28
酒を飲んでいるとは思えないような落ち着いた声色で、クリセルダは口を開く。
普段飲んでいる燃えるような蒸留酒に比べたら、彼女にとってこれは水のようなものか。
「ハッセルバムはハリボテでしかなかった。私は復讐のための戦力を集めたいだけで、王様ごっこをするつもりなど微塵もなかった。それが五十年という停滞の正体だ」
ハッセルバムはノルベルト二世に復讐するために建てられた国。
魔族がただお馬鹿だっただけでなく、そもそもの話、この国主がまともな運営をするつもりがなかったのだ。
そんな状態でありながら、よく五十年も保ったものだ。世代交代の激しい人間であればそうもいかなかっただろう。
「憎い。憎い。いつか私の軍を率いて人間どもを蹂躙してやる。そう思うだけ。まだ国が弱いから、まだ纏まっていないから、そう言い訳をして、結局私は足踏みをしていたに過ぎない」
たった四万の軍では、いくら個が強くとも勝てるはずなどない。クリセルダもそれをわかっていたのだろう。
まるでおままごとだ。まるで、幼稚な夢を語る若人だ。
この軍でやってやるのだ! と夢想するだけ。
「お前が来たことでハッセルバムはようやく国としての形を取り始めた。まだまだバカデカイだけの村でしかないがな」
アーデルハイトはクリセルダの言葉を待つ。
アーデルハイトもクリセルダも、いつも言葉の前置きが長いのだ。状況によっては結論から話すこともあろうが、それでもたいていは長々と前置きを垂れ流す。
人の上に立ち、言葉だけで相手の心を変えようとする者にありがちな特徴だ。
時には端的に。鼓舞する際には効果的な一言で相手の胸に刻み込む。
時には柔靱に。絆す際には心情を交えながら相手の情に訴える。
時には厳格に。時には迂遠に。時には苛烈に。時には横柄に。時には正直に。時には高潔に。時には卑劣に。
クリセルダはアーデルハイトの情に訴えかけんとする。アーデルハイトに情などないというのに。
「この国の決定権は私だけが持っている。民も、配下も、私の一声で動くだろう。閉じ籠もっている種族さえ、反発しながらも動くはずだ」
それはその通りだとアーデルハイトも思う。
街道整備を進める際、クリセルダは単身で各地に赴き、許可を得るどころか労働力まで引き連れて戻ってきた。
沿岸の町、魚人族長のメータールックも反対していたが、クリセルダが『頼み事』でなく命じていたならば、彼女は認めたはずだ。半虫の集落も同じこと。
あのときはクリセルダが自由にやらせてくれたに過ぎない。
ここまできて、ようやくアーデルハイトにも話が飲み込めた。これはいつもの話題だ。
「私の伴侶になれば、魔族たちもお前の指示を聞くだろう。私を通さずとも動けるはずだ。だから」
「結婚してくれ、青薔薇。でしょうか」
「ああ。王の伴侶……王妃か。王妃の権限はお前に必要なものだろう」
なんと。今度はこういう方向性で攻めてきた。
正直なところ、アーデルハイトは権限という面で見れば現状に不満はない。これ以上の権限があったところで無駄だと知っている。
魔族どもがクリセルダの言葉に従おうとするのは、それはクリセルダが慕われているからだ。若い世代が従うのは『魔王だから』という理由かもしれないが、寿命の長い者らはクリセルダに救われた過去を経験として記憶している。
ハッセルバムにおいて、血筋は一切の力を持たない。地位もまた同じこと。
皇后のアーデルハイトが帝都の食堂を訪れたら、店の者たちはみな一様に傅くことだろう。それはアーデルハイトが皇帝の妻だからである。
では、王妃となったアーデルハイトが首都の食堂を訪れたら。店の者たちはアーデルハイトを歓迎するだろうが、傅くことはない。ハッセルバムにおける地位とはその程度のものだ。
故に、たとえクリセルダの伴侶となったとしても、魔族たちが問答無用でアーデルハイトの指示に従うことはない。
人材の水準がアーデルハイトの希望に満たない現状、自ら動かざるを得ないことも変わりないのだ。
クリセルダがアーデルハイトの案を全てのんでくれる以上、今よりも大きな権限など必要なかった。
「権限はいりません。地位もいりません。名声もいりません」
「……そんなに私と結婚するのは嫌か?」
「そういうことでは、ない……つもりです」
はは! とクリセルダは軽く笑った。可愛い女だな、と付け足して。
もしもクリセルダがハッセルバムのために結婚をしろと命じたのなら、アーデルハイトは一も二もなく頷くことだろう。
けれど、クリセルダからの申し出はいつも『提案』止まりだ。
この求婚には受ける理由も断る理由も存在しない。家同士の繋がりや政治的戦略が絡まない以上、どう判断して良いものかずっとわからなかった。
一度死んだ身としてはマーティアスへ誓った貞操などすでにどうでも良い。殺したはずの女から貞操を誓われたところで、マーティアスも困る。
マーティアスに『もういらぬ』と言われた以上、皇后アーデルハイトの役割は終わった。アーデルハイトはすべての悪事を引き連れて死んだのだから。
「陛下は何故そうまでして、わたくしとの婚姻を望むのでしょう。この国に尽くすためには、必ずしも必要なものではないはず」
「私がお前を自分のものにしたいから」
「……はい?」
クリセルダは涼しげな顔をしてそう言った。
聞き取れなかったわけではないが、理解が及ばずに礼を欠いた返答をしてしまった。いかにクリセルダが礼儀を気にしない君主だとしても、あまりにも無礼だった。
「先程は権限を餌にしてみたのだが……正直、国などどうでも良い。私が、アーデルハイト・ヘルミーナ・ラ・メルダースを、アーデルハイト・ハッセルバムにしたいから」
本人が捨てた名なんぞ、よくもまあ覚えていたものだ。
人は何のために結婚するのか。貴族や皇族にとっては家を繋ぐためだ。平民であればなんと答えるだろうか。たとえば子孫を残すため。たとえば愛の証明。
クリセルダがアーデルハイトとの婚姻に求めるものはなんだろう。
「それは……ハッセルバムのために必要なものでしょうか」
クリセルダが眉根を寄せた。
無意識か、意識的か。重たい魔力の圧がかかる。呼吸を必要とする体であれば、息が詰まって倒れていたかもしれない。
怒らせたのかと思ったが、ため息をついたのち、その圧は簡単に霧散した。怒ったのではなく、困っている。なぜ。アーデルハイトの言葉が、国主を困らせたというのか。
「殺してくれと言ったはずのお前は何故、ハッセルバムに尽くしてくれる」
「生きろ、と。あなたがそう仰ったので」
それに尽きる。
何かのためにしか生きることを知らないアーデルハイトは、愛すべき対象がなければ生きられない。
「それがわたくしの愛なので」
アーデルハイトが再び目覚めた地。ハッセルバムは愛の対象としては最適であった。
「ならば、いま私が死ねと言えば、お前は死ぬのか」
「ええ。それが陛下のためとなるならば」
「お前はそうやって殺されたのか」
銀色の瞳の中に、金色の魔力が暗く、強く輝いた。
『アーデルハイト。もう良い、死ね』
そうだ。アーデルハイトはそうやって死んだ。マーティアスに死ねと言われたから、生きるために足掻くことを捨てた。
だって、マーティアスは『やり過ぎた』とそう言った。だから死ね、と言われたのなら、悪女として死ぬことが愛の正解だった。
「その愛は国ではなく、このクリセルダ・ハッセルバムに向けることはできないのか」
「現状では足りませんか?」
「違う。違うんだ、アーデルハイト」
珍しく、クリセルダがアーデルハイトの名を呼んだ。もどかしそうに顔を歪め、がしがしと後頭部を掻く。
「お前の『愛』とやらは否定しない。だから、そうだな……違う種類の愛をくれないか」
「申し訳ありませんが、ご教示願えませんか」
「死ぬほど尽くすのではなく、死ぬまで共に生きたいと思ってくれ」
咄嗟に言葉が出ず、しばし考え込んでしまった。
わからない。クリセルダの言葉を聞けば聞くほどわからなくなる。
クリセルダはアーデルハイトを自分のものにしたいと言う。その手段が結婚であり、それは彼女にとっての愛の証明ということか。
では、クリセルダはアーデルハイトを愛しているのか。
アーデルハイトはハッセルバムを愛している。メルダース帝国やマーティアスを愛したのと同じように、この国のために生きることがアーデルハイトの愛の証明だ。
では、アーデルハイトはクリセルダを愛しているのか。
死を経験する前のアーデルハイトであれば、この求婚を早い段階で受けていたのではないかと思う。
たとえこれ以上の権限は必要ないと言っても、権限はあって困るものではない。王妃という立場であれば、煩わしいウルの敵意も簡単に退けられたはずだ。
一年。否、もうじき二年になる。もっと簡単に、これまでの計画を動かせたはず。
それがわからぬアーデルハイトではない。
初めは冗談であったクリセルダの求婚が、いつの日か本気になっていることも悟っていた。
胸中で言い訳を重ねて、クリセルダの要求を拒み続けたのはなぜだ。
「……陛下」
「なんだ」
愛とは幸福を伴うもの。
メルダース帝国を愛せば、帝国は繁栄という形でアーデルハイトに愛を返してくれた。
アーデルハイトは幸福であった。戦で帝国が勝てば嬉しかった。領土が広がれば喜んだ。大陸西部でもっとも強い国であることが誇らしかった。
では。では、マーティアスは?
マーティアスは愛を返してくれただろうか。マーティアスが返してくれた愛とはなんだったのだろう。アーデルハイトはマーティアスを愛する過程のどこに愛を感じたのだろう。
マーティアスが即位したあの時。
ハッセルバムは必ず愛を返してくれる。では、クリセルダは。
アーデルハイトは。アーデルハイトは。
「こわ、い……の、でしょうか」
「私が、か?」
「いえ……わからないことが」
アーデルハイトは誰かに愛されたことなどないから。その形がわからない。
ラニーユのそれは愛だろうか。ノアやヒューイのそれは愛だろうか。シナリーやイリシャのそれは愛だろうか。
そうだ。マーティアスを愛したようにクリセルダを愛することが怖いのだ。だって、そうしたところで。
「わからないから」
国への愛に繁栄という証明を求めたように、クリセルダにも証明を求めるだろう。
すでにこうして胸中で結論を出してしまった今、求めないことはできない。そうすまいと思っても、無意識のうちに求めてしまう。
なのに、アーデルハイトはクリセルダに愛されているかがわからない。クリセルダの言動のどれが愛なのかがわからない。
クリセルダを愛したとしても、マーティアスのように愛を返してくれないのではないか。それが怖い。
クリセルダを愛したとして、もしこの人が愛を返してくれてもアーデルハイトには感じ取れないかもしれない。それが怖い。
馬鹿みたいだ。感情などいらぬと言いながら、まったく捨てきれていないではないか。
「ど、どうした、青薔薇」
ぎょっとしたような顔をして立ち上がり、当たり前のようにアーデルハイトの前に膝をついた。
一国の主たるものが一介の臣下に膝をつくなど……
こちらを見上げ、手を伸ばす。いつものように、髪をひと房とりあげた。
「見たことのない表情をしている」
「わたくし、どんな顔をしておりますか?」
「……そうだな、無表情だ」
目を細めて言う。ああ。今になって気づいてしまった。
陛下。あのときも。あのときも。あのときも。そして今このときも。本当に無表情を貫けていたのですか。
とろりと溢れるその魔力は、あなたの
「陛下は……わたくしに愛をくださいますか」
驚いたように、クリセルダは目を丸くした。
「私はずっとそう言っているつもりだったが!?」
「そうなのですか?」
「そうでもなければ、お前を背に乗せて飛ぶなどと言わん!」
私が悪いのか!? と小さく叫びながら、クリセルダが頭を抱えた。
ゆらり、ゆらりと揺れる金色に、どうしてか思わず手を伸ばす。けれど、質量の伴わないそれは指の隙間をするりと抜け出ていった。
顔を上げ、宙に伸ばしていた手を取られた。ぎゅっと握られたそこから、たしかにクリセルダの体温が流れ込んでくる。
瞳の奥を覗き込まれ、なぜか流れるように唇を重ねられた。誰かと接吻を交わすことなど初めてのことだ、と驚くより先に、動きを止めたはずの心臓がぎゅうと縮こまるような痛みを覚えた。
わからないのなら、私が教えてやる。そう囁いた吐息が、アーデルハイトの唇をなでる。
「私の愛などいくらでもくれてやる。だから、結婚してくれ。青薔薇」
この痛みは何ですか。それもまた、陛下の愛ですか。
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