの時間を楽しみにきているってことだよな。もうまた藍子さんに怒られちゃうかな。俺、悪気がなさそうにしてけっこう大胆なことをして人を困惑に陥れるって言われるんだ」


 藍子さん? またもや慣れ親しんでいる人の名前が。しかも女性……。


「あ、藍子さんは戸塚中佐の奥様ね。ジェイブルーのパイロットで、俺の二番目の同乗者相棒だった先輩。戸塚藍子少佐のこと」

「アイアイさんのことですか」

「そう! アイアイさん! やっぱ女性の間では知れてるんだね!」

「お母様の御園中将と、お母様つき護衛官で秘書室長の城戸中佐と、女性パイロットとしてのアイアイこと戸塚少佐は、女性ならみな尊敬している女性隊員ですから。女性が軍隊で安心して働けるように貢献してくださった私たち女性の先駆者です」

「まあ、うちの母は……その、だいぶ破天荒なだけなんだけどね……あはは……」


 母親のことになると気恥ずかしく感じるのかなと、妙な笑みを浮かべる先輩を乃愛は見上げ、その心内を窺う。

 そこでまた先輩が何度目か。はっと我に返る。


「ええと。お邪魔だったね。じゃあ、パイセンはひとまず去ります。また会える機会があれば――」


 駐車場でいつまでも話が尽きない状態に陥ってしまう先輩と乃愛。正直、先輩がこんな気兼ねない様子なら、もうちょっと話してみたいと乃愛にも興味が湧く。


「構いませんよ。ご一緒でも。御園先輩がよければ――」


 乃愛の返答に、また先輩が『まじで!?』と子供っぽい顔をみせた。

 なんだか先輩の思わぬ姿を知って、乃愛はついに笑っていた。


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