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グリフォンに乗るのも久しぶりだった。
グリフォンとワイバーンが待つ厩舎へ向かう途中、第一軍の小隊がいくつか訓練を行っていた。いつかのように半裸で木剣を振り回すことはないが、和気あいあいとしたその空気は相変わらずだ。
青薔薇さまー! と声をあげる何名かに、軽く手をあげて応える。こうでもしないと、返事をするまでのあいだにわらわらと寄ってきてしまうのだ。汗臭い男どもに囲まれるのは本意ではない。
真面目に訓練を行っているがどうやら自主訓練であるらしく、隊長職の顔は見えない。数年前はマルバドが死に物狂いでこなしていた事務仕事も、きちんと隊長職の面々に振り分けられているらしい。作り上げた土台の上で、仕組みがきちんとまわっている。
皇后時代には当たり前に存在していた仕組みを、アーデルハイト自身が一から作り上げることになるなど、想像もしていなかった。
あの蛮族どもが文化的な生活を送っているだけで、なぜか感慨深いような気持になるのは不思議だ。
「きたか」
「ええ、お待たせいたしました」
「さあ、飛ぼう、青薔薇」
グリフォンの顔の見分けなどつくはずもないが、クリセルダに抱えられて跨ったその個体は、あの日沿岸まで乗せてくれた彼女であるような気がした。もっとも身体の大きな雌だと記憶しているので、おそらく間違いではない。
クリセルダの「ハイヤ!」という力強い声を合図に、大きな翼を広げて舞い上がる。首を落とさぬようにしっかり固定しながら徐々に小さくなっていく首都を見下ろした。
首都の姿はそこまで大きな変わりはない。しかし、その先に見える景色は、アーデルハイトの想像していないものだった。
否。知識としては知っていた。その報告の内容もきちんと記憶している。
「血管みたいだと思わないか?」
「……ええ」
「お前が言ったのだ。国はひとつの大きな生き物だ、と。王は脳であり、臣下は手足。強い国になるために、まずは健康な体をつくるのだ、と」
どうだ、と声をかけられても、アーデルハイトにはなにも言えなかった。
それはたしかに血管のようだった。首都から伸びる何本もの道が村や町を繋ぎ、末端へ進むほどに細かく枝分かれしていく。その血管を歩き、走り、巡るのは、ハッセルバムの小さな小さな民たち。
たとえ道が切り開かれたとしても、ハッセルバムの持つ雄大な美しさはけして損なわれない。
「これが、お前の成したことだ、青薔薇」
それは違う。これはけして、アーデルハイトの功績ではない。
アーデルハイトはただ『道をつくれ』と言葉にしただけ。どことどこを繋ぐのか、どのように道をつくるのか。それを決めたのはアーデルハイトではない。五人の側近たちだ。木を倒し、地面を固め、道を作り上げていったのはトロールやドワーフ、そして国中から集まった労働者たちだ。
アーデルハイトは、なにもしていない。
「お前がいなければできなかった。やらなかった。これが、お前の成したことだ」
黙ったままのアーデルハイトを抱え、クリセルダはまた空を飛ぶ。
高度を落として飛ぶグリフォンを見上げ、道行く者どもが時折、手を振った。クァア! と大きく鳴いたグリフォンの声に歓声を上げ、そんな彼らを喜ばせるように、クリセルダが旋回してみせる。
魔王様。陛下。そんな声のなかに、アーデルハイトを呼ぶ声が混じっていた。
青薔薇様。アーデルハイト様、と。
民衆が王妃の名を呼び、気安く手を振る。平民を蔑む文化で育ったアーデルハイトにとって、それはいまだ慣れるものではなく、だからといって嫌悪も怒りもありはしない。ただただ、悪くない、と思うだけ。
「青薔薇、目を閉じろ! 十数えるぞ!」
言われたとおり、素直に目を閉じた。クリセルダの魔力によって、吹き付ける強風はない。しかし、羽をきる音で速度が上がったことはわかった。
「七、六、五」
耳元で囁かれるクリセルダの声がくすぐったくてほんの少し身をよじった。その身体をクリセルダの腕が抱き寄せる。
一気に上げられた速度が、クリセルダの声に合わせて緩やかになっていく。
「四、三、二」
いつからだろう。いつからアーデルハイトは、クリセルダの気安い触れ合いに慣れてしまったのだろう。
まるで当たり前のように、頷き、流し、受け止める。クリセルダの腕の中が心地よいと知った日から? それとも、もっと前から?
「いち。さぁ、目をあけろ」
「…………ここは」
「どうだ! 美しいだろう!」
空から見下ろす景色。それはまるで天上のように美しい庭園であった。
六角形の巨大な庭園には色とりどりの花が咲き誇り、まるで見てくれと言わんばかりに整然と並んでいる。隙間なく咲いた花々は、空の上からでも香りが伝わってきそうなほど。
踏み入れることをためらってしまいそうな、花の芸術。
ゆっくりと地上に近づき、そのたびに花々が強く香る。くらりとしてしまいそうなほど。色も、匂いも、それは美しさによる暴力のようだった。
クリセルダに促されるまま、花畑に降り立つ。花畑のなかには細い道が作られ、踏み入れた者が荒らすことのないように工夫されていた。
「まおうさま!」
「まおさまー!」
「まおさま、まおさま!」
いったいどこから湧き出たのか、小さな半虫種族がぶんぶんと音をたてながら集まってくる。小さな半虫種族というべきか、巨大な蜂と呼ぶべきか。
しかしそれらは、各々お洒落を楽しむように可愛らしい服を身にまとっていた。
「以前はぽつぽつと力ない花が咲く程度であったが、ここまで生まれ変わった。設計はドワーフどもの手を借りたが……初めて見たときは私も驚いた」
蜂の特徴を有する、ドナ・ピクシーの里だった。
「息災か。これが青薔薇だ。会いたがっていただろう?」
「あおばたさま! あおばたさまだ!」
まとわりつくように、じゃれつくように、無数のドナ・ピクシーがアーデルハイトを取り囲み、そのまわりをぶんぶん飛び回る。黄色と黒の嵐に閉じ込められたような錯覚を覚える。
「ほら、青薔薇が途方にくれている。少し離れろ」
「あおばたさま、わたし、ドナ・ピクシーのハリア。あおばたさま、ありがと、ございます!」
「わたくし、あなた方に感謝されるような覚えはござませんが……」
目の前、至近距離で飛ぶハリアがにこにこと笑う。近くで見るその顔は、まさに半人半虫で、今までにあったどの半虫種族よりも虫らしい顔をしていた。複眼になっているのか、目が合っているのかもわからない。ただ、ハリアがとにかく嬉しそうに笑っていることだけはアーデルハイトにも理解できた。
「あおばたさま、つち、かえる、くれた。きいた。はな、そだたないだった、ぜんぜん! いっぱい、しぬ、した。あおばたさま、たすける、くれた! ありがと、ございます!」
「農耕地改革の恩恵を真っ先に受けたのが、ドナ・ピクシーだった。これもお前の成したことだ、青薔薇」
「みつ、いっぱい! おなか、いっぱい! あかちゃん、いっぱい! ぜいきん、はらう、する! あおばたさま、ありがと、ございます!」
違う。違う。違うのだ。
これは違う。アーデルハイトの行いは感謝されるようなことではない。どれもこれも、国のためにやったこと。アーデルハイトの勝手な愛の証明に巻き込んだだけのこと。
部下を鼓舞したことも、差別層を励ましたこともある。けれどそれだって、アーデルハイト自身のための行いだ。
「わたくは、ただ命じただけ……なにもしておりません」
「お前は書類の判ひとつで多くの命を奪うが、命じた一言で多くの命も救う女だ。お前の言う『国のため』はひいてはすべて『民のため』となる」
お前が殺めてきた人数に判を押して殺した者を含めるのなら、ハッセルバムの民を救った命令とやらも含めべきだ。クリセルダはそう言って笑う。
疫病の蔓延した村を焼けと命じた。その村と取引のあった町村も焼けと命じた。それは正しくアーデルハイトが奪ってきた命だ。
ならばこれは。これもまた、アーデルハイトの成したこと。
その裏で戦争を起こすために画策し、多くの命を死地に送りながら、そうしてまた誰かを救ってきたというのか。
命を奪った罪は、同じだけの命を救っても清算されることはない。アーデルハイトの罪は許されるべきものではない。ないはずだ。
それなのに。どうして。なぜ。
マーティアスのためにセンドアラ公国の農民を殺した。
マーティアスのためにヴァリ王国の民を殺した。
メルダースのために自国の民を焼き払った。
侍女を殺した。
侍従を殺した。
文官を殺した。
貴族を殺した。
女を殺した。
男を殺した。
子どもを殺した。
前皇帝を殺した。
それはすべて国のため。マーティアスのため。アーデルハイトの、愛のため。
「泣くな。お前に泣かれるとどうしていいかわからん」
「泣いておりません」
「……はは! そうか」
なら、そういうことにしておこう。そう言って笑い、アーデルハイトの額を胸に押し付けた。
泣いてなどいない。アーデルハイトには、涙を流す器官など備わっていない。
クリセルダの、気のせいだ。
血に塗れたアーデルハイトの手で皇帝へとのし上がったマーティアスに感謝されたことがあっただろうか。否、ありはしなかった。彼の愛した女さえ殺そうとして、アーデルハイトは首を落とされたのだから。
メルダース国民に感謝されたことがあっただろうか。否、ありはしなかった。彼らはみな、首を落とされたアーデルハイトを見て喜び、歓声を上げたのだから。
アーデルハイトに涙を流す権利はない。ないはずだ。
「私は世界で一番良い妻を娶ったな」
「…………そのお言葉だけで、死んだ甲斐があったというものです」
「はは! そうだな。お前が死んでくれて良かったよ。おかげで私はお前を愛せる」
神聖力がなければ育たない青薔薇は、なぜかハッセルバムでは花開かない。ドナ・ピクシーたちの庭園に咲く青い花々は、名前も知らない可愛らしいものだった。
色とりどりの花が咲き乱れる広大な庭園で、アーデルハイトはただ黙って、クリセルダの金色を浴びていた。
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