30
ぐっと地面を蹴ったウルがそのしなやかな筋肉のバネを使って間合いを詰めてくる。独特な構えのせいで長剣の切先が見えず、間合いに入られた場合の剣筋が予測できない。
そもそもアーデルハイトは騎士でもなければ、剣を嗜んだこともない。戦いとは無縁のお嬢様、とはけして言えないが、こうしてまともに誰かと闘うのは初めての経験であった。
剣を持たないアーデルハイトの武器はこの身に秘めた膨大な魔力だけ。開始の合図からたえず垂れ流し、今も薄く薄く消えてしまわない程度に魔力を霧散させている。
闘うことを生業にしないアーデルハイトは、この有り余る魔力をそのまま殺生の道具へと変える方法を知らない。マルバドを的にした訓練は続けてきたが、知性のない獣相手ならまだしも、何十年も剣を振るい続けてきた彼らに適うはずもない。
それ故に、アーデルハイトは考える。否、考えた。
アーデルハイトは生前から、搦め手というものが得意だったのだ。全ての事象を利益へと繋げることも。
必ずしもこの試合に勝つ必要はない。けれど、この闘技賭博場の運営は必ず勝つ必要がある。うまく回れば多くの税収が見込めるのだから。
大事なのは勝敗ではない。観客が望む昂ぶりを。そして大いに声を上げられるだけの派手さを。
目前に迫ったウルからまるで突然現れたかのように刃が伸びてくる。太陽の光をぎらりと受けたそれに目を細めながら、ふわりと纏わせた魔力で切先をずらした。
予測していたように瞬時に切り返された刃を、今度は体ごとずらして避ける。
「ウラァッ! 逃げんなッ!」
なにを言うか。逃げねば死ぬと言うのに。
殺してはならない、という取り決めがあるにも関わらず、ウルの長剣は迷うことなくアーデルハイトの心臓を狙ってくる。ぎらついた目、ひしひしと感じる殺気。ウルは確実にアーデルハイトの命を狩らんとしていた。
切先を逸らしつつ距離を取ろうと試みるが、そうなれば自身が不利だと分かりきっているウルはけして間合いを崩さない。
たえず繰り出されるウルの刃をかろうじてやり過ごしているものの、アーデルハイトはその剣筋が見えているわけでも、ウルの動きを予測できているわけでもない。
場に充満したアーデルハイトの魔力は、ウルが動くたびにその体にまとわりつく。動きを妨害できるほどの質量はない。
これがアーデルハイトの目だ。
アーデルハイトの感覚と繋がる薄い魔力がウルの動きを教えてくれる。それに頼って、斬撃をギリギリでかわし、なんとか切先をずらす。
もともと狼族というのは魔力を操作することが得意な種族ではない。その身の魔力を身体操作に回し、己の肉体で狩りをする。魔力で足場を作る程度のことはしてみせるが、マルバドがするように、彼はアーデルハイトの魔力を自身の魔力で相殺することはできないのだ。
だから、けして間合いを離さない。
細くしならせた魔力でウルの足元を狙い、動きを阻害させるように何度も小さな爆発を起こす。爆発が起こるたびに、観客が声を上げた。
「ちょこ、まか、とォッ!」
「……気になっていたのですけれど」
「アァッ!?」
避けきれなかった刃が、軍服を模したワンピースのボタンを飛ばした。
ファラウ渾身の服だというのに。直してもらうときに泣かれたらどうしてくれよう。アーデルハイトは相変わらず、子守が得意ではない。
はらりと捲れた襟から、下着がのぞく。はしたない。
「あなた、いつからラニーユに懸想していて?」
「世間話とはッ! 余裕だなァ!?」
「余裕などありませんが、どうにも気になってしまいまして」
いくら膨大な魔力を持つアーデルハイトとはいえ限界はある。無尽蔵とも言えるクリセルダとは比べ物にならない。ハッセルバムの地から供給され続けていても、このまま広すぎる闘技場に垂れ流しにしていてはいつか尽きる。
どうにかして距離をあけねば、アーデルハイトはウルに一撃を喰らわせる暇もない。体力の面でも、アーデルハイトは圧倒的に劣る。このまま逃げ続けるだけでは魔力が切れるより先に、体力が尽きて終わるだろう。
魔力の鞭も、地面の爆発も、ウルはまるですべてを予測しているかのように避けていく。ほんの少し、掠ることもない。
「で、どうなのです。ラニーユのどこに惹かれたのかしら」
「うるっせぇんだよッ! 関係、ねぇだろうがッ!」
「わたくしはあの子の飼い主ですから。関係はあるかと」
魔力の質量を上げて長剣を受け止め、ぐっと押し返す。狼族の膂力によるそれは、ただ逸らすだけよりも重たく、魔力の効率も悪い。失敗した。ウルとアーデルハイトでは力比べなどできようはずもなかった。
真上から振り下ろされた刃が徐々に迫り来る。
「自分の部下を! ペット扱いすんじゃねぇッ、クソアマがッ!」
「……ッぐ、ぁ」
蹴られたのだと理解したのは、体勢が崩れて青い空が目に入ってからだった。
地面に転がるより早く、魔力の鞭で長剣を弾く。倒れ込むと同時に転がるようにして剣を避けた。
「無様だなぁ、オイ!」
立ち上がる隙など、もちろん与えてくれる筈がない。地べたを這いずるようにして、ウルの猛攻からただ逃げ続ける。
たしかに、土に塗れながら逃げるアーデルハイトは無様だろう。今の光景は、まるで一方的に嬲られているばかり。
会場の声援はひとつの巨大な声のように、ウル! ウル! と叫び続けている。
「無、様で、結構」
「早くッ! 降参しろッ!」
まだ。まだだ。無様でも、惨めでも、まだ終わっていない。
諦めが悪いとか、勝ちたいとか、そんなことではない。ただ事実として、まだ終わっていないだけ。だからアーデルハイトは、魔力を流し続ける。
いまのアーデルハイトはただ、観客を熱狂させるためだけに存在している。
どうせ負けたところで、失うものはないのだから。
「胸糞わりぃんだよ、テメェはッ! なんでッ! なんで、テメェが!」
まだ。もう少し。
「なんでテメェなんかがッ!」
顔面、真上から突きつけられたそれを、首を傾けることでやり過ごす。熱をもった鋭い痛みに、頬に傷がついたことを知る。
宙を舞ったのは、銀のような薄い金。プラチナブロンド、アーデルハイトの髪だった。
準備完了。
残り少なくなった魔力で、再度振り下ろされた切先を受け止める。視界の端に見えたクリセルダは、まだ試合を止めようはしない。
楽しいかしら、魔王さま。
「なぜわたくしが、陛下に選ばれたのか、でしょうか」
「……は、え?」
パチン、とひとつ。指を鳴らす。
バゴッ、という鈍い音とともにウルの背後の土が盛り上がる。金色の魔力を纏った巨大な土の手が、女を甚振る狼族をはがいじめにした。
「お間抜けさん」
「ぐッ、ア、なん、だよ、コレッ! はなせッ!」
「放すわけがないでしょう」
起き上がり様に、なにもない宙を掴んだ手に力を込めた。あの巨大な手は、この右手の分身。
ウルを掴んだ巨大な手が、じわじわとその身体を締め付ける。人差し指と親指が締めるのは、もちろん彼の首。
ご自慢の膂力で抜け出せるか、力比べといきましょう。
「わたくしのような胸糞の悪い女が、ただしてやられるだけだと思っていたのかしら……」
「ぐ、ぅぅ、ッ、ゥ!」
開始の合図と同時、アーデルハイトは空中に薄く魔力を散布し始めた。それが動体視力や戦闘能力に劣るアーデルハイトの第三の目だと、ウルもすぐに気づいたことだろう。
クリセルダほどの魔力量をもってすれば、その散布した魔力の濃度をあげさえすれば良かった。適度な間合いを保てたのなら、ほかにもやりようがあった。
しかし、そのどちらも無理な話であることは分かりきっていた。間合いを許してはいけないというのは、ウルだって知っている。初めから彼が近距離で絶え間なく斬りつけてくることなど承知の上。
散布した魔力の第一の目的はたしかに第三の目であるが、もっとも重要なのはそこではない。これは目眩しだ。
薄い魔力がウルの周囲に行き渡ったと同時に、アーデルハイトは地面の下に大量の魔力を流し始めた。もしこれが力の操作に長けたユアンが相手であれば、早い段階で気づかれていただろう。空を舞うイリシャにも、動きが早すぎるシナリーにも無効。アーデルハイトの的になっていたマルバドも容易に予測できたはず。
空中に行き渡らせた魔力は、地面に流し込まれた魔力の気配を曖昧にする。
魔力だけで巨大な手を作り出すこともできた。しかし、それをしてしまえば早々に魔力も尽きていた。
遠くの観客席にいるはずの、ユアンの声が聞こえた。
「あ、そうか。魔力の質量を土で補ったのか。なるほど、考えたな」
解説どうもありがとう、と心のなかで呟きながら、ウルの肉体をぎりぎりと締め上げる。単純だが、ウル相手には効果的な戦法だ。
地面の下で魔力と土を練り合わせた手を作り上げるあいだ、アーデルハイトはただウルの攻撃を避け続ければ良い。
想像以上に一手が早く、重たかったことは想定外であったが。そのかわり、アーデルハイトが地面に転がったことでウルは油断した。一対一の決闘だからといって、背後の警戒を怠るべきではない。
「ガ、ッ、ふ、ゥ」
締め上げられたことにより血流がとまり、顔の色が赤から青へと変化を遂げる。鈍い、骨が折れる音も聞こえた。いつの間にか歓声は消え、観客の誰一人として声を上げる者はいない。
ウルの口から、少量の血が吹き出す。ぼた、ぼた、と落ちたそれが巨大な手を汚した。ひくり、ひくりと手足が震え、その力が抜ける直前にクリセルダの声が闘技場内に響き渡る。
「そこまで! 勝者、アーデルハイト」
どっ、と会場が湧いた。割れんばかりの声、歓声。ウル! ウル! とひとつになっていた声は、今やアーデルハイトの名を叫ぶ。そのどこにも、罵声は見当たらない。
駆けつけたユアンがウルの治療を始めた。屈強な肉体をもつ狼族だ。この程度で後遺症が残ったりはしないだろう。
アーデルハイトの治癒に駆けつけたのは側近のノアだった。当たり前のように椅子を差し出し、歓声にかき消されるほど小さく、それでいて誇らしさを滲ませた声で言う。
「お疲れ様でした、アーデルハイト様」
やはり今日の青空はひどく気持ちが良い。
デュラハンは死に場所に帰りたがる。あの日のような快晴に心地よさを覚えるのはきっと、アーデルハイトの死んだ日がよく晴れた日だったから。
今日の青空は、気持ちが良い。
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