12-1 未来の皇后と二十九番


 それはまだ、アーデルハイトがアーデルハイト・ヘルミーナ・ノイラート侯爵令嬢だった頃。帝国史を学び終えた辺りなので八つ程度だったと思う。


 アーデルハイトは一度だけ冒険を試みたことがあった。


 最終的に屋敷の敷地外に出ることもなく終わったが、それはアーデルハイトにとって唯一の子どもらしい行動だったと言える。

 侍女からくすねた革鞄にハンカチやナイフ、短いロープ、数枚の金貨とパン、それと革水筒を詰めて、アーデルハイトは部屋を抜け出したのだ。


 アーデルハイトは幼い頃より、そのほとんどをノイラート家の帝都分邸の敷地内で過ごしてきた。庭園で武術や馬術を学ぶこともあったが、身を守る術の授業は、その大半が室内戦闘を想定したものである。

 将来皇子妃となることが定められていたアーデルハイトに万が一があってはいけない。故に箱入りであり、駆け回って遊ぶような娯楽も知らない。同年代の友人がいるわけもなく。


 アーデルハイトに与えられた娯楽といえば、それは主に歴史書や戦術書などの書物と庭園の散歩しかなかった。

 不満などあるわけがない。不満を持てるほどの経験も、自分の受ける教育が健全なものではないと教えてくれる存在も、憧れを抱くほどの余裕も、なにひとつない。アーデルハイトにはこれが当たり前だった。


 使用人たちは皆、アーデルハイトと目を合わせない。会話は最小限であり、庭園を散歩しているときですら、護衛も侍女も数歩離れたところを歩いている。

 父と話す時といえば、週に一度の晩餐でテーブルマナーを確認されるときくらい。あとは勉学の成績が伸び悩んでいたり、態度が反抗的であるとして鞭打たれるときくらいか。

 弟のシャロディナルと仲睦まじく過ごした記憶など存在しない。今思えば意識的に離されていたのだろう。屋敷内で顔を合わせることなど殆どありはしなかった。


 そんなアーデルハイトが持つ、閉塞的な教育に逆らった唯一の記憶。

 大したことではない。ただ、見てみたくなったのだ。


 メルダース帝国帝都、皇宮の目の前に広がる聖帝広場の大噴水。


 帝国史を学ぶ中で、政権交代に伴う現帝都への遷都の話があった。当時の皇帝や政変の年なんかはどうだって良かった。

 雨が少なく乾きがちな空気を潤すために、帝都にはいたるところに噴水がある。その代表が聖帝広場にある大噴水なのだ。

 その大噴水は神聖力の馴染んだ白い石で造られている。神聖力を石や鉱物に馴染ませるためには、強い神聖力に長い期間晒される必要がある。人力ではけして作ることはできないし、神聖力の湧く力場は魔物の脅威があるため採掘するのも難しい。

 大噴水に使われるその白い石は、政変を起こした当時の皇帝ノルベルト二世を祝福する龍によって齎されたものと言われている。


 神聖力を内包する石は、神聖力を持つ者が触れると青白く輝くのだという。


 アーデルハイトはそれに触れてみたかった。自分の体の中にあるこの力がアーデルハイトを特別な子どもたらしめていることを知っている。ならばきっと、アーデルハイトにも噴水を光らせることができるに違いない。

 光る石といえば宝石だが、それとは違うのだろう。アーデルハイトにはそれがどのように光るのか想像できなかったのだ。


 当時まだ八つほどだったアーデルハイトはたしかに忍耐強く賢い、子どもらしからぬ子どもであった。けれど、それでも八つの子どもだった。

 父の言うとおり知識を詰め込み、マナーを学んだ。人の上に立つことを自覚しろという言葉どおり、使用人や護衛と馴れ合うこともしなかった。叱責を受け止め、鞭に打たれた。泣くなと言われたから、痛みで泣き叫ばぬように歯を食いしばることを覚えた。


 感情を表に出すことは悪と言われたから、アーデルハイトは少しずつ感受する心を消していった。


 けれど、それでもまだ八つのアーデルハイトには我慢できなかった。本当に光るのか、どのように光るのか。一度気になってしまった心を止める術はなかった。

 アーデルハイトの小さな冒険は万全を期して実行された。侍女たちが常に肩から掛けている革鞄をくすね、中身をハンカチ、ナイフ、ロープ、数枚の金貨、非常用の食料と言った『子どもの考える冒険道具』に詰め替えた。歩いて行ける範囲の距離ですら、箱入りの娘にとっては大冒険だったのである。

 侍女の持つ革鞄に入っているものが、主人の身だしなみを整えるための道具なのだと、このとき初めて知った。ただ、それは侯爵家からの支給品であり、紛失したとなれば解雇されるほどの失態だとは知らなかったけれど。


 教師のいない自習時間を狙って、アーデルハイトは部屋を抜け出した。部屋の前には護衛騎士がいる。ならばと思って、バルコニーを伝って隣の部屋のバルコニーへ、また隣のバルコニーへ。まさかアーデルハイトが抜け出すなど、護衛も使用人も、誰も考えていなかった。

 慎重に使用人たちの目を盗みながら裏庭へ降り立ったときなど不思議な達成感を感じたくらいだ。


 裏口から荷物を運び入れる侍従と商人、屋敷中のシーツを洗濯する侍女、生垣を整える庭師。それらに見つからぬようにコソコソと移動し、ついに裏門までたどり着いたとき。


 生垣に隠れるように身を縮こませた、汚い犬が一匹落ちていた。


 いくら箱入りのアーデルハイトと言えど、人間の子どもと野良犬を見間違えるはずがない。けれど、そこに落ちていたそれは犬と形容する他なかった。

 風呂どころか水浴びすらしていないのだろう。髪は脂ぎったようにベタつき、服も泥や煤に塗れていた。

 幼いアーデルハイトは孤児院からあぶれた孤児が店や民家の煙突掃除をしながら小銭を稼いでいることなど知らなかった。ただただ汚いだけの犬にしか見えぬ。そもそも孤児という存在すら認識していなかったくらいだ。


 だからそれは、アーデルハイトにとって人間の形をした汚い野良犬に過ぎない。


 アーデルハイトから身を隠すようにして茂みでぶるぶると震えている。敷地に入り込んだことで罰せられるかもしれないと怯えているのだとすぐにわかった。

 ノイラート分邸が建つのは貴族街の一角であるが、当時まだ然程の力を持っていなかったことで、その土地は平民街に程近かった。この犬は何かの手違いで迷い込んだのだろう。


 犬が入り込んでいるな。と、アーデルハイトはそう思った。それだけだ。以上も以下もない。

 汚い存在だと思いはしたが、それが目の前に落ちていることに対しては特になんの感慨も持たなかった。


 貴族を怒らせると殺される。平民にはそう怯えられているし、あながち間違えた認識でもない。しかし、いくら支配層と言えど、殺人は殺人。犯罪だ。

 その場で斬られると思っている者が多いようだがそうではない。"その場で"は殺されない。後日、不幸な事故に遭うだけだ。


 だが、平民如きのためにそんな面倒な労力を割くだろうか。


 答えは否。平民の命は軽く扱われるが、そのぶんわざわざ殺してやるまでの価値もない。おそらく見つかったのがアーデルハイトであれ、父であれ、他の使用人であれ、この孤児への対応に大きな違いなどないはずだとアーデルハイトは考えていた。


 いつでも殺してしまえる命。それはアーデルハイトにとって、虫と大差ない。目の前を横切る蟻を、いちいちめくじら立てて潰したりはしまい。

 アーデルハイトは犬に問うた。


「ねえ、あなた。聖帝広場の大噴水を見たことはある?」


 犬はぶるぶると震えた。

 面を上げ、怯えた表情を隠さずにアーデルハイトの目を見る。まるで命乞いをするかのような視線で、そのときになって初めてアーデルハイトは『煩わしい』と感じた。

 おそらくこの頃から、アーデルハイトはこう言った態度が嫌いだったのだ。


「聖帝広場の大噴水。知らない?」

「し……しっ、てる」


 聞き取りにくく掠れた声であったが、紛れもなく意味のわかる言葉だった。


「大噴水は神聖力のこもった石で作られていて、神聖力を持つ者が触れると青白く光るのですって。見たことある?」


 小さな声でぼそぼそと話すも、掠れていて聞き取りにくい。

 革鞄から水筒を取り出して犬に差し出した。犬はぶるぶると震える。

 喉が渇いていたら声も出なかろうと思っての行動であったが、犬は震えるばかりで受け取ろうとはしなかった。


 アーデルハイトとて、寝起きの朝は喉が乾燥して声を出しにくい。だからこそサイドテーブルには常に水差しが用意されているのだ。

 誰かにとってその行動は優しさだった。けれど、本人にとってはけして優しさからくる行動ではなかった。文字を書くためペン先にインクをつける行為を優しさと呼ぶか。本を読むために表紙を開く行為を優しさと呼ぶか。食事をするために口をあける行為を優しさと呼ぶか。


 呼ぶまい。


 結果を得るために付随する行為であり、どちらかと言えば孤児を『モノ』として認識する、優しさからは程遠い行動だ。

 喋る犬から情報を得るために水を渡す。それだけのこと。


 躊躇って受け取ろうとしない犬に向かって水筒を投げると、ほんの少し逡巡したのち、犬は中身を一息に飲み干した。

 最初から水筒ごとくれてやるつもりだったので気にしてはいなかったが、犬はやはり怯えた顔をする。アーデルハイトにはそれが煩わしい。


「それで、大噴水のことだけれど。あなた、大噴水が光るところを見たことがある?」

「ぁ、ぅ……も、もう、ひから、ない」

「……もう? なら、昔は光っていたの?」

「た、ぶん? 神聖力が、もう残ってないって……神官さまが」


 なるほど。政変が起きたのは帝国暦一八八年。この時から数えてちょうど四十年前のこと。遷都されてからは三十五年ほど経っている。三十五年の月日で、石の神聖力は枯渇したということか。

 なにより、神官が言ったというのなら信用できるだろう。神聖力を持たねば僧門には入れない。神聖力を持つ神官が言うのなら、大噴水はもう光らない。


 自身の目で確認することが目的だったはずなのに、アーデルハイトの心はこの瞬間に満足してしまった。バルコニーを伝って部屋を抜け出すだけでも大冒険だったのだから。


「そう。あなた、名前は?」

ラ、ニー、ユ二十九番

「ずいぶんと記号的な名前ね。まあ、いいわ。はい、これ、情報量」


 アーデルハイトが犬に投げ渡したのは、冒険の非常食にと取っておいたパンだった。

 父も情報を買っている。有益な情報を持ち込んだとして、他家の使用人に何枚も金貨を渡していた。


 自分の足でも確かめられる情報なのだから、わざわざ金貨を渡すまでもない。そう思っての『パン』である。このときのアーデルハイトは至極真面目に情報量の支払いをしたつもりであったが、はたから見たそれは父の真似事をする子どもの姿に違いなかった。

 アーデルハイトは知らない。アーデルハイトの遊戯じみたこの行動が二度もラニーユの命を救ったことを。


 ラニーユを見つけていたのが他の者であれば、ラニーユは殺されていただろう。帝国民ならば、たとえ平民と貴族という関係であっても殺人は殺人。けれど、税も払えぬ孤児は帝国民とは認められていない。


 殺しても罪には問われない。ラニーユの遺体は翌日のゴミ捨て場に捨て置かれたはずだ。


 アーデルハイトが報酬として金貨を渡していたら、ラニーユは殺されていただろう。誰が見ても孤児であるラニーユが金貨など手にしていたら、間違いなく奪われ、殺され、スモークタウンにでも放置されたはずだ。


 満足したとばかりにラニーユから背を向けたアーデルハイトは、どの経路で部屋に戻るか、そればかりを考えていた。薄汚い犬のことなど、もうどうだって良い。

 けれど最後に、アーデルハイトは振り返って、唯一柵が低くなっている箇所を指さした。


「帰り道はあちらよ」


 それはたしかに優しさ故の行動だった。


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