18


 昨晩、アーデルハイトはクリセルダにひとつ、おねだりをしてみせた。クリセルダは快活に『ふたつでもみっつでも、百でも都合してやろう』と笑った。


「いっぐら魔王ざまのお願いど言ったっで、そりゃあなんでも頷けねぇ話だや」

「お前らにとっても悪くない話だと思うが」

「んなごだぁして、人間たちゃ入っでぎたらどうするだや!」


 アーデルハイトはそっと白湯を啜る。ここに茶などといった気の利いたものはない。

 毒にしか思えないほど強い酒を出されたのだがそれを飲む気にもなれず、仕方がないので白湯で我慢をしている。


 四部族を取りまとめる魚人の族長。メータールック。

 黒々とした鮫肌に、巨大な口からちらちらと覗く鋭い歯。白く濁った目は視線が読み取りづらい。

 出された酒を遠慮せずに飲むクリセルダだとか、訛りがきつくて聞き取れないメータールックの言葉だとか、色々と気になるところはある。あるのだが。


 慣れない。慣れるはずがない。これを見ていると、首都や魔王城の面々はマシなのだな、なんて思ってしまいそうだった。


 全員ほぼ裸なのだ。魔王側近たちを五割裸とするならば、彼らは九割が裸である。


「魔王ざまはっ! ぞの女に騙されでるだや!」

「私の妻を愚弄するな」


 びりびりと重たい圧がのし掛かり、メータールックが椅子から転げ落ちた。


 メータールックは魚人の女性である。たぶん、女性である。人間かサメかで言えば、サメに近すぎてわかりにくいのだが、剥き出しになった豊かな乳房はおそらく女性のもの。


 ふう、と息をついて、木製の器を置いた。裸どうこう、性別どうこうは後にして、言わねばならないことがひとつ。


「陛下」


 圧が霧散する。床に転がっていたメータールックが、怯えながらもそそくさと椅子に戻ってきた。

 クリセルダのこういった様子を見ていると、龍が争いを好まない温厚な種族だというのが嘘に思える。


「わたくし、婚姻を了承した覚えはございませんが」


 メータールックがぶるりと震えた。アーデルハイトの圧に震えたのか、それとも魔王に対する物言いに震えたのか。


「裸を見せ合った仲だろう。もはや結婚していると言っても過言ではない」

「過言すぎて驚嘆しております。それに、お脱ぎになったのは陛下だけでございます。見せ合ってはおりません」

「なら、私の肌を見た者が妻になるという法を作ろうか」


 勝手に見せたくせになにを言うか。空いた口が塞がらないとはこのことだ。


 今朝だってそう。広すぎるベッドの上で充分な距離を空けて眠ったと言うのに、目が覚めたら羽交い締めにされていた。気配に気づかず眠りこけていた自分にも驚きである。

 目を開けたらクリセルダの顔面が至近距離にあって、思わず首がポロリといった。


「そんなことで法を定めるなど暴君が過ぎます。これ以上国を傾けてどうなさるおつもりですか」

「青薔薇が結婚してくれたらそれで良い話だ」

「そんなに青薔薇と婚姻したければ、帝国に赴いて青い薔薇を摘んできたらよろしいでしょう」


 困ったような顔をして、なにをそんなに拗ねている、などと言わないでほしい。拗ねてなどいない。怒ってもいない。


 自分でもよくわからないのだから。


「だったら名前を呼べば良いのか。アーデルハイト、何度でも呼んでやる。それとも耳元で甘く囁いてやろうか」

「そ、んな話はしておりません! ほら、はやく交渉を続けてくださいませ!」


 定まらない心の置き所に戸惑いながら、口元からぽろぽろと言葉が漏れていく。

 感情を顔に出すな、と。自身の感情に振り回されてはならぬ、と。常に冷静たれ、と。そう育てられ、そう生きてきたはずなのに。ハッセルバムに身を落ち着けてから、アーデルハイトはどこかおかしくなってしまった。


「そもそも、陛下もわたくしも女性同士だというのに……」

「何の関係がある。私が雄であればもっと簡単に頷いてくれたのか?」

「そういうことでは……ございませんが……」


 メルダース帝国に限らず、西大陸諸国では同性愛というものは異常な性癖であるとされてきた。しかし、ハッセルバムときたら同性愛どころか、うん十年の年の差も、種族の差も、複数名での婚姻も、至る所に転がっている。


 クリセルダから目を逸らしたアーデルハイトを、なにがそんなに嬉しいのか、相貌を崩しながら覗き込んでくる。とろり、とろり、と金色が流れた。


「あまり可愛いことを言ってくれるな」

「またそんなご冗談を」


「アタイらはなにを見せられでるだや……」


 メータールックがぼそりと言った。本当にそのとおり。

 アーデルハイトはただ『港と船が欲しい』とわがままを言っただけなのに。



 並べられた生の魚は何種類にも及ぶ。身が赤いものから、白く透き通ったものまで、アーデルハイトの知る魚とはまるで別物だ。

 メルダース北部沿岸や、聖ツムシュテク教国でも魚を食す。だが、生のまま食べることはなく、その文化を持つのはホロホロ族のみである。


 生の魚を薄く切り、美しく並べる。それだけでも充分な驚きがあるというのに、メータールックたちが見せてくれた切り開く前の魚にも驚いた。


「海が違えば魚も違うのですね」

「アタイらは逆に北の海を知らねぇだや。だっけど、元いた東んほうは、あんまし違ぇはながっだな」


 港をおきたいという交渉は依然進まず、そのかわりにアーデルハイトとクリセルダのやり取りを見たメータールックが、『よし、魚をぐえ!』と突然料理を運んできた。

 葉や木の皮に乗せられた料理は、ただ魚の身を薄く切っただけのもの。話を聞くだけでは、なんと野蛮な、と思って忌避していたかもしれない。


「東の方と言うと、大陸東部や極東かしら」

「いんや。こっがら少し向こう行っだどこだや。なんてっだか、あー、げいばんって国になっでだか」


 ヴァリ王国の属国ケイマンか。ケイマンにも港があるが魔物の脅威が大きく、海産業についてはそこまで発達していない。

 アーデルハイトの計画にはケイマンの港を経由するものもある。丁度いい。


「あーで、あーでぅ、あーでぇばいどざま」

「…………無理して呼ばなくても良いわよ」


「青薔薇、なら言えるのではないか」


 行儀悪く指で生魚をつまみながらクリセルダが言う。クリセルダが食べているのは、元は緑の光沢に、丸い顔をした魚である。

 脂が乗って美味しいのだとクリセルダは言うが、人間が食すとその脂がそのまま便となって排出される。どうやら人間には消化できないものらしく、数切れ食べただけでも腹を下すそう。


 それを人は毒という……


「あおばらざま! アタイらは人間どは仲良くできねぇだや。港を作って人間ど交流しだら、アタイらはぎっど殺される……」

「なんのためにわたくしがいると思っているの」


 はは! と隣で笑う声が聞こえた。

 アーデルハイトの本分は農耕地の改革でも、街道の整備でもない。民へ慈悲を施すのは、そういうのがお好きな皇妃ソアラに任せていた。

 肥料の開発はゴルダイムの農民から得た知恵であるし、道の開拓だって誰でも思いつくこと。

 アーデルハイトの本分は謀り、陥れることで得る功績だ。


 ここからがアーデルハイトの本領発揮なのだ。


「わたくしはあなた方に人族領との交流や交渉をさせようなどと思ってはおりません。これから先、人間がこの国へ訪れることも珍しくはなくなるでしょう。けれど、そのときにはもうすべての下準備を終えています。数では勝てないけれど、個を相手にしたならば負けないでしょう?」


 あなたたちは強いのだから。


 差別のない世界を作る、なんて綺麗事を言うつもりはない。そんなことは神でもできやしない。

 人間が魔族を恐れない日など来ないだろう。人間は自分とは違うモノを嫌い、自分より強いモノを恐れる。怖いから、恐ろしいから、隷属させ殺し、甚振る。そうして優位に立たねば安心できない生き物だ。


 ならばどうすれば良いのか。


 霊峰となれば良いのだ。人間がけして立ち入ることのできない恐ろしい山に。

 手出ししようとすら思わぬ。手を出して来たなら飲み込んでしまえば良い。


 魔族は強い。個は恐ろしく強い。けれど弱い。なぜ弱いか。それは個でしかないから。

 幸いなことに、クリセルダがすでに数を集めているではないか。そしてこの国は自然の要塞だ。


 ハッセルバムの軍全てを集めても僅か四万。されど四万。これらは全て常備軍である。戦うことを生業としない農民を集めたような、かき集めの兵ではない。

 マルバド率いる第一軍は、分隊規模であの霊峰を登る。そこにいる魔物をいとも容易く屠ってみせる。


 そんな者たちに、人間の農民兵ごときが敵うものか。樹海すら歩いて越えられない人間ごときに、群で戦うことを覚えた魔族が負けるものか。

 そしてなにより、人間たちは魔族の軍が四万しかいないとは知らない。情報は武器。『知らない』ことが鋭利な刃となって喉を突く。


 たとえメルダース帝国が四十万の兵を差し向けて来たところで、ハッセルバムは負けはしない。なにより、こちらに四十万の兵を寄越す前にアーデルハイトが殺し尽くす。


「けれどそれは、わたくしの仕事ではない。わたくしの仕事はもっと悪辣なこと」


 軍同士の戦いは最後の最後にとっておく華。アーデルハイトはそれを咲かせるために動く。


「わたくしね? 人間を陥れるのがなによりも得意なのよ」


 センドアラ公国とヴァリ王国の戦勝を、たった二年ぽっちでマーティアスに捧げてみせた。

 あの頃は手足として動かせる工作隊をすぐに用意できた。大国の皇妃という立場があったからできたこと。


 今のアーデルハイトには何もない。財もなければ、地位もない。けれど、やってやれないことはない。

 だってこの行動には愛があるのだから。


「人間は集まると強い。けれどね、困ったことに集まると弱いところが沢山出てくるのよ。国は切れ端を縫い合わせた大きな布でしかないの。その縫い目の糸を引っ張ると……どうなると思う?」


 布はばらばらに解けるだろう。綻んだ箇所を緩め、緩め、緩め、四方から引っ張ってやれば良い。

 ああ。なんと都合の良いことだろう! メルダース帝国の周囲には引っ張ってくれる手が沢山あるのだ。


「ねぇ、メータールック」


 メータールックがなぜか怯えたような顔をしながら、大きな頭をこくこくと縦に振った。


「これから不思議なことが起こるわ。あなたたちを虐めた人間が勝手に争って、勝手に自滅するの。不思議でしょう?」

「ふ、ふふ、不思議ですだや!」


 アーデルハイトは笑う。口角を上げて笑ってみせる。意識せねば笑えないから、意識して笑う。


「ふふ、そうよね、不思議よね。あのね、わたくし、ケイマンが欲しいの。だから陛下におねだりしたのよ、港と船が欲しいと。けれど、一番欲しいものは自分で奪うの……誰かにとられてしまう前に」


 ねぇ、メータールック。ともう一度呼びかける。

 隣で楽しげに笑うクリセルダと対照的に、メータールックは大きな体を縮こませてふるふると震えていた。


 そう、震えるほど嬉しいのね、ケイマンを落とせることが。


「素敵だと思わない? 港と船があるだけで、ケイマンはわたくしたちの自由になるのよ」

「すすすすすす素敵ですだや!」


「安心して。あなたたちが普段どおりの生活を送っているあいだに、すべてを終わらせてあげるから」


 港と船は一安心。メータールックたちは全面的に協力してくれるだろう。


「歓待どうもありがとう」


 もう堪えきれない、と言うようにクリセルダが腹を抱えて笑った。


   

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