閑話 龍と青薔薇


 それは早朝のことである。


 まだ夜も明けぬ前から、樹海が酷くざわめいていた。木々の間に潜む魔物や動物たちの怯える声がここまで聞こえて来るようだった。

 城の窓から見下ろせる首都、そのさらに向こう。高く聳える霊峰と、鬱蒼とした樹海。


「人族領、か? 忌々しい……」


「おう。やっぱり魔王サマもわかるよな」

「ウルか。ああ、金の力がなにか一点に集まっている」


 最初に異変を感じたのは霧散しかけた群青の力であった。霧散しかけているとは言えやたらと大きく、それが樹海の中で発生しているとなれば警戒せざるを得ない。

 そのまま消えてくれたら良かったのだが、徐々に金の力へと変換されているようだった。


 嫌な動きだ。


 群青の力を持つ存在が死霊へと変化する際、力は同じような動きを見せたはず。しかも、力が集まる場所は人族領の方面である。

 力を持つ人間が樹海で死んだか。それにしても力が大きすぎる。


「暴れる前に殺しに行くしかねぇか」


 人間から奪った剣を肩に担ぎながら、ウルが嫌そうに言った。

 銀狼族は金の力を持つ種族であるものの、その力のほとんどを肉体の強化にまわす。クリセルダのように物質とすることは苦手としている。

 もしも相手が本当に強力な死霊だと言うのなら、相手をするには少々分が悪かろう。


 死霊というのは非常に厄介な生き物だ。否、生き物と呼んでいいものかすら怪しいが。

 ハッセルバムでは死霊もまた魔族の一員として認めているが、だからといって数が多いわけでもない。現在のハッセルバムにも、クリセルダの知る死霊はひとりもいない。

 強い執念によってこの世に生を繋ぎ止めた彼らは、家族や友人の支えによって意識を保つこともしばしばだ。そんな彼らを魔物扱いして容易く殺してしまうのは、クリセルダにはあまりにも忍びなかった。

 しかし、死霊魔族の多くは意識を完全に安定させる前に、狂って死んでゆく。支えになる者もおらず、初めから意識のない、魔物に近い状態のモノとて珍しくはなかった。


 意識という楔を解き放った死霊は、持ちうる限りの力をもって暴れ回る。己の肉体が朽ち果てようとも、ただただ暴れ回る。


 力の根源を見抜いて一撃で屠ることができるならウルを向かわせても良い。元が人間ならばおそらく心臓が根源となっているはずだ。

 ウルであれば負けることはないだろう。だが、もしものことがあれば困る。


 部隊を率いるウルの能力は必要だ。オージのように足を患って引退でもされたら損失だろう。

 ハッセルバムにこれ以上、揚げ芋屋はいらん。


「いや、私が行こう」

「は!? マジで言ってんのか!?」

「ああ。力の動きがあまりにも不穏だ」


 一瞬、犬のように歯を剥き出したかと思うと、チッと舌打ちをした。


 ウルとの付き合いももう四十年になる。マルバドと共にハッセルバムを立ち上げた直後、当時群れの族長であったオージと共にやってきた。遠く東から、人間に囚われた族の者を助けてくれないか、と。

 出会った当初に比べれば、ウルもずいぶんと丸くなった。成人を迎えることさえできれば、図太く生き続ける獣人族ではあるが、五十年もたてば歳もとる。

 人間に攻め入れ、魔王だろう、とクリセルダに詰め寄った、あの若いウルが懐かしい。


 狼たちは群れで動く。他の肉食獣人と比べても同族同士の繋がりが強い。


 何十年、何百年かけてでも人間に復讐してやると憎しみの炎を燃やしていたクリセルダにとって、狼族の力は非常に魅力的であった。

 人間もまた群で戦う。個の力は弱くとも、群れをなした際の力は恐ろしく強大だ。

 いくら異形をかき集めたところで、クリセルダは群れを率いて戦う術を知らぬ。

 

 ハッセルバムへの従属と引き換えに、クリセルダは単身、囚われた銀狼族を解放した。


 森で生きるはずの狼族は遠い砂漠で毛皮にされるのをただ待っていた。助け出す際にオアシスにいた人間たちは皆殺しにしたと思うのだが、記憶は定かではない。

 あの頃は同じようなことばかりだった。ひとりでも多くの戦力をかき集めようと、人間に恨みの深そうな異形どもを片っ端から助けていたから。


 なんと慈悲深き王か。感謝してもし尽くせませぬ。そんな言葉を多く聞いた。


 どうでも良い。そんなことはどうだって良いのだ。手を貸すだけで忠誠を得られるのだから。戦力を得るためには必要なこと。

 感謝するならば私のために戦え。そう言えたらどれだけ良かったか。


 住みやすい土地は人間のものだ。残った土地は、溢れ出す力によって危険地帯と化した大陸の一画のみ。

 人間に軍をけしかけるまでもなく、生きるだけで精一杯な五十年の始まりだった。


 五十年という年月は、悠久を生きる龍にとっては長い時ではない。子どもの龍が成人になる程度の時間だ。

 けれど、短い時間でもない。


 人間の町村や小さな都市を潰すくらいならクリセルダひとりでもわけはない。日がのぼり、沈むまでのあいだに皆殺しにしてみせよう。

 けれど、人間の住む都市はひとつではない。潰しても潰しても湧き出し、いずれ彼らは決起するだろう。


 あの危険な龍を討伐せん、と。


 そうして人間どもは強大なひとつの生き物となってクリセルダに襲いかかるのだ。何万、何十万、何百万もの大群となって。


 結局、この五十年間で出来たことといえば、ちまちまと樹海の魔物を人族領へけしかける嫌がらせ程度のことしかなかった。それも、高潔なウルが側近となってからは行われていない。

 そうして手をこまねいているあいだに、クリセルダが復讐せんとしたノルベルトとやらは、クリセルダの知らぬ間に勝手に死んだ。

 情けないにも程があろう。


 誓ったのに。家族の仇をとると。その誓いを忘れぬために、翼の再生はしていないというのに。龍の掟すら破ったのに。

 少女だったクリセルダに、そのあどけない面影は残っていない。


 残ったのは、かき集めた魔族という有象無象だけ。復讐の道具として集めたそれらは、五十年をかけて、ただ庇護するべき存在にかたちを変えてしまった。



 苔で青く染まった倒木を吹き飛ばしながら、いまだじわじわと大きくなり続ける金の力の元へ向かう。

 もしもこれが死霊への変化と言うのなら、その存在はいったいどれほど群青の力を持っていたというのか。


 そういう人間は聖人やら聖女やらと呼ばれ、大事に匿われるはずではなかったか。

 いったい何をどうして樹海で死ぬようなことになる。


「厄介な落とし物だな……」


 その根源は人族領の目と鼻の先だ。魔族ですら脅威に感じるものがすぐそこに転がっているというのに、何故やつらはのうのうとしていられるのか。心底不思議でならない。


 ハッセルバムの魔族と違い、人間たちは樹海の奥には踏み入ってこない。そのためか、人族領に近づけば近づくほど歩きにくくなる。

 うねる木の根を踏み越えると、大きな黒い箱が見えた。


 その箱から溢れ出す力のせいで、辺りが薄らと金色に染まっている。


 なんだこれは。棺、か?


「は、はは!」


 すでに蓋のとられた箱を覗き込んで、クリセルダは思わず笑った。

 まるでこの世のものとは思えない。醜い樹海の景色にはあまりにも不釣り合いなものが眠っていた。


 たしかに死霊とは生という摂理に反したものである。この世のものではないというのもあながち間違えてはいないのかもしれない。


 それはあまりにも美しい女だった。


 くらりとするほど匂い立つ青い薔薇は死人の匂いを誤魔化すためか。それともこの死体の美しさを際立たせるためか。

 穏やかな顔で眠るように死霊になった者など、クリセルダは見たことがない。あれらはみな一様に醜い執念に囚われる。たとえ理性を残したとしても、心の中は恨みと生の執着に塗れているものだ。


 血の巡りを失った故に頬は真っ白で、唇も色を失くしている。そこに紅を差したのならどれほど艶やかに咲くことだろう。

 棺のそばに膝をつき、冷たい頬に触れた。すでに死霊へと変貌を遂げている。死後の硬直はない。


 生前はさぞ美しかったであろうプラチナブロンドの髪は首の位置で無造作に切られている。

 なんと無粋なことを……

 そこまで思って、ようやく首に一線走る傷が目に入った。切れ味鋭い刃で一撃に落とされたのだろう。何度も斬りつけたような痕はなく、傷口ですら彼女の美しさを守ろうとしているように見えた。


 そういえば、メルダースの人間たちには凶悪な死刑囚の遺体を樹海に遺棄する慣わしがあった。

 罪人など骨すら残さず魔物に喰われてしまえ、ということか。まったく大層なことを考えるものだ。罪人とそれを処した者たち。いったいどちらが醜いことやら。


 ならばこの女もまた死刑囚であったのか。


 死刑になった者を丁重に棺にいれるだろうか。それも大輪の青い薔薇を惜しげもなく敷き詰めて。

 無惨にも髪を切り捨て、首を一撃で落とし、遺体は丁寧に棺に仕舞い、そのくせ蓋を開けたまま樹海に捨て置く。随分と矛盾していると思うのだが。


「お前はどこぞの姫か? いったい何をやらかして首なんぞ斬られた」


 美女は答えない。溢れる魔力さえなければ、ただ眠るように死んでいるだけにしか見えなかっただろう。


 人間の姫。それも首を斬られて棄てられるような姫。


 この女が相応の立場にあったとしたら。上手く使えば、人族領に打撃を与えられるかもしれない。停滞したハッセルバムを変えるきっかけになるかもしれない。

 そうでなくとも、これだけの力を持つ死霊だ。理性を失ったのなら人族領に放り投げれば良い。討伐されるまでに多くの命を奪ってくれることだろう。


 頬を撫で、柔らかく閉じた瞼に触れる。


 その身に宿す群青の力が、お前の身体を死霊へと作り替えたのか。否。この世に残りたいという強い執着がなければ、その力は働かないはずだ。

 ならば、その穏やかな顔の裏に、お前も醜い憎悪を抱えるというのか。

 お前の執念はなんだ。殺された恨みか、復讐か。それとも、クリセルダには想像のつかない物語があったのか。


 青い薔薇のなかで、指先が何度か震える。ゆっくり、気が遠くなるほどゆっくりと瞼が持ち上がる様子を、クリセルダも黙って見ていた。


 敷き詰められた青い薔薇のように、鮮やかな青い瞳。まるで生きていることを確かめるように、視線がふらふらと彷徨った。ゆっくりと青い瞳に金の力が収束していく。このような美しい変化を、クリセルダは生まれてこの方見たことがなかった。

 鬱蒼とした木々を見上げ、瞬きをし、クリセルダを見る。


「こんなに美しい女がいるのか」


 これが死霊の目だなどと、いったい誰が信じよう。

 穏やかだった寝顔が嘘のように強い光を湛え、そこにはたしかに知性と理性が内在していた。


 そうだ。お前は生きている。


「死霊になってまでお前は生きたいか」


 女は答えない。


 理性なき化け物となって憎悪に身を焦がすか。それともその知性をもって新たな生を行くか。さあ、お前はどちらだ。


 女はまばたきをした。


「生きたいか?」


 女はまばたきをした。


 死霊のくせに。その身に宿す力で生の淵にしがみついたくせに。

 なぜ。なぜ、その目の中に諦めがある。お前は死霊だろう。首を斬り落とされたデュラハンであろう。


 なぜ。他の異形と同じように、クリセルダに縋らない。

 生きたいと言え。助けてくれと、守ってくれと、この龍に縋れ。


 女はまばたきをした。


「はは! そうか」


 恨みも渇望も捨てたデュラハンか。ならば拾って帰っても問題あるまいな!

 お前は生きたいのだ。だから、群青の力がお前の魂を繋ぎ止めた。


 そうだ。お前は生きたいのだ。


 女がまばたきをした。


 そうか。生きたいか。


「ならば、私の元へ来ると良い」


 そうだ。お前はこの龍に縋ったのだ。そうだろう?

 そうして是非とも、ハッセルバムの役にたってくれ。



 青い薔薇の女はアーデルハイトと名乗った。声を張り上げることはしないが、霊峰に積もる雪のように冷たく凛とした声は、まるで他者の心を縛り上げるような強さを持つ。

 戦うことを知らぬ華奢な体で、暗闇を切り裂くように、けれど淑やかに歩く。指先、否、爪の先まで神経を通したかのように、その振る舞いは乱れるところを知らない。

 口を開けば国のため、ハッセルバムのため、陛下のため。


 そのくせ、どうにか繋ぎ止めておかねば、勝手に命を諦めそうな脆さもある。

 しかし、けして縋る言葉は漏らさない。この女は、クリセルダが守ってやれるほど、か弱い女ではなかった。


 この五十年で、誰が言っただろう。この国のために生きる、と。この国のために人間の国を落とす、と。クリセルダのために、どんな敵であろうと殺してみせる、と。

 守ってくれ、ではない。守ってくれる、でもない。この女はけして、クリセルダに戦えと言わない。人間を殺せと言わない。


 可愛らしさなどカケラもないような女が、可愛く見えたのはいつからだろう。あれを繋ぎ止めるだけに、初対面で『婚姻』という提案をしたのは間違いだったと、そう思うまでに時間は掛からなかった。そのせいで今でも、クリセルダの求婚は冗談の域を抜けない。


 乱してみたいと思った。何があっても動じぬ表情に、ヒビを入れてみたくなった。

 叶いもしない復讐のために傍に置いた拾い物に、気づいた時には夢中だった。

 すべてを失くしてから五十余年。色恋に浮かれるほどの余裕もなければ、クリセルダの気を惹くような者もいなかった。アーデルハイトは生まれたての赤子のように愛情というものを知らぬ女であるが、クリセルダとてここまで痺れるように誰かを手元におきたいと欲するなど、初めてのことだった。


 目を閉じれば今でも、母の腕の中を、父の翼を思い出す。クリセルダを愛し、守った兄や姉を思い出す。死んだ彼らは望まないとわかっていても、その記憶を守るために、クリセルダは龍の掟を破った。けれど。


 なあ、青薔薇。本当はもう、復讐なんてどうでもいいんだよ。お前とこのまま、ハッセルバムを守っていけたらいい。今なら、龍が掟を定めてまで守りたかったものがわかる気がする。


 アーデルハイトを得るためならば、煮えたぎる復讐さえも諦めて良いと思える。あとはマルバドたちに任せ、国さえも飛び出して行ける。けれど、それが青い薔薇を手折ることになるのなら、五十年も尻込みしていた復讐すら成し遂げられる。


 矛盾と呼ぶのなら、そうするがいい。



「なぁ、青薔薇」


 青い薔薇の女は、書類を見つめたまま答えない。クリセルダを見ない。クリセルダに縋らない。

 もう一度呼びかけると、ようやく観念したかのように顔をあげた。


「結婚してくれ、青薔薇」


 この龍のものになってくれ。この手に奪わせるのではなく、どうかお前から飛び込んでくれ。


 龍の求愛は長い。何十年もの時をかけて口説き落とし、また何十年もの愛を育み、そして何百年という時のなかで子をなすのだ。クリセルダは、そうやって生まれた。そうやって愛された。

 アーデルハイトが笑う。クリセルダの愛しい薔薇が笑う。けれどまだ、大輪の花は咲かせない。


「またそんなご冗談を」


 龍の愛を甘く見てもらったら困る。

 お前は愛に生きたというが、たった数年ぽっちの狂った愛など、この龍が覆してみせよう。


 手を握らせてくれ。唇を預けてくれ。その身を委ねてくれ。どうか、お前の心を開け渡してくれ。


「私のキスを受け入れたくせに。賢いお前なら、これが冗談でないことくらいわかるだろう」

「……まだ、わからないと言ったら、陛下を困らせますか」


 ああ。可愛いな。可愛いのだ。お前は可愛いよ。


 青い薔薇はもう、この黒龍のものだ。この漆黒の龍のそばで咲くのだ。咲かせるのだ。クリセルダが、この手で。この腕の中で。


 人間どもが自分で捨てたのだ。宝石よりも美しい青い薔薇を。

 クリセルダの大事な大事な一輪。



『数多を殺し、国家反逆罪に問われた罪人、アーデルハイトでございます。どうぞお見知りおきを、ハッセルバム魔王陛下』


 なあ。誰か笑ってはくれまいか。


『国のためならば、百の国を落としましょう。国のためならば、万の民を焼き払いましょう。国のためならば、この身を呪怨の炎に晒しましょう。この国のためならば……あなた様をも、殺してご覧にいれましょう』


 めったなことでは動かぬ表情を変えてみたいと思ったことを。


『そのためにわたくしがいるのです、陛下』


 龍の庇護を求めるわけでもなく、龍の強さに惹かれるわけでもなく。ただそれしか知らぬとでも言うように、国のためと言い続ける。

 

 その女に少しばかり甘い言葉を吐かせてみたいと思ったことを。


『陛下に、この国の勝利を捧げます』


 クリセルダのためと口にするたび、強い優越感を覚えることを。


『痛かったでしょう』


 お前を愛さなかった男に憤怒しながら、甘く仄暗い愉悦が胸を満たすことを。


『陛下におねだりをひとつ』


 誰か笑ってくれ。

 復讐などどうだって良いと思わせるほどに。


 ただただ、私の青い薔薇が愛しいのだ。

 

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