12-2 未来の皇后と二十九番


 アーデルハイトにとってはそれで終わる話だ。初めての冒険は屋敷の裏門まで。現地へ到着する前に情報を得たため終了。おしまい。

 でも、孤児のラニーユにとってはそうもいかない。ひたすらに奇跡のような話であった。


 まさか貴族邸だとは思いもよらなかった。


 冬を迎える前になんとか小銭を返せがねばと、殴られること覚悟で商人たちの豪邸を回っていた。表から入ると殺されかねないため、今回も裏門に回った。

 商家の使用人として雇われている者には孤児院出身も珍しくない。そのため、ラニーユのような存在を哀れに思ってくれることもあった。


 門をくぐり抜けてすぐにわかった。まだこちらに気づかぬ使用人たちは気品に満ち、着ている服も、敷地の雰囲気も、なにもかもが違う。成り上がりの商家では、けしてない。

 すぐに逃げなければと思った。なのに。


 なのに。まさか、いかにもお嬢様然とした少女がコソコソと生垣伝いに歩いてくるとは思わないだろう。


 プラチナブロンドの美しい髪が背中に流れ、青い瞳は神聖力のせいでさらに深い青色に輝く。真っ白く美しい肌に、桜色の唇。

 ラニーユを見つめる表情には嫌悪も怒りもない。笑うこともなかったけれど、そんな表情のない表情すら美しい。こういう女の子を『お姫様』というのだと、ラニーユは思った。


 家無しの子ども以外では初めてのことだった。ラニーユとをしてくれたのだ。

 綺麗で美味しい水をくれた。カビがなく柔らかいパンをくれた。ラニーユと会話をしてくれた。


 ラニーユの名前を聞いてくれた!


 綺麗な少女はあのパンを情報料だと言っていた。だからラニーユは走った。走り回った。

 なにか情報を持ち込めばまたパンを貰えるかもしれない。そんな打算を理由にしたけれど、本当はあの子にもう一度会いたかっただけだ。


 たとえパンを貰える可能性があっても、貴族邸に忍び込むなど命を捨てるようなもの。


 それでもラニーユは走った。帝都中を走り回った。煙突掃除のときに鞭で叩かれることなんて気にならない。

 今度はラニーユと呼んでくれるだろうか。情報を持ち込んだら喜んでくれるだろうか。名前を知りたい。


 ラニーユのことを、ラニーユだと認識して欲しい。



 アーデルハイトがそれに気づいたのは、冒険の日から数日経った日のことだった。

 アーデルハイトが小さな冒険をしていたことなど誰も知らず、それでもあの経験はアーデルハイトに大きな満足感をもたらしていた。


 侍女を追い払って東屋で読書をしていたとき、生垣から鳶色の目がこちらを見つめていた。

 紅茶を蒸らす時間くらいは見つめあっていたのではないだろうか。表情には出さなかったが、アーデルハイトはひたすらに驚いていた。


「て、てて、帝都の東一区に、あ、新しいパン工房ができた。ヴァリ、王国からきた職人、で、旨いけどすごく高い」


 生垣の奥から、犬はそう言った。相変わらず汚いしボソボソと喋るけれど、そこに怯えはない。

 アーデルハイトは何も返さず、犬の目的を考えていた。


 はて、パン屋とは。いったい何の話か。

 東一区とは貴族街に隣接する平民富裕層の多い区画だ。このノイラート分邸も東一区に隣接している。たしかに高級なパン屋を営むのなら適した立地だろう。


「西二区、鍛治工房の親方が酒の密造で逮捕さ、された。けど、密造酒つくるとこ、む、息子が隠してて、まだ、つく、作ってる」

「密造酒、ね。蒸留かしら」

「わ、わかんない、けど……わ、ワインたくさん仕入れて、バレたって」


 水資源が不足しがちな帝都にとって、葡萄酒は水の代わりである。安く出回っているために密造の旨味はない。しかし、蒸留酒は高い酒税がかけられ、高級品となっている。平民が酒を楽しむには、質の悪い蒸留酒を割って飲むしかない。


「の、ノンカ大商会の奥さんを、こ、殺したのは、旦那の商会長だって、うわさ。に、西八区のギュンターとデキてて、それがバレて、怒った商会長がこ、殺した」

「ギュンターって? 西八区って貧民街よね」

「ギュンターは、西八区の組合支部長で、えっと、裏? のドンって聞いた」


 ノンカ大商会は下位から中位の貴族とも取引をしているやり手の商会である。そこの夫人が亡くなっているとは。しかも他殺とは知らなかった。まあ、わざわざ八歳の子どもに聞かせる話でもなかろう。

 西八区といえばスモークタウンとも呼ばれ、いわゆるチンピラやゴロツキが溢れる無法地帯だ。名前の由来はふたつ。違法薬物とタバコの煙が常に漂っているから、というものと、違法賭博や犯罪が横行しているにも関わらず帝都上層部に見て見ぬふりをされている『煙に巻かれた地区』、というもの。

 西八区には難民も多く流れ着き、孤児を含めて帝国民としての人権を持たぬ者たちも多い。奴隷闘技場などの違法賭博も蔓延る、華やかな帝都の暗部であった。


 ゴロツキの親玉と商会のご婦人が、ねえ……


「だ、だけど、ギュンターも死んだ。酔って馬車に轢かれた、けど、みんなノンカがやったって」


 高位貴族以上に体面を気にする下位貴族にとって、ノンカ大商会のそういった話は痛手だろう。

 鍛冶屋の密造酒についても面白い話が聞けた。今ごろ内務省の者たちが走り回っているに違いない。


 情報の精度は低いが、屋敷に引きこもっているアーデルハイトにとって、ヴァリ王国のパン職人含め面白い話であった。


 この犬はどうやら前回のことで学習したらしい。情報はパンになる。

 おどおどした態度は頂けないが、その行動は嫌いではなかった。むしろ気に入ったとすら言える。


 残念ながらパンはないため、まだ手をつけていなかったクッキーを一枚投げ入れてやる。一枚、二枚、三枚、惜しくはないので全てくれてやった。


「あなたの名前、なんといったかしら」

「ら、ラニーユ!」

「ああ、そうでしたね、二十九番。ラニーユ、あなた字は書ける?」


 生垣がガサガサと鳴った。首を横に振ったらしい。


「読むことは?」

「ちょと、だけ」


 読めるのならば、いずれ書けるようにもなろう。


「字を覚えなさい。身なりを整えなさい」


 最後に髪留めを外して、それも投げ入れる。

 宝石もついておらず、金や銀ですらない。売りに出したところで銀貨一枚にも満たないだろう。けれど、ラニーユが所持する物のなかで最も高価であることは違いない。


 煙突の煤を集める代わりに、帝都中の情報を集める生活が始まった。身が汚れる煙突掃除をアーデルハイトが好まなかったから。

 字を覚えた。商家に忍び込んで、井戸で勝手に水を浴びた。ボロ布をほつれのない古着に変えた。たくさんの人と話をした。


 ラニーユはひたすらに走った。


 それから六年。アーデルハイト十四歳、ラニーユはおそらく十八になる歳。アーデルハイトが皇子妃として皇妃宮に居を移すまで、ラニーユはアーデルハイトの犬で居続けた。



「あなた。生きていたのね、ラニーユ」

「ぅ、っ……ぁ、主人さま、主人さま」


「二十九番? 変な名前だな」


 首根っこを掴まれているせいでぶらぶらと地面から浮いている。とくに苦しくはなさそうだ。

 記憶よりも随分と大人になったラニーユの顔をクリセルダが覗き込む。


「ええ。餌をやるのをすっかり忘れていました」


 ラニーユはアーデルハイトの犬だ。出会った頃から、皇妃宮へと去るまでのあいだ、それはふたりにとって共通した認識である。

 野良犬に餌を与えたら懐いた。放し飼いの犬。赤茶色の髪に鳶色の目をした、アーデルハイトの犬。


 相変わらず痩せすぎた体のせいか、ラニーユは少女のようにも見える。


 それは良いとして、アーデルハイトにはどうしても気になることがひとつ。


「ラニーユ。色々と聞きたいことはあるのだけど……あなた、どうして透けているの」



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