19
クリセルダと沿岸の町を見て歩く。生臭いような、なんとも言えない磯の香り。
海に潜る彼らはその身に布を纏うことを厭う。せめて人魚の女性くらいは胸当てをしてくれないだろうか。
山と海に隔離されたこの町では金銭の取引は行われていない。人間の船から強奪された金はため込んでいるようだが、一貨幣にどれだけの価値があり、自分たちに必要な取引にどれだけの金額を割り振れば良いのか。それを知らないのだ。そもそも、読み書きができない者がほとんどで、もちろん碌な計算もできない。綺麗に作られた町の光景とはちぐはぐに思えてしまう。
今でも充分賑やかなこの町も、道が繋がればさらに喧騒を増していく。人の流れが国を発展させる。
いずれこの町はハッセルバムの要所となるのだ。
「はは! ははは! メーターの顔をみたか? 凶悪な面をしているくせにぶるぶる震えていたな」
「あんなに喜んで頂けるとは、こちらも嬉しい限りですね」
「あはははははは! 青薔薇といると飽きなくて良い」
くっくっと抑えきれなかった笑いでクリセルダの喉が鳴る。視界の端がクリセルダの魔力できらきらと光りっぱなしだ。溢れては弾け、また溢れて弾ける。
クリセルダが意識せずに漏れ出るそれに質量はなく、触れてみたくとも叶わない。
「陛下のそれは種族的なものでしょうか」
「ん? どれだ?」
「魔力が溢れ、とろりと流れたり、きらきらと舞ったりするそれのことです」
これか、と呟きながらぱっぱっと手で払う。本人は慣れ親しんだものなのか、然程気にしてはいないようだが。
クリセルダの周囲には常に魔力が漏れ出ている。耐性のない者にとっては恐ろしい重圧だろう。この国では強者とされる側近ですら、過度に浴びれば不調をきたす。
「翼をもがれて以来、制御が効かなくてな。抑えても勝手に漏れるし、漏れ出たところで特に不都合もないから放置している」
なるほど。後遺症であった。
アーデルハイトの暗殺をしくじったことで膀胱を傷つけられ、一度心臓の止まったカイ少年。彼も未だ消えぬ後遺症に苦しんでいる。下半身は動かず、表情を作ることもままならない。手先は震え、言葉すら曖昧な始末。
とはいえ、不都合がないのはクリセルダ本人のみで、周囲の者たちには充分影響を与えている。身体的な機能を一時的に不能にするのだから、少しの不都合では済まない気がするのだけれど。
ああ。クリセルダの後遺症は魔力の漏出だけではないのか。
この人は大空を失った。もう二度と、己の翼では翔られぬ。
石畳にしっかりと足をつけ、アーデルハイトは空を見上げた。この向こう側に赤い太陽があり、銀色の星がある。海に沈みゆく太陽は鮮やかな色で、それなのにどうして空は青いのだろう。
「陛下。空のずっと向こうには太陽や星々を隔てる神聖力の分厚い層があり、それが空を青く見せているのだと言い伝えられております」
人間は『知る』ことが得意だ。神の存在を謳いながら、この世界に本当は神などいないことを解き明かすのが得意だ。
地を這う人間は、手の届くところであればなんだって解き明かそうとする。
なぜ樹海があのような様相になったのか。それすら解き明かしてみせた。
空には分厚い神聖力の層がある。人間はその膜に守られている。そんなことは信じない。人間は空を飛べないから知らないだけ。解き明かすことができないだけ。
だってアーデルハイトは、あの空を飛んだのだ。だから知っている。空に神聖力などないことを。きっとどれだけ高く飛んだところで、神聖力の層などありはしない。
「馬鹿馬鹿しい。そんなわけがあるか。空を青くみせるほど群青の力が集まっているのなら、ここまで気配が漂ってくるはずだ」
アーデルハイトより頭ひとつ高い位置で、クリセルダも空を煽ぐ。まるで掴み取らんとするように、その手を伸ばした。
「いかに高く、いかに早く飛ぶ龍ですら、空を越えることは叶わない。あのずっと向こう側に行こうとすると体が燃えてしまうだとか、体が凍ってしまうだとか、そんなことを言っていた」
龍に生まれ、空に憧れぬ者などいない。そう言う。そうして何人もの龍が空の向こうを目指して死んだのだと。多くの龍が悠久の時に耐えきれず、自ら空の向こうへ消えていくのだ、と。
「太陽の龍だけだ。空を越えられたのは。知っているか、青薔薇」
楽しげに目を細め、魔力がゆらりと漂う。金色がアーデルハイトの視界を染めて、その身すら包まんとする。
「我々のいるこの地は丸いのだぞ。そして、この明るい空の向こうは真っ暗なのだ。ここはな、夜空に浮かぶ小さな小さな星のひとつでしかない」
クリセルダがアーデルハイトの髪を一房掬った。
「まだ子どもだったとき、私は空のずっとずっと高くまで飛んだ。はは、死ぬかと思うほど寒かったな。それでな、下を見下ろしたんだ」
町から見える海を指差して、クリセルダが地平線をそっとなぞる。懐かしむように、思い出すように、愛おしむように、憎むように、忘れないように。
「地平線が丸いのは、この大地が丸いから。ハッセルバムなんぞ、この星の大地からしてみたら小指の先にも満たないのだ。その上を生きる我々のなんと小さなことか」
「空を包む、さらに大きな空があるのですね」
「海を越えた先にはたくさんの島があり、大陸がある。そこでもまた、ヒトや魔族は争い、そして生の営みを繋ぎ続けている」
想像もできないことだ。この大陸の全貌すら、地図の上でしか見たことがないのに。他大陸があるという話すら信じがたいことなのに。この世界が本当は丸いのだとしたら、こうして立っている平坦な道は、どうして平坦に見えるのだろう。他大陸に生きる生物は、この大陸に住む人間や魔族と同じ生物なのだろうか。
「なあ、青薔薇。グリフォンやワイバーンではけしてたどり着けない空の果てに……」
空を翔る漆黒の龍はいったいどれほど美しかったことだろう。
悪戯げに微笑む黒い龍が、まるでそうして当たり前だとでも言うように、アーデルハイトの手を攫う。
「私がこの国を必要としなくなったその日に、お前を連れていく。見せてやろう。寒さも感じず、呼吸も必要としないお前なら耐えられるだろう? 否。耐えてみせろ」
この地にただひとり生き残った龍とは、なんと傲慢な生き物であるか。死ねとおっしゃいますか。そうですか。
マーティアスが、ソアラの指先に唇を落とした。
『ソアラ。俺と踊ってくれるか」
クリセルダが、アーデルハイトの指先に唇を落とした。
「アーデルハイト。私と飛んでくれるか」
ゆら、ゆら。まるで溺れてしまいそうなクリセルダの魔力の中で、アーデルハイトは目を閉じていた。そうでもしなければ腰が抜けて、情けなくへたりこんでしまいそうだったから。動きを止めたはずの心臓が、まるでどくどくと脈打つかのような錯覚。
ドレスを着たまま溺れたことなどないけれど、たとえるのならきっとそんなところだろう。
怖いのだ。死んでいるはずの体が怖いのだと訴えかけてくる。重く纏わりつき、命を地に堕とさんとする、クリセルダの魔力が怖い。それはまごうことなき『身の危険』であった。
龍は争いを禁じた。ひとたび力を奮えば、その地は焦土と化す。それ故に、龍は自らを庇護する存在とし、長い年月、他の種族を傷つけぬように生きてきた。
龍は恐ろしい。その怒りをかうとは、どれほど愚かなことか。
ああ。思い出す。怖かったのだ。アーデルハイトはあの時も怖かった。アーデルハイトはギロチンが怖かった。アーデルハイトは。
アーデルハイトは死んでしまうのが怖かった。だから願った。生きたい、と。
綱が切られ、重たい刃が落ちてくるその一瞬、アーデルハイトは生きたいと強く願った。
なんと愚かしく、なんと恥ずかしい。殺す者は殺される覚悟を持つべきだなどと豪語しながら、その当人が死を恐れたなど。未だ恐ろしいと感じるなど。
故に。アーデルハイトはその手を払う。地に堕ちた龍の、その恐ろしさを払う。
強くあらねばならない。そう生きていくために作られた女だ。
「陛下」
自身が振り払った手を、今度は自ら握る。
「酔っていらっしゃいますね?」
「そんなに飲んでいない」
「酔っ払いは皆そう言います。そんなに魔力を垂れ流して酔っていないなどと言わせませんわ……目をお覚しなさいな」
不敬であるとわかっているが、空いた方の手でクリセルダの頬を軽く何度か叩いた。
メータールックの家であれだけの量を飲むからこうなるのだ。たしかに『刺身』はたいそう美味しいものであったが、だからと言って大樽をいくつも空けるとは。
「可愛い女だな、お前は」
「またそんなことを……何が空の果てに連れて行く、ですか。寝言は寝てから仰いなさい」
「寝ていないし本気だ。私はアーデルハイトと飛ぶし、空も越える。私は龍の姫だぞ」
頬に触れていたアーデルハイトの手に、クリセルダが口付ける。びくりと震えたそれを握り込んで、口付けという行為には特に言及しないことにした。
「どうでもよろしい。とにかくその魔力をなんとかなさいませ! 道ゆく魚人たちが死にかけております」
渋々と言った顔で、するすると魔力を収めていく。同時にのし掛かるような死の恐怖も薄れていった。
美しいはずの景観に、醜く泡を吹いた死に体がぽろぽろと落っこちているではないか。彼らは港作りのための貴重な労働力である。ぽこぽこと数を増やす人間とは違うのだから、無闇に数を減らされたらアーデルハイトが困る。
「帰ろうか、私たちの城へ」
「まさかとは思いますが、陛下」
「昨夜も共に寝たのだ。今晩も共にいて良いだろう?」
良いわけがない。なにを言うか。
「陛下。よもやこのままグリフォンに乗るおつもりではないでしょうね」
「よもやそのおつもりだが?」
「馬鹿も休み休み仰いませ。わたくし、まだ首を失くしたくはありませんの。陛下が空を飛んで帰ると仰るのなら、わたくしは歩いて首都へ戻りましょう」
首を失くし、制御を失った体がひとりでにふらふらと彷徨う。ああ、想像しただけで恐怖だ。死ぬより恐ろしいではないか!
「良いですか、陛下。わたくしは以前、酒に酔ったまま早駆けに出かけ、建物にぶつかって死んだ馬鹿な騎士を見たことがございます。彼はその年の馬術大会で優勝するほどの腕前でした。酔ったまま何かに乗るというのは馬鹿のすることでございます。良いですか、馬鹿のすることです、陛下」
「ふふ、ははは! そんな顔もするのだな、お前は」
「わたくし、どんな顔をしておりました……?」
金色が舞う。喉の奥を鳴らして、クリセルダが笑う。水面に光る太陽のように、ちらちらと舞う。
「はは! 無表情だ!」
寒さも感じず、呼吸も必要としない。アーデルハイトはそんな体だ。けれど、それは朽ちぬことと同義ではない。
空の果てへ連れて行く。それはアーデルハイトに死ねということ。けれど同時に、それまでは死ぬなということ。
『生きろ、私のために』
「約束を。陛下との約束を果たさせてくださいませんか」
「……わかった。帰るのは明日にしよう」
青薔薇。クリセルダがそう呼んだ。
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