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 アーデルハイトがアーデルハイト・ヘルミーナ・ラ・メルダースの名を奪われ、否、捨て去ってからすでに四年近く経った。


 四年の時を要して、国内の大変革も落ち着いてきた。今まで強制的に徴収されることのなかった税金の制定など不満もあっただろうが、変革が進むにつれ雇用も拡大し、目に見える良い変化のお陰で反発や暴動も起きずにいる。

 食糧事情はさらに改善され、最近では畜産への取り組みがある。アーデルハイトが言いだしたことではなく、ケイマンにいる間にイリシャとユアンが進めたことであるという。どうやらアーデルハイトの配下が人間領から持ち帰った情報がきっかけだそう。

 街道整備は恐ろしい速度で進み、すでに一部は沿岸部まで到達している。街や村を繋ぐ経過地点に宿場町ができ、ドワーフたちが開発したトロール車なるものが道を走っていた。見た目はヒト族の使用する馬車に近いが、その車を引くのはもちろんあの大きなトロールたちである。


 仕事を求めて首都に来た者たちが、首都の流行にあてられて服を着始めた。彼らがその流行を地元に持ち帰り、田舎でも服着る者たちが増え始めている。服を買う金がないからと自作の服をつくる者たちが現れ、それに伴って半虫製の質の良さが瞬く間に広まった。そこからさらに半虫種族の仕事が増え、手が足りなくなった彼らは他の魔族を雇うことを覚えた。差別意識がなくなったわけではないが、彼らが首都を歩いていても、暴行を受けることはもうない。

 血の気が多い種族は闘技賭博の選手として活躍し、そんな彼らにファンがつくことで新たなヒーローが生まれた。手先が器用な者が人気のある選手の姿絵を描き、それがあっという間に売れていく。


 それでも足りない。アーデルハイトにはできることがまだまだある。


 アーデルハイトが民衆の前で約束した、他国を混乱に陥れるという約束の期限まで残り三年。二年近くを他国の地で費やしたとはいえ、それらは思った以上に順調だった。

 ケイマンからハッセルバムに戻ってすぐ、アーデルハイトは第一軍と第四軍に収集をかけた。作戦の総責任者はアーデルハイトだが、指示を出すのはそれぞれの軍団長、マルバドとウルである。ちまちまと人間を痛めつけるような、獣人たちからは反感をくらいそうな作戦ではあったが、ハッセルバム軍が初めてヒト族領に仕掛ける大規模作戦とあってか士気は高い。


 直接軍と軍でぶつかるような戦争ではない。

 ハッセルバムの持つ強大な砦であり、最大の武器。霊峰と、その裾野に広がる広大な樹海。ここに眠る数多の魔物、魔獣たちをレッドラインへとけしかける。


 人工の大規模スタンピードを起こすのだ。


「ハーイジ! もう始まった?」

「シナリー、首が落ちるから離れて……」

「おー! やってるやってる!」


 毎度毎度、シナリーは猪のように突進してくる。その勢いに負けて首を落とした回数はもはや数えきれない。


 マルバドとウルの連携は問題ないだろう。アーデルハイトが聖ツムシュテク教皇国へと踏み出したときから、彼らはこの時を待っていたのだから。森に住処を構える種族も、一時的にではあるが首都へと避難している。


「シナリーは見えるのね」

「見えるよー。たぶんイリシャも見えるんじゃないかな」


 残念ながらイリシャとユアンは仕事に追われて観戦には参加できなかった。


 死霊魔族となっても人間のときと視力の変わらないアーデルハイトには、実際に樹海の中や霊峰がどうなっているかは見えない。しかし、樹海のざわめきは感じていた。

 バルコニーから眺める首都、その建造物の屋根にもちらほらと樹海の様子を伺っている民がいるくらいだ。


「失礼いたします。アーデルハイト様! ノア、ヒューイ、以下七十二名、ひとりとして欠けることなく帰還いたしました!」

「ふふ、おかえりなさい、ノア、ヒューイ」


「はいっ! ただいまかえりました!」


 ノア、ヒューイ。鹿獣人のリィンやロニーを含めた七十四名。ヴァリ王国とケイマンに派遣していた者たちが、欠けることなく戻ってきた。ケイマンで動いていた者たちは戦闘行為もあった。誰一人として怪我なく、命を落とすことなく戻ってこれたのは、ひとえに彼ら積んできた努力の賜物だろう。ディブスの指揮が良かったのもあるだろうが、贔屓目に見ても彼らは非常に優秀であった。

 ゴルダイム辺境伯領にいた約二十名も、一足先にハッセルバムへと帰国している。国外に出ているのは聖ツムシュテク教皇国に残った二十名と、各地で情報収集を続ける数名、そしてアーデルハイトの『影』のみ。


 落ちこぼれの蛮族でしかなかった彼らが、よくもまあたったの四年で成長したものだ。


「お、ノアくんとヒューイくんも観戦しよう! 君たちが頑張った二年間の総仕上げでしょ」


 ふたりは顔を見合わせて、随分と良い笑顔で頷いた。



 作戦開始から翌日、最初の魔獣がレッドラインの方面へと飛び出した。一匹、二匹、三匹と討伐されていくも、徐々にその数を増していく。通常のスタンピードであれば魔獣の大量発生に第一波、第二波と予兆があるが、残念ながら今回に限っては当てはまらない。樹海の端から押し出されるように魔獣たちが飛び出し、それらは徐々に樹海深くにいる凶悪な魔獣へと種類を変える。


 ゴルダイム辺境伯領レッドラインは、その名のとおり樹海から溢れる魔獣たちの防波堤。戦争がないときは傭兵が腕試しと日銭稼ぎのために集まってくる。

 しかし、突如として起こったスタンピードに対応できる傭兵は、レッドラインにはほとんど残っていない。ケイマンで傭兵を募集しているという情報を耳にして、多額の報酬欲しさに移動していった後のことだった。


 ゴルダイム辺境伯はスタンピードに対応するために一万の常備軍と四百の騎士団を動かし、その上で帝都を含む周辺領に応援を要請。普段とは様子の違うスタンピードを警戒して、皇帝マーティアスは帝都といくつかの領から三万の軍が差し向けた。


 なんと愚かなことを。


「アーデルハイト様、ツムシュテクからです」

「あら、早かったわね……教会中枢は腐りきっていたけれど、日和見主義というわけでもなかったのかしら」


 ノアから受け取った密書の内容は読まずともわかる。短く記されていたのは『聖ツムシュテク教皇国がメルダース帝国に向けて聖戦を宣言。理由は聖女隠蔽とその殺害による、神への冒涜』。

 各国へ密偵を放っているのは、なにもアーデルハイトに限った話ではない。皇后時代のアーデルハイトが多くの間諜を殺してきたように、それらは時として国の脳にまで侵入してくる。西大陸の国、その町村においてツムシュテクの教会が設置されていないところのほうが珍しいのだから、かの国にとってはハッセルバムを除くすべてに目と耳があると考えても良い。

 ヴァリ王国で戦争意識の高まった民衆を抑えられなくなっていることも、ケイマンがヴァリ王国へ独立戦争を仕掛けようとしていることも、メルダースが親皇帝派と反皇帝派で割れていることも、国上層部の動きまですべてが筒抜け。そして、『ハッセルバムのサイハテ商』の名がじわりじわりと西大陸に浸透していることも、気づいている。その名を知らしめようと動いているだろうことも。


 少し前。ヴァリ王国の姫が失踪し、死体となって王宮に帰ってきた。

 メルダース帝国の騎士と恋に落ちて駆け落ち。しかし、その騎士に裏切られ、無惨にも殺された。

 ヴァリ王族はメルダース帝国を責める文書を送り続けているが、マーティアスからの返答は無い状態だ。


 それもそのはず。ヴァリの姫と恋に落ちた騎士など、メルダース帝国には存在しないのだから。しかし、騎士ではなくとも、メルダース帝国出身であることに違いはない。

 アーデルハイトの『影』は短い時間で良い仕事をしてくれた。


 聖ツムシュテク教皇国が『聖戦』へと踏み出したのは、この事件とハッセルバム製スタンピードがきっかけであることは確実だろう。今どこかがメルダース帝国へ戦争を仕掛ければ、ヴァリ王国は必ず追従する。否、せざるを得ない。


 密書を燃やして、ノアへ笑顔を向ける。口角をあげて、楽しそうに。


「その顔、怖いからやめてください」

「あら、失礼ね。陛下からこの大陸でもっとも美しいとお墨付きを頂いた顔だというのに」

「美しいことは否定しませんが、怖いのも事実ですよ」


 いくら怖いと言われても、楽しいのだから仕方ない。楽しいときには笑ってみせねば。

 最初に動いたのはツムシュテク。音楽はもう流れ始めている。ワルツはもう止まらない。


「ノア、舞踏会が始まるわ!」

「いや、ほんと怖いですから」



 冬を迎える直前、聖ツムシュテク教皇国の聖戦宣言を待っていたかのようにヴァリ王国がメルダース帝国との条約を一方的に破棄した。そのうえで奪われた領土の奪還を名目に、およそ八万の軍を帝国へ差し向けた。


 メルダース帝国内の軍は聖ツムシュテク教皇国方面、ゴルダイム辺境伯領方面、ヴァリ王国方面へと三又にわかれる。しかし腐っても大国であるメルダース帝国は、わずかな時間にも関わらず兵をかき集めた。その数はツムシュテク方面へ十二万、ヴァリ方面へ十万と、まごうことなく大軍であった。


 八万の軍が国境線にたどり着いたとき、見計らっていたディブスが動いた。ケイマンをおさめていた現王と王妃をその手で殺し、同時にケイマンの独立宣言が行われる。ヴァリ王国はこれを認めず、ケイマンの独立戦争が始まった。


「ふふ、あは、あはは! どうです、陛下。お約束通り、各国を混乱に陥れて見せました。あとはのんびり、残りの仕掛けが動くまで待ちましょう」

「私の妻は本当に怖い女だなぁ」

「まだ。まだですよ、陛下。わたくしが、あなたの故郷の地をプレゼントいたします。これはまだまだ序盤です」


 一対一であれば、メルダース帝国は周辺国のどこと戦っても負けはしない。メルダース帝国を敗戦へと導くのは、メルダース帝国自身なのだ。


「あとふたつ」

「まだなにかするのか」

「いいえ。ひとつはすでに仕掛けてありますし、もうひとつは時期がくれば勝手に動いてくれるでしょう」


 執務机から立ち上がったクリセルダが、流れるようにアーデルハイトを抱き上げた。下手に抵抗すると首が落ちるため、大人しくその腕に抱かれておく。まるでクリセルダの行動がわかっていたかのように、補佐官のカンヘルとラニーユが執務室を去る後姿が見えた。


「なら青薔薇はもう暇になったということだな」

「書類が山積みですよ。国政に携わる者に暇などというものは存在しません」


「仕事ついでにデートしよう。視察も仕事のうちだろう? 青薔薇が求めていたものをつくった。それを見せたい」


 耳元に唇をよせて、小さな声で囁く。そこまで近づかずとも聞こえます、という文句はものの見事に無視された。


「お前が私に故郷をプレゼントしてくれるのなら、私は先んじてお前に贈り物をしよう」


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