26
アーデルハイトは毎晩のように酒を飲んでいた。
酒の快楽に溺れているわけでも、酒に逃げ場を求めているわけでもない。必要だから仕方なく飲んでいるに過ぎない。
「ラニーユ、それを」
「はい、主人さま」
ラニーユに手渡されたそれをグラスに移し、一口だけ舐める。どうにも美味しくない。
アーデルハイトは数ヶ月の間、酒の改良に勤しんでいた。
魔族の作る酒はどうにも強すぎていけない。もちろん、これらを好む人間も多くいるだろう。実際これはこれで良いとアーデルハイトも思っている。
特にヴァリ王国なんかでは非常に喜ばれる種の酒である。今のところこちらから手を出す予定はないが、センドアラ公国も似たようなものだ。安く出回れば、庶民たちはこぞって手を伸ばすはず。なんと言っても、強い酒は少量で酩酊を得られる。
しかし、聖ツムシュテク教国ではそうもいかない。
教皇が国主として治めるかの国は、それ故に宗教としての色が強く、酒の扱いも他国とは変わってくる。嗜好品という面だけでなく、祈りの品としても用いられるのだ。
ツムシュテクでは毎夜決まった時間に祈りの鐘が鳴る。国民たちは鐘が鳴る前に一杯の酒で体を清め、鐘が鳴り終わるまで祈り続けるのだ。
清めの酒は向こう側が見えないほど濁っていてはいけない。無色透明でもいけない。非常に面倒な制約がつきまとう。
メルダース帝国の国教もツムシュテク教であるが、数十年前に宗派が別れて以来、鐘を鳴らさなくなったそうだ。
アーデルハイトも何度か聖ツムシュテク教国を訪問したことがある。郷に入れば郷に従うべく、訪問した際はいつも祈りに参加していた。
体を清めるための酒は、思っている以上に量がある。平たい盃に並々と注ぎ、鐘が鳴り始めるまでに飲み干さねばならない。
ツムシュテクで酒をばら撒くためには、毎日の祈りに利用できるような酒が最適なのだ。
火がつきそうなほど強い酒を、毎日盃に並々と一杯。できるはずもなかろう。
たとえ安価だとしても、祈りには利用できない。
強すぎず、透き通っていて、安価で流通できる酒。
試しにいくつか作らせてみたのだが、どうにも美味しくない。どれも酒の刺激臭ばかりが強くて風味にかけるのだ。
中でもまだ飲めそうだった芋原料の酒にいろいろと工夫をしてみたものの、ツムシュテク人が好みそうな『清らかな酒』には程遠い。
結局、いくつかの醸造酒をつくらせ、手を加えることにした。
「主人さま、これを」
「……セレイナ、だったかしら。どうしたの?」
「ウル様から頂きました」
ラニーユが差し出したのは樹海の中でのみ育つ花だ。それも霊峰の麓にのみ生息する。
帝国で育てられていた青薔薇と似たような性質を持ち、花を咲かせる過程で神聖力や魔力を吸収する。神聖力が多ければ青色の、魔力が多ければ黄色の花が咲く。
ラニーユの手の中には小ぶりな青色と黄色がバランスよく配置された、慎ましやかで可愛らしい花束があった。
「主人さまがご不在の際にカイさんのお世話を任されたことがありまして、そのお礼とのことでした」
「そう。それはあなたが頂いたのですから、あなたの部屋にでも飾りなさいな」
「ラニーユが頂いたのなら、ラニーユがどのように扱おうとラニーユの自由です。主人さまのなさっているお酒の実験に利用できないでしょうか」
ラニーユがそう言うのであれば、有り難くそうさせてもらおう。
帝国の青薔薇は人を惑わすような鮮やかで妖艶な香りをたずさえていた。しかし、セレイナはその逆で、慎ましやかな見た目通り香りもほとんど感じられない。
鼻のきくウルらしい贈り物と言えよう。
アーデルハイトは酒に香りや風味を足したいのだ。セレイナをどう利用すれば良いのだろう。いっそのこと花を発酵させて酒を作れないだろうか。
ソナ酒も多肉植物が原料だったはず。できないこともないのでは。
「漬けてみたらいかがでしょう」
「……やってみましょうか。瓶を持ってきてちょうだい」
「はい、主人さま!」
アーデルハイトの試作した酒を求めて、クリセルダや側近たちが入れ替わり立ち替わりアーデルハイトの自室に訪れる。毎日賑やかなものだ。
ただ酒を飲んで騒ぐだけであれば追い出したものを、真っ当に酒の品評をしてくれるので無下にもできないでいる。
もちろん酒の試作を行っているのはアーデルハイトひとりではない。配下の者含め、相応の機関を設けた。
けれど、魔族たちは酒が絡むと途端に駄目になる。気づけばすぐに宴会と化す。
魔族が不真面目とは言わない。職務にまっすぐな者も存在している。しかし、彼らは快楽に逃げやすいのだ。
今のところ一番結果が良かったのは果実を漬けたものだ。風味の欠ける酒も果実の甘さや酸味で途端に華やかな美味しい酒となる。
だが、農耕地改革が進められているとは言え、ハッセルバムは相変わらず農耕に不向きな土地である。
そもそもの話、果実というのは人族領にあっても高級品である。自生しているものは美味しくなく、手を加え改良したものでも栽培は難しい。メルダースの葡萄だって酒用に栽培されるものばかりで、食用は富裕層しか手を出せない。
果実を利用しようとすれば、安価でばら撒きたいアーデルハイトの思惑から外れてしまう。
果実の代わりにならないかと様々な食品をラニーユに運ばせたが、どれも結果はいまひとつ納得のいかないものだった。
緑の野菜を使ったものなど青臭くて飲めたものではなく、大概のものを口に入れるクリセルダすら不平を漏らしていたくらいだ。
アーデルハイトは侯爵令嬢として生まれ、僅か十四のときには皇族に名を連ねた。国の最高位から生まれた男と婚姻を結び、そののちに彼は国の最高位へと成り代わった。
いくら自ら動く性格だったとしても、美味なるものを探求する立場にはない。旨い料理を、旨い菓子を、旨い茶を、金を出して求める立場だ。
皇后ならば下々に指示を出すだけで良かった。執務室で過程の報告を聞きながら、結果だけを抽出する。
けれど今の立場ではそうもいかない。下に任せっぱなしでは、いつ結果が上がるとも知れない。
肥料の研究とは違うのだ。酒が絡めば魔族は簡単に陥落する。
とは言え、急ぐこともない。
欲を言えばそろそろまともな結果のひとつも欲しいところだが、現状すぐに動けるわけではない。
船が完成するまでに量産体制に入れたら良いのだ。
自室の扉が叩かれ、ラニーユが確認のために小さく隙間を開けた。
「主人さま、ヒューイさんです」
「入って」
ラニーユが開けた扉から小柄な獣人、イタチのヒューイが入ってきた。
以前ゴルダイム辺境伯領へノアを連れて行ったときと同じような格好をしている。
東方のターバンで小さな耳を隠し、いかにも異邦の商人といった出立ちだ。イタチ獣人は耳が小さく、顔面にも獣人らしい特徴はない。強靭な爪と鋭い歯を除けば、小柄な男性にしか見えない。
「ただいま戻りました、青薔薇様!」
「早かったわね」
「はっ! いくつか急ぎで報告したほうが良いかと思いまして、失礼ながら夜半にお訪ねした次第にございます」
ヒューイを含め、アーデルハイト直属の配下どもは、みな粗雑な口調も矯正されている。アーデルハイトとラニーユの指導のおかげで、立ち振る舞いすら魔族とは思えない。
このために集めたのだ。このために、あの落ちこぼれたちを選んだのだ。
イタチ獣人はほとんどが魔力を持たず、外見に獣人の特徴が少ない。
森人は神聖力を持ち、他の魔族と比べると異形とすら呼べぬ。
鹿獣人の女性はツノがなく、こちらもまた魔力をほとんど持たない。
岩窟人の女性は強い魔力を持つものの、身体的特徴は人より少しばかり小柄なだけ。
彼らが魔族である特徴など、少しの布さえあれば隠してしまえるのだ。
イタチどもはハッセルバムの商隊『サイハテ』として、ゴルダイム辺境伯領に赴いている。商隊とは名ばかりで、ほとんど商売などしていないが。サイハテとは古語でそのままハッセルバムを意味する。意味が分かったところで、魔族の国名がハッセルバムであると知る人間などいない。
彼らは細々と人族領の情報を集めている。一年や二年そこらで、情勢というのは大きく動いてしまうもの。アーデルハイトが本格的に動き始める前に、些細なことでも情報は必要だった。
それに、アーデルハイトが動くときは彼らもまた動かねばならない。ゴルダイムでの情報収集は、ある意味で練習を兼ねた試験運用だ。
なによりもゴルダイム辺境伯領というのは潜入するのに非常に便利なのだ。アーデルハイトが皇后だった時代からそれは懸念していた。
レッドラインという砦を守るため、ゴルダイムでは傭兵の受け入れを積極的に行っている。周辺諸国のみならず、東方からも人が流入してくる。
傭兵の流入は魔物の脅威からレッドラインを守る代わりに、他国の間者すら簡単に通してしまう。レッドラインに潜入し暫く生活するだけで、メルダース帝国各地への足掛かりにできてしまうのだ。
しかしそれ故に、レッドラインには情報が集まりやすい。噂話程度のもので精度に問題はあれど、火のないところに噂は立たないもの。
「マーティアス様は頑張っていらっしゃるようね……」
「あの、それなのですが……青薔薇様、『帝国の女悪魔アーデルハイト』とは、まさか青薔薇様の……」
「ええ。わたくしのことよ」
机の木目を見つめてグルと唸ったヒューイが軽く牙を剥いた。一見すると小柄な人間男性にしか見えないけれど、こうして見るといかにも凶悪な獣人である。
「青薔薇様は若い女の生き血を啜ったりなんかしません! 美麗な男を寝室に誘って拷問したりしません! 華やかな功績に嫉妬して歌劇役者の首を晒したりしません! 戦に関係のない農民を虐殺したりしません!」
試作の美味しくない酒を舐めて、アーデルハイトは小さなため息を漏らした。
アーデルハイトの悪行は、距離の離れたゴルダイムにまで届き、歌にすらなっていた。アーデルハイトが打首となってからすでに一年以上もの時が過ぎたと言うのに、いまだ吟遊詩人に歌われているとは。
光栄なことだ。
「したわよ。さすがに若い娘の生き血を啜ったりなどしていないけれど……若い男に限らず女も、拷問して殺したわ。他国の農民だけでなく、自国の村も焼いたわ」
「……歌劇役者は……」
「殺していましたね、主人さまのお名前で。それはそれは盛大に広場に首をお晒しになりました」
ラニーユがにっこりと笑ってそう言った。
不思議な子だ。アーデルハイトについた侍女たちは、大半がアーデルハイトを怖がるか、野望に満ちた者しかいなかった。
役者の首を晒したと言う事実を笑って話し、それでいてアーデルハイトに追従せんとする。
アーデルハイトと同じ。この子もまた、心のどこかが壊れているのかもしれない。
「な、なにか理由があったはずです。なんの訳もなく、青薔薇様がそのようなことをするはずが……」
「理由、ねぇ?」
「ロンド歌劇団については富裕層では賛否両論ございました。ただ煌びやかな歌劇に魅せられただけの愚物もおりましたが、『ロンド歌劇場の貴賓席に案内された者は洗脳される』という噂も有名だったのです。故に反皇族、革命派と繋がりのあった富豪商人たちの多くは、あの事件以降手を引くこととなりました」
タイミングも含め、見事な手腕でございました。そう締めくくったラニーユが、酒のお代わりを注いだ。試作のこれは美味しくないので、茶でも良いのだが。
「ねえ、ヒューイ。何か理由があったはず、とあなたは言うけれど、理由があったら罪もない赤子を殺しても良いのかしら」
「それは……良く、ないかと」
「そうよね。ええ、その通りだわ。たとえどんな理由があったとしても、わたくしは悪いことをしたのよ」
アーデルハイトはたしかに多くの者を殺めた。万の命を取って、千の命を焼いた。マーティアスの皇位のため、他国の民を殺した。メルダース帝国のため、若い命を散らした。
それは国のためであり、マーティアスのためであった。アーデルハイトの愛は罪に満ちていた。
どれだけの人間が愛する者のために殺人鬼となれるだろう。どれだけの人間が目的のために悪魔となれるだろう。
「わたくしはそれができる人間であり、事実そうしてきた。それはこれからも変わらないのよ。幻滅したかしら、ヒューイ」
彼は唇を噛み締め、何度か首を横に振った。
「オレは青薔薇様を信じます。目的のためならどこまでも残酷な存在になれると言うのなら、あなたに忠誠を誓ったオレもまた、そうあるべきだと思います」
「わたくしはあなたに、罪のない農民を焼けと命じるわよ」
ヒューイは若い。ハッセルバムが建国してから生まれた、人間への憎しみを知らぬ世代だ。首都で育ったヒューイたちは、人間の里から食糧を掠奪したことすらない。
彼はただただ真っ直ぐなだけの青年だ。
「やります。それがオレたち魔族を救う行いだと青薔薇様が仰るなら、オレは、オレたち六十八名はそれを信じて人間を殺します」
「ただ快楽のためにそうしているだけかもしれないわよ?」
今度は力強く首を横に振った。
魔族は馬鹿で、快楽に弱くて、それでいてどこまでも真っ直ぐで、ああ。本当に嫌になる。
「しません。青薔薇様はそんな無意味なことはしない! 青薔薇様はオレたちに居場所を作ってくださった。青薔薇様は飢える魔族を救ってくださった。青薔薇様はドワーフや半虫種族の誇りを取り戻してくださった」
アーデルハイトはまだ何も成していない。農耕地改革や街道整備など、本来はアーデルハイトが居らずとも完成していて良かったはずだ。イタチどももただそこにいてちょうど良かっただけ。
これっぽちのことで持ち上げられたところで、喜ぶに喜べぬ。
それに、とヒューイは言葉を続ける。
「たしかにメルダースやセンドアラ公国のクソどもは青薔薇様を悪し様に罵っていやがりましたが、ツムシュテクの商人は違いました」
おや、と思う。
先ほどヒューイから聞いた政情や物価など情報も大事であったが、そのヒューイの受けた印象はなかなか面白いのではないか。
「ツムシュテクでは、本来はアーデルハイトという侯爵令嬢は聖女たる人物だった、と言われているようです。メルダース内で言われている悪女とは別に、聖女がいるはずだと」
「ふふ。そう。なるほど、ねぇ」
それは、それは。なんとまあ。
アーデルハイトはたしかに聖女候補であった。生まれてすぐの神聖力診断で、その日のうちに聖帝教会から引き取りの申し出があったほど。
家から聖女を輩出したとあれば、ノイラート侯爵家も地位を引き上げる。さらに教会が後ろ盾となるのだ。
けれど、アーデルハイトの父は欲深かった。教会の後ろ盾では満足できなかったのだ。
メルダース帝国は三十年ほど前から政教の分離を目指しており、当時すでに帝国内でのツムシュテク教の権威は落ち込んで久しかった。
故に、父は地位の低い教会ではなく、地位の低い第三皇妃を選んだ。
のちに聖ツムシュテク教国の本教会の者もやってきたが、時すでに遅し。アーデルハイトとマーティアスの婚約式は終わり、それは周知のものとなっていた。
私生児に近い扱いだったマーティアスは本来、七歳の洗礼を終えるまで存在を発表する予定はなかった。けれど、彼を皇位に上げたい第三皇妃と父によって、皇子誕生の発表とともに婚約式が挙げられることとなった。
それはマーティアスもアーデルハイトも、まだ言葉も発せぬ赤子の頃の話である。
アーデルハイトはツムシュテクには戦争を仕掛けていない。帝国内で教会の威信が落ちていると言えど、ツムシュテク教の力は無下に扱えるものではなかった。宗教は民の拠り所だ。
聖ツムシュテク教国の海軍を牽制するためにホロホロ族と組んでいたことは、メルダース帝国民すら知らない。高位貴族であれば、アーデルハイトがホロホロ族と交友を持つことは有名であったが、まさか私掠御免状が渡されているなどほとんどの者が知り得ぬことだった。
聖ツムシュテク教国にとってアーデルハイトは、自国の高級布を仕入れてくれる良い客でしかない。
さらに言えば、たとえ悪い噂が蔓延していようとも、強大な神聖力を持つアーデルハイトは聖ツムシュテク教国においては尊重されるべき存在ですらあったのだ。
「お手柄だわ、ヒューイ」
「はっ! えっと、なにか有益な情報でしたでしょうか……」
「わたくしの悪行は吟遊詩人にまで歌われているのよ。まさか聖女アーデルハイトがツムシュテクで生きているとは、ね」
アーデルハイトの死はもちろん各国にも知らされたことだろう。それも皇妃と第一皇子を手にかけようとした国家反逆罪だ。
メルダース帝国万歳、アーデルハイト様万歳と叫びながら農村を焼かれたセンドアラ公国でも、それは大いに吉報だったはず。
悪評というものは、広まれば広まるほどさらに醜く姿を変える。故に、聖ツムシュテク教皇国でもアーデルハイトの評判は悪くて当然と思っていた。
「動きやすくて助かるわね、ヒューイ」
よくわからないと言った顔をして、ヒューイは頷いた。
目的のためならばどこまでも残酷な存在になれるというのなら、忠誠を誓った自分たちもそうあるべき。ヒューイはそう言った。
けれど、センドアラでの戦と同じようなことをさせたら、その行いは間違いなく彼らの心を殺すだろう。アーデルハイトの名の下に行い、すべての責をアーデルハイトが負うと言っても。
魔族は数が少ない。寿命が長いがために、人間とは比べ物にならぬほど出生率が低い。ぽこぽこと生まれては数を増やす、代わりのきく人間と同じように考えてはいけない。教育を施すにも時間が掛かるのだから。
同じ戦法はとれない、か。
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