29


 耳をつんざくような歓声が頭上から降り注ぐ。

 


 ひとつの空席もない観客席には目もくれず、ただお互いの姿だけを視界におさめる。

 すべての集中を注ぐように、鋭い目もピンと立った耳も揺らぐことなくこちらを向いていた。アーデルハイトはいつもと変わりなく。


 ゴルダイム辺境伯領の騎士から奪ったと思われるいつもの長剣ではなく、地味でありながら見事な業物を手にしていた。体格、膂力、癖、視野。ひとつも余すことなくウルのために調整された、ウルのための長剣。


 岩窟人の拵えたものだろうか。良い仕事をするものだ。


 この円形闘技場も、首都から各地を繋ぐ街道も、王城も、そのすべてに岩窟人が関わっている。歴史を遡れば人間たちと良い関係を築いていた時代もあったというのに。

 もし生きているうちに岩窟人が生存している事実を知ったならば、アーデルハイトは間違いなくその足で保護しに行っただろう。彼らはそれだけ『国の役に立つ』存在なのだ。


 闘うための舞台。そこに天井などありはしない。魔族どもの歓声が空に抜けていく。


 ああ。否が応でも思い出す。

 あの日もこんなふうに澄んだ空をしていた。遮るものなどないままに、アーデルハイトはこの身で民の歓喜を受け止めた。

 あの歓声はアーデルハイトの死を喜ぶ声。アーデルハイトが生きた証。アーデルハイトの、愛の証明。


「人間さんよぉ……随分と余裕そうだなァ、オイ」


 そうだ。アーデルハイトは自ら望んで悪女となったのだ。


 マーティアスを皇帝にのし上げ、彼の治世を継続させていくために必要なことであったから。孤児院に出資しただけでは皇太子にはなれないから。貧民街で炊き出しをしただけでは反皇族派に足元を掬われるから。


 だからアーデルハイトが全部やった。アーデルハイト様万歳と叫ばせて、それらはすべてアーデルハイトの仕業なのだと知らしめた。


 ああ。思い出す。


「聞いてんのかよ、てめぇ……」


 こうして改めて聴くと、民衆の歓声は心地よいものだ。


 ウルの瞳に焦点を合わせ、アーデルハイトは口角を上げた。こういうときは優雅に微笑むのが正しい。

 ウルは気色悪そうに眉をしかめ、チッと舌打ちをした。白銀色の尻尾もまた、機嫌の悪さを隠しきれずに自身の太ももをタシタシと強く叩いている。


「わたくしが処刑された日を思い出しておりました。あの日も、民衆はこうして歓喜の声をあげていた……」

「ハァ? お前ぇ、見せ物にされてんじゃねぇか。元王女サマだろ」


「元皇后、ですよ。それも二百年続く歴史のなかでとびっきり嫌われた女」


 機嫌の悪そうな表情から一転、呆れたようにため息をつくと、手にしていた長剣の切先をアーデルハイトに向けた。よく研がれた刃が陽の光に反射して美しく、そして凶悪に煌めく。


 歓声にかき消されるほど小さな声で、お前ぇも哀れだよな、と呟いた。


 そのとおり。アーデルハイト・ヘルミーナ・ラ・メルダースは哀れで、滑稽で、あさましくて、そして極悪人としてメルダース帝国の歴史に名が継がれていく。


「やるぞ、人間」

「承知いたしました。あなたの剣をお受けいたしましょう」


「負けたら約束守れよ」


 ええ、あなたも。

 鋭い犬歯を剥き出して、ウルが不敵に笑った。


「両名、準備は良いか」


「はい、陛下」

「おう」


 高い位置から聞こえたクリセルダの声に、アーデルハイトは目を伏せて答える。ウルは姿勢も視線も動かさぬまま一言だけ返事をした。


「これより、ハッセルバム闘技場の完成を祝して我が側近ウル、そしてアーデルハイト両名による模範演技を行う」


 両者ともに殺害は禁止。試合中の死亡は『私闘禁止法』に基づいて刑を処す。

 これはあくまでも『試合』であって『殺し合い』ではない。


「お前ぇ、マジで。マジで! 約束守れよな」

「同じ台詞をお返しいたします。あなたの口から真実を聞くときを楽しみにしておりますわ」


 お互いの口がそれ以上の言葉を吐き出す前に、試合開始の合図が高い空に響き渡った。



 あの日、ウルに決闘を申し込まれ、そしてそれを受けてから、この面倒くさいイベントを何かに利用できないかと考えていた。なにやら大きな覚悟を決めて決闘を切り出したウルにしてみれば、決闘に利益を持ち込まれるなどたまった話ではないだろう。とはいえ、アーデルハイトにはそんな心情は知ったことではない。

 断ってしまっても良かった。ウルのアーデルハイトに対する鬱憤は全てウル個人によるものであり、アーデルハイトがわざわざ付き合ってやる義理などありはしない。

 そう思いながらも、アーデルハイトは結局、ウルの申し出を受け入れた。


 なぜ、ウルはカイ少年の独断専行を止めなかったのか。


 卑劣な行いを忌避し、真正面から打ちのめすことを好む誇り高き狼族。ウルはなかでもそのきらいが強い。そんなウルが何故、カイ少年のあの行動を許してしまったのか。


 そしてもうひとつ。ウルから向けられる、違和感の大きい敵意。


 彼は常々、アーデルハイトを"人間"と呼ぶ。アーデルハイトの提案に反発する際にも、「人間なんかの言葉が信用できるか」「魔王サマだって人間に恨みがあるだろう」とよく口にする。いかにも元人間であることへの反発に聞こえるが、アーデルハイトにはどうにも意識して口にしているように思えてならなかった。アーデルハイトに反発するのは元人間だからだ、とまるで周囲にも自身にも、思い込ませるような。


 ウルは口こそ悪いが、その根はひどく優しい男である。群れの長らしく、彼は強い者を好み、そして弱き者を庇護しようとする。ラニーユに対しても、とても優しい。否、甘いと言ったほうが正しいか。

 少しの刺激で消滅してしまいそうなほど弱いレイスだ。守って頂けるのは大変ありがたいことである。が、彼女はアーデルハイトと同じく元は人間なのだ。


 ウルがアーデルハイトを憎む、明確な理由が存在する。


 憎まれたところでどうということもない。殺したいなら殺せば良いとも思うが、彼はもうアーデルハイトを殺せまい。クリセルダのみならず、シナリーやイリシャ、ユアン、マルバド、彼らのなかにアーデルハイトという地位が確立している。本音と建前を使い分けることが不得手なウルには、もうアーデルハイトを殺せないだろう。

 カイ少年が暗殺に失敗したあの夜。あれがおそらく、ウルがアーデルハイトを殺せる最後の機会であったろうに。カイ少年ではなくウル自身がアーデルハイトの寝所を訪れていれば、結果は違うものになっていた。


 ウルという男は煩わしく、鬱陶しく、それでいてアーデルハイトの興味を引いてやまない。

 故に、アーデルハイトはウルの決闘を受け入れた。



 闘技賭博の構想はかねてより頭の中にあった。ただ、アーデルハイトがハッセルバムの臣下となった当初は、ハッセルバム自体に娯楽を娯楽としてのみ楽しめる余裕がなかったのである。

 ハッセルバム首都に住う国民における娯楽といえば、喧嘩と酒、そして魔物討伐の武勇伝であろう。その中でも喧嘩は、娯楽としての面のみでなく慢性的な飢えや潜在的な鬱憤によって多発していたように思える。

 慢性的な飢えが解消されつつあり、改革への兆しが見えてきた今こそ、民に娯楽を与える絶好の機会だった。

 改革が軌道に乗り民に余裕ができれば、自ずと新たな娯楽も生み出されることだろう。


 岩窟人によって円形闘技場が建築されている最中にも、アーデルハイトは闘技賭博の宣伝に努めた。同時に公布された私闘禁止法への反発を抑える役目も果たしてくれている。

 アーデルハイトにとって利の少ないウルとの決闘は、闘技場の完成披露という最高の場になってくれた。満員の客席と大歓声。上々であろう。


 この決闘における取り決めはみっつ。

 ひとつ、どのような結果になろうと、これ以降、双方の問題解決に暴力を使用しないこと。

 ひとつ、相手に後遺症の残る大きな怪我を負わせないこと。たとえ事故だとしてもどちらかが死亡した場合、私闘禁止法に基づいて刑に処されること。

 ひとつ、この決闘における敗者は、勝者の要望をただひとつのみ受け入れること。この要望は決闘前に互いに開示し、無理のない範囲とクリセルダが認めたものに限る。


 簡単に言えば、勝っても負けても文句なし、殺すな、負けたら相手の願いをひとつ聞け、である。

 最初の取り決めはアーデルハイトから、ふたつめの取り決めはクリセルダから、みっめの取り決めはウルから。



 負けたところで、アーデルハイトにはなにひとつ損はない。

 ただただ、よく晴れた空が気持ちの良い日だった。



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