連星

九曜

連星

 がるぅがるぅががががが……

 防音仕様の部屋にまで響く工事現場の音。

 僕はすっかり習慣になってしまったため息をつく。ただでさえ神経過敏になっているのに、この仕打ちはないだろう。

 アップライトのピアノの蓋を閉めて、テーブルに置いていた缶からドロップを取り出す。ついてないな、薄荷味だ。僕はこいつがどうも苦手だ。吐くのも癪だし、嫌にすうすうする口をまぎらすようにドアを開け放つ。むっとした外気と騒音が一気になだれこむ。

 お隣のビルが鉄骨をむきだしにして解体されていた。こりゃ長丁場になるな。秋までに終わってくれればいいけど。

 僕はこう見えてもピアノ弾きだ。いや、ピアノ弾きの卵だ。そこそこの音大を出て、音楽教師を勤めるかたわら、コンクールに応募している。結果ははかばかしくない。もし成功してれば、夏場に小さな部屋を借り切って練習にいそしんでいるわけがない。

 これでもましなほうなのだ。かつての同窓生にはすっかり夢を諦めて、音楽教師一本で食っているやつとか、音楽教室の「先生」におさまっているやつもいる。部屋を借り切る余裕がある僕は、まだ脈がある。そう思いたい。

 秋に一つコンクールがある。僕ももう二十八だ。もし、そいつに引っかからなかったら、他の連中のように諦めて「先生」になろうと思っている。

 その正念場の隣で工事だ。やめてくれよ。実力だけじゃなくて、運までないみたいじゃないか。

 僕はいらだちを隠せずに表へ出た。

 既に鉄筋の壁は細かく切り刻まれて、そこいらに横たわっている。リレー式に猫車に積まれて、次々トラックに放り込まれていく。

 そこで僕は出会ったのだ。

 ブロンドの髪に、松脂のように輝いた肌。空の青を切り取った色の瞳。たくましい上腕二頭筋を蠢動させて、は何でもないことのようにコンクリートのかたまりを猫車で運んでいた。

 むさ苦しい男たちの群れの中で、彼女だけが光を放っていた。汗とつちぼこりに塗れ、なお輝くその姿が鮮烈に瞳に焼きつく。無言で現場とトラックを往復する姿に、僕はすっかり魅せられていた。

 どれくらい立ちつくしていただろう。とうに瓦礫は片づけられ、現場はもぬけの殻になっている。それでも、馬鹿みたいに僕はつったっている。

 女神だ。

 砂塵舞う廃墟で、僕はピアノのことも忘れて、ただ呆けているばかりだった。


「今日も練習ですか?」

 職員室で荷物をまとめていると、先輩に声をかけられた。

「ええ、まあ」

「頑張ってくださいね」

 年下の先輩は、屈託のない笑顔で僕を見送る。少々気が引ける。

 夕刻の職員室はまだ雑然としている。申し訳程度にかかっているエアコン、「失礼します!」と元気よく一礼して乗りこんでくる学生、部活――主に運動部の顧問だが――の準備で大わらわな教師たち。僕はそこから逃げ去るようにして、いつもの部屋へ向かう。

 電車で二駅。本当はもっと手頃な物件が学校近くにあったのだが、あまり近いとばつが悪い。なぜか僕は思春期の教え子たちを避けていた。きっとまぶしいのだろう。彼ら彼女らは、僕よりずっと輝いている。そのくせ、妙に冷めてもいるのだ。非常勤の僕は進路面談とは無縁だが、たまに個人的な相談くらいは受ける。これが、「ミュージシャンになりたいんです」とかだったら、微笑ましく助言をするだろう。でも、実際は違う。

「四大行って、教員免許取りたいんですけど、家に余裕なくって」

「奨学金って手もあるよ」

「先生、何もわかってないなあ。社会に出てまで借金まみれになりたくないんですよ」

 放課後、グランドピアノの前で勇気をふりしぼった詰め襟の生徒は、心底軽蔑したように僕に視線を投げた。

 アルバイトしろよ、とまでは言えなかった。「親ガチャ」って言葉が流行る時代だ、僕は彼がどれだけの事情を抱えているのか知らなかったし、知ろうともしなかった。わざわざ非常勤講師の僕を選んで、まだあやふやな決意を打ち明けてくれたのに。

 とにかく、僕はしょせんそれだけの男だ。自分の夢もかなえられないのに、人様に忠告できる余裕はない。

 いささか憂鬱な気分でいつもの電車に乗った。クーラーはきいているが、換気のために窓が開けられているから台無しだ。まったく、いつになればマスクとおさらばできるのかもわかりやしない。面倒な病気がはびこったものだ。

 駅から徒歩十分。その短い距離に、彼女のいる現場がある。僕はさり気なく目の端で現場をうかがう。既に瓦礫は撤去され、作業員たちはてきぱきと鉄骨を運んでいる。

 彼女は、いる。

 短く切った金色の髪を後頭部で結わえて、無言で何事もないように重い鉄骨を抱えている。ふと僕と彼女の目があった。

 彼女の眼差しに微笑みが宿った。僕は、それこそ高校生のようにどぎまぎしてあわてて会釈した。逃げ去るようにスタジオに駆けこむ。

 ああいうとき、なんて言えばいいのだろう。

 It's hot, isn't it?(暑いですねえ)、とか? だめだ、それ以上会話が続かない。

 Where do you come from?(出身、どこ?)とか、How old are you?(おいくつですか?)とかは初対面の相手には禁句だったことくらいしかわからない。

 ふがいない自分を打ちはらうかに、僕は「亡き王女のためのパヴァーヌ」を弾き続けた。時折混じる現場から漏れてくる騒音に心乱されながら。

「ああ、もう!」

 集中力が続かない。ミスタッチばかりだ。やけになって、ドロップの缶に手を伸ばす。今日はレモンだ。誰だ、初恋はレモンの味だなんて言ったのは。

 こんなんじゃ、練習にならない。胸のもやもやを吐き出さないことには。僕は意を決してスタジオから飛びだした。

 ところが、思ったより時間が過ぎていたらしく、あたりは真っ暗だった。作業員用に新しく設置された自動販売機が、無機質な光を僕に投げていた。仕方なくコークを買って、ほとんどなくなったドロップを飲みくだした。

 結局、彼女には会えず、僕は終電までむなしくピアノと向かいあっていた。


 一応「先生」と呼ばれる身だけど、その僕にも先生がいる。もう還暦近くて、第一線からはずいぶん昔に退いている。いや、退けられたと言ったほうが正確かな。ピアニストとしては大して成功していなくて、小さなレーベルからCDを二枚出したっきりの人だ。

 僕は高校生の頃に偶然彼の「主よ、人の望みの喜びよ」を聴いて、押しかけ弟子になったのだ。

 飄々としたその人は、楽屋口に押しかけた僕にもにこにこ笑って、最後まで要領を得ない話を辛抱強くきいてくれた。

「私なんかでよければ」

 以来、思い出したように来る気まぐれな弟子の面倒を見てくれているというわけだ。

 今日も郊外の一軒家に引っこんだ先生の元を訪れて、「亡き王女のためのパヴァーヌ」を無理矢理聴いてもらっている。

「うん」

 先生はひとつうなずいた。

「駄目ですね」

 裏腹、きっぱりと言い捨てる。

「何か気がかりでもありますか?」

「え、特には……」

「心が余って正確な打鍵ができていませんね。今の君の音は嘘泣きしている子どもみたいです」

 音は正直だ。言葉でいくら言いつくろっても、隠した想いがあふれているらしい。

「子どもなのは認めますよ。でも、『嘘泣き』は言いすぎですよ」

 先生はまたにこにこ笑って、僕にホットココアを勧めた。表は三十度を超えてるのに。

 しばらく沈黙が座を支配する。先生はずるい。いつもこうやって、僕が何か話し出すのを待っている。僕はホットココアを啜って、心を落ち着けた。クーラーのせいか、ココアは妙に体にしみわたった。

「気になるひとがいて」

 あいづちはない。

「練習スタジオの隣の工事現場のひとなんです。それが、外国人の女性で」

 とってつけたように加えたのは、誤解されたら困るからだ。もっとも、先生はもし僕が筋骨隆々な野郎に惚れたと告白しても、この態度を崩さないだろう。そういうひとだ。

「何て話しかければいいのかわからなくって」

 先生に助言を求めても無駄だ。彼はピアノでも人生でも、常に自分で答えを出すことを僕に要求している。

「気は済みましたか?」

「済むわけないじゃないですか」

 そして、いつも僕が一方的に負ける。でも、不思議と気は楽になる。

 もしかしたら、先生はあらゆる言葉がいましめになるのを知っているんじゃないだろうか。

 言葉なんかおぼえるんじゃなかった。

 そう綴った詩人がいたっけ。

 僕にはその命題に答えるだけの知性と洞察と慈悲はない。

 でも、代わりにつたないけれど音を持ってる。

 僕はホットココアをすり減ったテーブルに置くと、部屋の隅に追いやられているピアノに向かっていった。


「ありがとうございました」

 三時間くらい滞在したろうか、相変わらず先生は言葉少なで、微笑みを絶やさなかった。僕の演奏に関しては駄目だと言った後は、ほとんど何も触れなかった。

「うまくいくといいですね」

「次までにはちゃんと直してきます」

「いえ、演奏の方じゃなくて」

 眼鏡の向こうの笑いじわがいっそう濃くなる。

「建設現場の女神」

 不意をつかれて、僕の面がさあっと赤らんだ。

「失礼します」

 大股で先生の家を去りながら、僕はスタジオへ向かう電車に乗りこんでいた。先生の不意打ちのせいで、どうにも彼女のことが頭から離れない。決めた。今日こそ彼女に話しかける。

 勢いこんでいた僕だったが、件の建築現場は人っ子ひとりいやしない。まだ午後三時だぞ、と強い日差しに打たれながら心中で焦る。ああそうか。

 今日は日曜だった。さすがに工事もお休みだ。仕方なく、近くのコンビニへ夕食を調達に入った。独特のメロディが来店を飾る。いつも思うけど、これ、やめた方がいいんじゃないかな。あくまでも客側の都合だけど。

 いらっしゃいませ、とかすかに聞こえる。僕は何の気なしに弁当のコーナーを物色していた。時間帯が悪いのか、品揃えがよくない。

 仕方ない。スタジオで時間でもつぶすか。僕はジーンズのポケットのキーホルダーをまさぐった。スタジオの鍵を探し当てたそのとき、お節介な自動ドアが客の到来を告げた。

「あっちー」

 夏休み間近の学生の一団が、ろくに前も見ずにお出ましだ。一人はスマホでソシャゲでもやっているのか、しきりと画面をスワイプしている。あとの二人は互いにおしゃべりに夢中で、前方がお留守になっている。子連れの女性が彼らを迂回するように店から出て行った。

「今の、けっこうイケてなくない?」

「子持ちだぜ。老け専かよ」

「でも、ヤることヤってんじゃん」

 彼らがあけすけなのは大目に見てやってほしい。あれくらいの年頃の「男子」が考えることなんて、ああいうことばかりだ。眉をひそめるむきがあるのもわかる。こないだなんて、電車でその手の話をし始めた連中もいた。僕から言えることは一つだ。エロ本は押し入れにでも隠しておけ。

 僕がいっぱしの大人ぶっていられたのも、彼らの次の台詞を聞くまでだった。

「どっかにいねーかなー。イケてて頭と尻の軽そうな女」

「頭軽いかはわかんないけどさ、イケてる女なら心当たりあるぜ」

「どこの女?」

「すぐそこに工事現場あるだろ? そこにちょっと年いってるけど、ガイジンのいい女がいてさあ」

 僕の耳で鼓動が聞こえた。彼らの話題に一致する女性なんて、ひとりしか知らない。

「工事現場で働いてんの?」

「そそ。ヤローに混じって削岩機とか振り回してさ。きっと金に困ってんだぜ。払うもん払えばヤらせてくれるって」

「そうかあ? それが嫌だから工事現場で働いてんじゃないのか?」

「そのときはそのときだ」

 僕はすぐにでも奴らの胸ぐらをつかんで、ぶちのめしたい衝動に駆られていた。

 そのときって何なんだ。お前らは彼女をどうするつもりなんだ。けど、現在彼らは何もしていない。ただ、下卑た妄想に彼女を登場させているだけだ。もっとも、僕はそれですら我慢ならなかったのだが。

 はらわたで怒りを練りながら、さりとて実力行使に出ることもできず、僕はいつものドロップの缶を一つ買ってスタジオに戻った。元々このスタジオはバンド用で、ピアニスト向きではない。僕がここを拠点に決めたのは、前にもいった通り、教え子たちと鉢合わせしたくなかったのと、ひなびた雰囲気が気に入ったからだ。大手系列のスタジオは至れり尽くせりで、あまのじゃくな僕は居心地が悪くなってしまう。

 そのおんぼろスタジオで僕は猛然と「主よ、人の望みの喜びよ」を弾き始めた。この清い曲が、高ぶりを鎮めてくれることを願って。

 でも、結局お前もあいつらと同じことを考えてるんだろ?

 頭の隅で、意地悪な声が聞こえる。

 ああそうさ、僕だってただのけだものさ。

 聖なる旋律を毒々しく汚しながら、僕は力尽きるまでバッハを弾きつづけた。


 それから、僕は彼女を避けた。

 いや、自分自身の醜さに耐えられなくなった。

 着々と積み上がっていく楼閣は、そのまま僕の欲望のようだった。僕はそれを恥じた。

 夏が深くなり、彼女はいっそう汗みずくになり、妖艶さを増していく。僕はそれが怖かった。いつ、あのコンビニの学生と同じ結論に達するか、時間の問題のようだった。当然、「亡き王女のためのパヴァーヌ」ところではなくなっていた。僕の夏は空費されようとしていた。

 それでも習慣とは悲しいもので、僕はピアノに向かいつづける。ぼろぼろの旋律で。

 隣のビルに看板が立った。何かのショッピングモールになるらしい。オープンは十月一日とある。内装なんかがあるから、彼女がここにいるのはせいぜい八月いっぱいというところか。じりじりたっていく時間。僕のピアノは乱れたまま、彼女が向けてくれる視線にも応えられないままだ。

 生暖かい風が湿気をはらんで、息苦しい夜だった。僕はさしたる成果もなく、機械的にスタジオの鍵をかけて駅へと急いでいた。

「オニイサン」

「は、はい?」

「オニイサン、サミシソウ」

 不意に雑居ビルの隙間からにゅるっと白い腕が伸びてきた。僕はあっさりそれに絡めとられた。

 夜目にも目立つ濃いシャドウ。リップは塗りすぎて口だけが目立っている。その口が、ぎこちない日本語を綴る。不自然なくらい大胆なスリットの入ったチャイナドレスを着た国籍不明の女が、僕の前に立ちはだかる。

「オニイサン、アソンデイカナイ?」

 彼女の目は青かった。あのひとのように。僕が吸い込まれるようにそれを見ていると、女は遠慮なくくちびるを重ねてきた。

「ナグサメテアゲルヨ」

 女のルージュで真っ赤になった僕の口が、言葉を反芻する。

「慰めてくれるって?」

「ソウ。オニイサントテモサミシソウダカラ」

「僕が? さみしそうなの?」

 参ったな。今、僕の自尊心は何度目かのピアノとの勝負に負けてぐちゃぐちゃなんだ。

 言い当てられて、僕は無抵抗に次のくちづけを受けていた。ビルの壁に頭を押しつけられて、逃げ場はない。

 ここで落ちてしまうのもいいかもしれない。

 僕は女の髪に手を伸ばしていた。三度目のキス。

「ヒトバン、サンマンエン。ヤスイヨ」

 ふと指に引っかかっている女の髪が気にかかった。消えかけのネオンの色が映っているけど、それは確かに金髪だった。

 あのひとと同じ色。でも。

 あのひととはくらべものにならないくらい細くて悲しくて。

 一晩三万円ぽっちで僕を慰めるだなんて言って。それがまた僕をどうしようもなく切なくさせる。

 僕はゆっくりと女を引き離した。

「ごめんね」

「ドウシタノ?」

 女は言いつのる。

「オニイサンモサミシイ。オニイサンガサミシカッタラ、ワタシモサミシイ。ウソジャナイヨ」

「うん。よーくわかってる」

 僕は薄っぺらい財布から、なけなしの三万円を彼女に押しつけた。

「これでおいしいものでも食べて。それから、考えて。本当に君はこれでいいのか」

「ニホンゴ、ムズカシイ。ヨクワカラナイ」

「じゃあ……」

 僕は必死に脳細胞を回転させて、乏しい語彙からなんとか言葉を紡いだ。

「Don't do such a thing. Do what you really want」

(そんなことしないで。本当にしたいことをして)

 女のマスカラまみれの目から黒い涙があふれた。

「This is a reward. Because you taught me what was important for me」

(これはお礼。君は僕に大切なことを教えてくれたから)

 そう。この行きずりのひとが教えてくれたんだ。代わりじゃ駄目だって。あのひとでないといけないんだって。

 僕は三万円を女に押しつけると、足早に駅へと立ち去った。

 途中、すれ違った酔っ払いが一瞬ぎょっとして僕をながめた。そうだ、さっきのひとの化粧がまだ顔にうつったままだった。僕は手の甲で顔をぬぐうと、紅と紫の痕がべったりとこびりついた。

 Do what you really want.

 本当にしたいことをして。

 その言葉は、そのまま僕の胸にこだましていた。


「今日は『亡き王女のためのパヴァーヌ』じゃないんですね」

 先生のアップライトピアノで「主よ、人の望みの喜びよ」を弾き終えた僕に、背中から声がかかった。

「ちょっと煮詰まっちゃって。たまにはいいでしょ? 思い出の曲だし」

 僕は密かに賭けていた。もし、先生が僕を褒めてくれたなら。

「とてもよかったですよ。本当にコンクールには『亡き王女のためのパヴァーヌ』で出るんですか?」

「はい」

「私としちゃ、こっちのほうが好みなんだけどなあ」

「先生のイメージが強すぎて。思い入れがありすぎるとうまくいかないでしょ?」

 もうすぐ八月が逝く。僕は密かな決意を秘めて、先生の家を後にした。

 明日、僕は彼女に想いを告げようと思う。通りすがりの男に恋を打ち明けられたら、迷惑かもしれない。それでも、心にしまっておくのはもうやめだ。子どもっぽい憧れに過ぎないのかもしれない。時が必要以上に彼女を美化しているかもしれない。それでも。

 僕は慣れた電車でスタジオに向かった。夏至はとうに過ぎ、徐々に昼は短くなっている。工事現場も五時きっかりで終わることが多くなった。だから、七時を回った今、彼女に会うことはないと思ったのだが。

 例の工事現場に彼女はいた。彼女だけではない。いつかのコンビニにいた学生たちが感じの悪い笑みを浮かべて、彼女ににじり寄っている。

「だからさ、いくらでも払うつってんじゃん」

「これは取り引きなんだって。あんたは金をもらえる。俺たちは満足させてもらえる」

 彼女は毅然と首を横に振っている。

 彼らの言う取り引きがろくでもないものであることは、僕にはわかっている。あれからもコンビニでニキビ面を付き合わせて、後ろ暗そうな密談を交わしていたから。

 とうてい英雄気取りにはなれなかったけど、彼女をうす汚い欲望のはけ口にさせてたまるものか。僕は現場に急いだ。

「じゃ、しょうがないな。交渉は決裂だ」

「後悔しても知らないぜ。あのときいうこときいておけばよかったって」

 くそ、チンピラどもが。脅迫の文句まで安っぽい。

「待てよ!」

 僕の制止もたいがい陳腐なんだけれど。

「そのひと、いやがってるじゃないか!」

「なんだあ? 怪我したくなかったら引っこんでろ!」

 拳がひらめいた。僕はまともにそれを食らってしまって、たたらを踏む。

 もし転んでも顔から落ちろ。ピアニストの鉄則だ。商売ものの指を怪我しちゃ話にならない。だから、僕は殴られても殴り返せない。でくのぼうのようにやつらと彼女の間に立ちふさがるしかできない。

「口ほどにもないな。おらよ、サービスタイムだ。好きなだけ殴ってこいよ」

 一メートル八十はあろうかという男が、だらりと両手を下げた。

「けっ、つまんねーやつ!」

 どこまでも無抵抗な僕に業を煮やしたのか、膝蹴りが腹に入る。胃液が逆流しそうだ。でも、ここは動くもんか。

「こいつ、頭おかしいんじゃねえの?」

「いいじゃん、サンドバッグにも飽きてたしさ」

 いいぞ、おもちゃにするんなら僕にしろ。僕は派手にのたうちまわって見せる。やつらの蹴りは本格的で、足の甲がもろに内臓にぶつかってくる錯覚を受ける。巧妙に手だけをかばいながら、僕はしばらく蹴られつづけた。

 反吐を吐きつつも、僕は目で彼女に合図を送る。逃げてと。彼女はうなずいて、短距離選手のように走り出した。

「あっ、待て!」

 僕を蹴るのに夢中だった連中が、彼女を追おうとする。駄目だ。それだけは駄目だ!

 痛む全身を奮い立たせる。そして、僕はなんとか背の低い方の男の襟上をつかんだ。

「なんだ、こいつ!」

 男は振り返って、たやすく僕がつかんでいる手をほどいた。勢いで僕はまた地面に這いずる。途端だった。男の目が狡猾に光った。

「ふーん」

「感心してる場合か? 早く女を追っかけないと」

「いやさ、こいつ、男にしちゃきれいな手してると思ってさ」

「お前、手フェチか?」

「かも」

 悪寒が背筋を這いのぼる。やつと視線が合う。電光のように、僕には彼の思惑がわかってしまった。とっさにうつ伏せになって手をかばう。その次の瞬間に肩にものすごい衝撃が走った。

「やっぱ、こいつ、手が大事みたいだ」

 踵で僕の肩をぐりぐり踏みつける。

「指折っちまおうぜ。その方が面白そうだ」

「ったく、お前だけは敵に回したくないな」

 意外に地面にかじりついているのは難しいものだ。僕はさんざん蹴り回された挙げ句、仰向けにさせられた。もうなりふりかまっていられない。無抵抗を貫けば、どうせこの残忍な連中は僕の指を折るだろう。それくらいなら。

 僕は唾を垂らしながら、ようやく立ち上がった。てんでなってなかっただろうけど、両の拳を構える。余裕をぶちかましている背の高い男のほうに、渾身の力で右ストレートを放った。

「はいはい、反撃終了~」

 小馬鹿にした調子で大男は僕の拳を軽く受け止めた。そのまま、手のひらをものすごい力で握りしめる。

「そのまま折っちまいなよ」

「無理言うなよ。格闘家でも握りつぶせるのはリンゴくらいだ」

 おしゃべりはそのくらいにしておけよ。僕は無視されている左の拳で、したたか大男の頬を打った。

「この野郎!」

 予期せぬ反撃に、大男が逆上した。拳を決めた左手が捕まえられた。そのまま手首をぎりぎり締めあげる。僕の左手はあっけなく開いてしまった。背の低い方の男が、顔面蒼白の僕を蹴り飛ばした。みっともなく仰向けに転がされる。

 刹那。

 眉間に火花が走った。背の低い男の踵が、僕の左手の人差し指から薬指のあたりの付け根を踏みにじった。冗談のようにごきごきと音がして、指の感覚が痛覚だけになる。

 ああ。もうだめだ。

 指とともに僕の闘志も折れてしまった。

 僕はただ茫然と空を見上げていた。都会じゃ星も見えやしない。

「お巡りさん、こっちです!」

 そのとき、水のように澄んだ女性の声がした。

 どこかでサイレンの音が聞こえる。気のせいか、赤い光が幾度となく視界をよぎった。

 意識を手放す前に見たのは、金の滝のようなあのひとの髪のまぼろしだった。


 最初は温かい雨が降っているのだと思った。頬のあたりが濡れている。なんだかくすぐったい。だけど、心地いい。

 おっかなびっくりまぶたを上げる。途端にペンライトが至近距離で輝いて、思わず顔をしかめる。

 白衣の男が目の前にいる。

「君の名前は?」

 つまらないことをきくものだ。逆らうと面倒そうなので素直に答える。

「意識は戻ったみたいですよ」

 左手の感覚がない。しかし、右手に誰かの体温を感じた。

「よかった……」

 覚えのない声がする。いや、この声は意識を失う直前に聞いたあの声だ。

「腹部と胸部の打撲は思ったより軽いです。ただ、左手の人差し指と中指、薬指が複雑骨折しています」

「命に別状は?」

「しばらく安静にしていれば一週間ほどで退院できますよ」

 白衣の男のそばにいるのは白衣の天使と相場が決まっている。だけど、僕の右手を握りしめているこの感触は誰のものだ?

「大丈夫ですか?」

 ええ、と返して、僕は面食らった。

 僕の女神がいる。それも、耳に優しい日本語で僕に呼びかけているじゃないか。

 やっぱり夢だ。僕はもう一度目をつぶった。

「ごめんなさい、私のために……」

 幻聴にしちゃ、やけにはっきり聞こえるな。僕はおそるおそる再び目を開ける。

 晴天色の瞳。ほつれた金糸のような髪。なにより、日に焼けて光沢を帯びているむき出しの肩。錯覚じゃない。これは僕の女神だ。

「君は……」

「ステラ。ステラ・マーシィ」

「そう……君はステラっていうの……」

「無理して喋らないで。あいつらにずいぶんひどくやられたみたいだから」

 僕の女神ことステラは、忌々しそうにつぶやいた。少し目が潤んでいる。

「すいませんが」

 僕の手をいっしんに握っているステラの脇から、制服姿の警察官が現れた。

「後で簡単な事情聴取を行います」

 警官は意味深な微笑みを浮かべる。

「それまで、どうぞごゆっくり」

 そして、病室のかたすみで気をつけしている。ステラは青い目を警官に向けて、肩をすくめた。

「あれで気を利かせたつもりなのかしら」

「どうでもいいよ。怪我はない?」

「それはこっちの台詞。本当に無茶するんだから」

 まるで旧知の仲のように親しげに、僕の髪をなでる。

「どうして私なんかを助けてくれたの?」

 僕は盛大に口ごもった。

「大丈夫だったのに。これでも合気道やってるんだから」

「『生兵法は大けがのもと』ってことわざ、知らない?」

「どの口がそれを言うの?」

 やれやれ、僕の女神様は変な日本人より話が通じるな。僕はおどけて見せようとして、痛みでしかめっ面になった。

「ほら、もう! やせ我慢しない!」

「いつも君を見てた」

 今しかチャンスはない。下手すりゃストーカー扱いだ。でも、今言わなければ、機会は訪れない気がしていた。

「汗まみれになって、毎日働いてる姿がきれいだと思ってた」

 ステラは僕の安っぽい賛美を、黙って聞いていてくれた。

「私のこと何も知らないのに?」

「うん。ただの子どもっぽい憧れ」

「そう」

 しばらく沈黙。僕はステラの返事の熱量を確かめるかのように続ける。

「君は? 僕のことどう思ってるの?」

 今時、小学生でももっとましな尋ね方をするだろうな。

 僕の女神は真剣な面持ちでこのつたない告白を聞いていた。

「どうしてそこまで私に入れ込むの? 私の気持ちも知らないくせに」

「だって、そばを通るたびに笑ってくれたじゃない」

「あー。うーんとね、この国ではどうか知らないんだけど、私の国では知らない同士があいさつを交わすのなんて当たり前なの」

 ステラはまた肩をすくめた。

「誤解させたんなら謝るわ」

 やっぱりだ。僕の独り相撲だったってわけだ。ベッドに縛られてなきゃ、僕も肩をすくめたところだろう。

「でもね」

 ステラは真っ直ぐに僕の顔を覗きこむ。

「憧れのひとのために、体を張って守ろうって人間は世界中探してもそうはいない」

 まだ痛む額に、優しくくちびるが押しつけられる。

「ありがとう、私の騎士ナイトさん」

「これも社交辞令?」

「さあね」

 そのときの彼女の、どんなに美しかったことか。

 僕はちょっぴり自分の勇み足を誇らしく思っていた。


 左手はコンクールには間に合わなかった。「亡き王女のためのパヴァーヌ」も、「主よ、人の望みの喜びよ」も、僕は弾けないでピアニストとして最後の夏を見送った。

 左手は後遺症で満足に動かせない。僕は「先生」にすらなる道を断たれたのだ。

 そして季節は流れて、次の次の年の春。

 僕の元に一通の封書が届いた。その知らせを受け取ると、僕は取るものも取りあえず先生のところへ向かった。

 先生はいつものように、僕を出迎えてくれた。部屋の隅のピアノにはレースの覆いがかけられている。

「紅茶でも飲みますか?」

 きかれて、僕は手ぶらで来てしまったことに初めて気付いた。ばつが悪い。

「そんなにあわてて、どうしました?」

 そうだ。僕はこの知らせを伝えに来たのだ。ものも言えずに、僕は分厚い封筒を先生に差し出す。先生はそれを受け取ると、老眼鏡越しに黙って書類のいちいちにじっと目を走らせていた。

「タキシードが要るかもしれませんね」

「はい?」

「これくらいの賞になると、着ていくものもそれなりにきちんとしていないと」

 先生は丁寧に僕に書類を返すと、右手を差し出した。

「受賞、おめでとう」

 僕はしっかりとそれを握り返した。

「ありがとうございます」

「てっきり結婚の報告かと思ったんですがねえ」

「そうしたかったんですけど。ちょっと決まりが悪くて」

「まあ、子どもは授かり物ですから。きっとご両親も孫の顔を見れば許してくれますよ」

「こっちはもう諦めてるみたいです。問題は、向こうのご両親で」

「まあ、確かにどこの馬の骨とも知れない男に、大事な娘はやれないと思うでしょうね。私が彼女のご両親だとしても、いい顔はしないでしょう。でも」

 先生はそこで息を継いだ。封筒のエンブレムに目をやって続ける。

「これで君も立派な作曲家だ。胸を張って彼女のご両親に会いにいけますよ」

 そうなのだ。ピアノの道は閉ざされたが、僕は音楽にしがみついた。思いは音になり、僕のなかにあふれた。僕はそれをただ書きとめた。時には回り道や袋小路に迷い込むこともあったが、辛抱強く浮かびくる音たちをかき集め、解きほぐし、組み立てる。それは新たな創造のよろこびを僕にもたらした。

 その結晶がこの封筒の中にある。晴れがましいけれど、違った茨の道かもしれない。

 それでも、僕はそこを歩いていこう。

「この曲なんですが」

 先生がエンボス加工された僕の名前と曲名が書かれた物々しい紙を取り出した。

「『The Ode to Binary Star』……どういう意味ですか? 私は英語には暗くて」

「『連星のための頌歌』です」

「連星、ですか?」

「ステラはラテン語で星ですから」

「じゃあ、なぜ連星なんですか?」

 春風が優しく僕らをなでてゆく。はたはたとカーテンが揺れ、アップライトピアノの覆いもそれにならった。

「ステラと決めたんです。生まれる子どもの名前はすばるにしようって」

 すばる、またの名をプレアデス星団。僕は彼女に宿った小さな命に、その名を冠した。母のように、優しく強い子であれと。

 分厚い封筒の中に、僕が書いたピアノソナタの譜面がある。

 最初のページにはこうあるのだ。

「我が最愛の妻ステラと息子すばるに捧ぐ」

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連星 九曜 @nineloti

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