5.ダイビングガールちゃん

 艦長室に出向くと、ウィラード准将より直々に『ハイダイビング経験者の剣崎少尉がいて助かった。感謝する』と礼を述べられ、乃愛は恐縮した。

 あとは当然だが『犯行に気がつくまでの経緯説明』を問われ、『犯人の顔を見たか』、『国籍はわかりそうか』などの聴取が艦長から直接行われ、『司令本部からも呼び出しがかかるかもしれない』と伝えられた。

 それからもDC隊艦内常駐のシフトがあり、乃愛もそのまま艦に残り業務に勤しんでいたが、『犯人が捕まった』という報せは届かなかった。


 大河が予測していたとおりに『この艦のクルーではなかった可能性』が有力視されているようだ。


 だとしたら。危険な男が簡単に艦内に紛れ込んでいたことになる。

 この付近に、この新島海軍司令部隊の中に、簡単に紛れて機を狙っている。

 狙いはなんだった? 新しい艦への悪評? ウィラード艦長を貶めるため? それともサラマンダーのエリートパイロットを減らすため? 乃愛の脳裏には、緑ジャージの甲板要員が躊躇いもなく三原少佐を力尽くで艦の外へと投げ飛ばした光景が蘇る。身近にそんな恐ろしい人間が潜んでいることに、乃愛は軍人になってから初めてゾッとしていた。


 しかも自分の目の前で犯行に及ぶなんて――。


 厄女だからじゃない、偶然だ。

 ずっと言い聞かせていた。



 


 DC隊第二小隊は大交代にて非番となる。

 乃愛が配属された艦は、試験的出航をする日までは港に停泊しているため、新島内であれば下船して自由行動ができるようになっている。

 クルーのほとんどは新島内に住まいがある。


 乃愛の自宅は、軍関係者用の独身向け平屋が並ぶ地区にある。

 独身向けのスタンダードな2LDK。さざ波が聞こえ、遠くに海も見える地区だった。

 実家も新島にある。こちらは新島に東南司令本部が設立された初期に開発されたファミリー向けの住宅地にある。

 父が新島司令部DC隊に小笠原から配属されてから、当時新興住宅地だったそこに母と二人で住まうようになった。乃愛は訓練校宿舎暮らしを経て、その後は実家から独立。いまはひとり暮らしをしている。

 乃愛に兄弟姉妹はいない。一人っ子だ。そのかわり、大河や陽葵といった幼馴染みがいたので、彼と彼女が兄弟姉妹のようなものだった。


 実家では、無口で表情をなくした父が鬱屈とした様子で暮らしているので、空気が重く雰囲気が良くない。乃愛もよほどのことがないと帰宅しない。

 それでも母はいままでどおりに、新島のファーストフード店のパートをしながらつつがなく暮らしている。母が変わらずに暮らしていることさえわかれば、父が腑抜けた日々を過ごしていても、いまはそれでよしとしている。


 大河と陽葵の『杉谷夫妻』もおなじく、海辺が近い軍関係者向け住宅地に住んでいる。こちらは新婚さんでこれから家族も増えるだろうとファミリータイプの大きめの家がある区画に住まいがある。でもおなじ町内といえばいいだろうか。


 そんな大河が車に乗せて送ってくれるというので、お言葉に甘えて、彼のボックスカーへと乃愛は乗り込む。


「陽葵、待っているね」

「おう。おまえも昼食に連れてこいって言われたけど、来るだろう?」

「なに言ってるんだか。新婚なんだから、非番のときぐらい夫婦水入らずでゆっくりしなよ~」

「そんな気ぃ遣うなよ」

「いやいや、私は私で、今日は飛ばしたい気分だからさ」


 久しぶりに心がザワつく出来事に遭遇してしまい、そんな心境だった。もちろん幼馴染み夫妻の気遣いを有り難く思いつつも、気負わせないように断る口実でもあった。

 大河もそこはわかってくれたのか、致し方ないという笑みを運転席で浮かべている。


「あんなことが目の前であったもんな。陽葵には、なにが起きたかは守秘義務的に伝えられないけれど。乃愛は『ぶっとばしたい日』と伝えておく」

「ありがとう。あまり心配はかけたくないよ。大河だってそうでしょう」

「そうだな……」

「一緒にいてあげなよ。中尉もゆっくり休んでね」


 陽葵は結婚を機に軍の事務職を退職して、いまは専業主婦になっている。今後そうなるだろう出産と育児を見越してのことだった。夫は艦乗りだから、航海に出たら自分ひとりで子育てをしなくてはならないという彼女の決意なのだろう。

 そんな彼女が、艦に乗れば留守になる夫をひとりで待っている家。親友の乃愛が訪ねても嬉しいだろうが、新婚の今はふたりきりで過ごしてほしいと乃愛は思う。


 大河の車が独身住宅地の入り口で停車して、乃愛をおろしてくれる。『では、また二日後の非番明けに』と挨拶をして別れた。


 交代は朝の八時に行われる。そこから艦を下りて帰宅しても、まだ朝の爽やかな空気が残っている。

 春が終わろうとしている朝の海は、もう夏の色を迎え始めている。

 さざ波が聞こえるのは心が落ち着く。

 いつも海がそばにある街に住んできたからだろうか。

 または、子供のころから父と一緒に海辺で遊んでもらってきたからだろうか。


 潮の香がする平屋住宅地の路地を歩き、乃愛は自宅までの帰路を辿る。


 昨夜は深夜帯の艦内巡回も行ったため、帰宅したらシャワーを浴びて仮眠をする。夕方に目が覚めたら『とばしに行くか』。心が躍り始める。


「新品のあれ、はやく出したかったんだよね~」


 艦を下りたら、ただのアラサー女子。お一人様だけれどまったく平気。寂しければ一緒にいてくれる幼馴染みもいるし、そうでなければ乃愛には乃愛の楽しみがたくさんある。


 うきうきして自宅へと辿りついた。

 計画通りにまずはシャワーを浴びて、好きな香りを肌につけて薄着でベッドにダイブした。

 ひとまず、おやすみなさい……。

 午前で空が明るい時間だが、カーテンを半分だけしめると、ベッドルームは柔らかな陽射しに包まれる。こんなシフト制で不規則な生活も、艦乗りとして慣れている。すぐに微睡みがやってきた。


 汗を落としたさっぱりとした肌、装備を付けていない開放感あふれる薄着、好きな香り。耳に心地よいさざ波。海辺の住宅地は静かで、優しいそよ風と葉ずれの音……。窓辺には赤い百日紅サルスベリが揺れている。この住宅地のあちこちに植えられていて、どこの家からも見える花――。乃愛は深い眠りに落ちていく。





 目が覚めたら、傾き始めた陽射しで海がきらきらと輝いている。もう少しすれば空が黄金色になって夕の茜に変わっていくだろう。

 ああよく寝た――と乃愛はベッドで伸びをして、寝汗を落とすために再度シャワーを浴びて身支度をする。


 ふわっとした白いシャツに、黒いジョガーパンツでシンプルにまとめる。

 今日は素足ででかける。初夏も近くなってきて、小笠原地域はもう夏めいている。足先はコバルトブルーのネイルチップをほどこしてペディキュアに。シックな紺色と白のストライプのチップに、ラインストーンがちょこんとついているチップ、五本指それぞれ異なる模様。『初夏マリン』をテーマにしたものを選んで爪に貼り付ける。


 仕事柄、休暇しかできないのでだいたいチップでネイルを楽しんでいる。


 そして乃愛はクローゼットから箱をひとつ取り出す。

 もうニマニマと頬が緩むのが止まらない。


「ふふふー。今年仲間入りしたコレクション。今日、初登場です!」


 自分しかいないのに盛大なお披露目発表会のようにして、その箱をベッドに置く。


「じゃじゃーん。J&Cの新作サンダル!」


 蓋を開けて、やっぱりひとりでも声を張ってはしゃいでしまう。


「きゃー! クール&エレガント!」」


 クールな黒ベルトのサンダルがキラキラと輝いて見える。

 ベルトには大きなパールが飾り付けでずらっと並べられている。

 乃愛のコレクションは『靴』だ。乃愛のファッションは靴が主役。そこを際立たせるためのシンプルな服装とも言える。


 クローゼットにはブランド靴も、スポーツシューズも、ブーツもありとあらゆる靴がびっしりと収納されている。


 この新島は小規模だが『新興都市』となりつつあり、セレブ街なんかもできている。開発は三つ、基地街、リゾート&セレブ街、そして新島の自然区画の保護開発で成り立っている。リゾート街はセレブたちの移住地や別荘地となって発展してきた。そうなるとセレブ区画にはブランドショップも進出しているため、予約しておけば発売日に手に入れることができるのだ。本島の都心とは比べものにはならないが、それでも物資は豊かだった。

 もう仕事も高価な靴のためにしていると言ってもいいかもしれない。


 休暇はこの靴を履いて、お気に入りの海辺カフェでひとりゆったりお食事をするのが乃愛のお楽しみで癒やしなのだ。


 今日もこの新作サンダルをビシッと履いて、海辺のお気に入りカフェに夕食にでかける。そうそう、忘れてはいけない。ファッション雑誌にブランド季刊も携えてね。美味しいカフェめしとドリンクで、海辺のマジックアワーの空模様をそばにじっくり雑誌を眺めて品選びをする。


『よし、でかけるぞ』と、雑誌とトートバッグを持って自宅を出る。

 住宅地内にあるレンタルガレージまで出向いて、借りている車庫のシャッターをあげる。そこには乃愛の愛車がある。


 白色のスポーツカー『RX-7』だ。

 その愛車に乗り込み、乃愛は出発をする。


 夕を迎えた黄金の海辺を走るのは気持ちがいい。

 好きな靴を履いて、きままなお一人様の夜がはじまる。


 厄女とか、父が腑抜けているとか……。いろいろあるけれど、自分で自分を励まして癒やして奮い立たせる時間も楽しみもまだ持っていられる。


 聞き慣れた『セブンRX-7』のエンジン音を感じながらハンドルを握っているのだが……。この愛車が父から譲ってもらったものだと思うと、また切なくなってくる。

 そんな実家の鬱屈を吹き飛ばすように、乃愛は海岸線で愛車のアクセルを踏み込む。




 日没を少し前にしてカフェの駐車場に到着する。

 今日はなにを食べようかなとメニューをあれこれ思い浮かべながら、RX7を駐車させた。

 エンジンを切ってキーを抜こうとしたところで、目の前を真っ赤なトヨタ車が過ぎっていった。

 乃愛のセブンに負けず劣らずの親世代のスポーツカーが現れたので目を奪われた。

 セブンの前を過ぎて、あちらの車も数台向こうのスペースに駐車を終えたようだ。


 うわ。あちらもおなじ時代のスポーツカーなのに、ピカピカにしていて状態が良さそう。これは大事に乗っているな――と乃愛は釘付けになりつつ、運転手『オーナーさん』はどんな人物なのかと思いながら、運転席を降りてロックをかける。


 雑誌を入れているトートバッグを肩にかけ、お気に入りのサンダルで一歩踏み出し、さりげなくトヨタ車オーナーさんへと視線を馳せた。


 だがあちらも車を降りてすぐに、こちらへと視線を向けている。

 栗毛の若い男性だった。これぐらいのスポーツカーだと『オジサン』が定番なのに。すっとしたスタイルで上品なお顔の男性……。『先輩』……?


 あちらの彼も乃愛と視線が合って、とんでもなく驚いた顔を見せている。しかも乃愛を指さして叫んだ。


「ダイビングガールちゃん、だよね? え、それ、君の車!?」


 まさかの『先輩』、御園海人少佐だった。

 乃愛はもう目が点になっていて言葉を失った。


 真っ赤なトヨタ車に乗っていた品の良い男性が、御園先輩!

 しかも『ダイビングガール』とはなんですか??


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