13


 ラニーユの闖入事件があっても、街道の工事は進む。


 クリセルダが発した強い圧力で何人かが腰を抜かしたようであるが、工事の進行にはこれといって問題はなさそうだった。ある程度距離があったことが僥倖で、泡をふいて倒れる者はいなかった。

 すでに切り開かれた道の端に、切り出された木材が山積みになっている。資源はいくらあっても困らないが、これからも大量に出るとなると他に有用な使い道を考えた方が良さそうだ。

 ハッセルバム内で切り倒された木のほとんどは、強い力場の影響で変質している。聖ツムシュテク教皇国では『聖木』と呼ばれ、ゴルダイム辺境伯領から高い金額で輸入しているようなものだ。神聖力補助のための杖や、式典で使用する盃などに加工される。ヒト族領にとっては聖木そのものが貴重であるため、もちろんそれらの品も金額は馬鹿にならない。

 下手に流出させれば需要と供給の釣り合いが崩れ、必要のない争いを招きかねないのが悩みどころである。



 ラニーユはすでに死んでいた。



 アーデルハイトの遺体を追いかけて樹海に入ったのだと言う。ラニーユ曰く、アーデルハイトの遺体が魔物に食い荒らされるなど、どうしても我慢できることではなかった、と。

 しかし戦う術のない女性がひとりで歩けるほど、あの樹海は優しくはない。そこらの森とは違うのだから。


 それでもどうしても諦められなかった。


「主人さまのいない世界でなんて、ラニーユは生きていけません。お会いできなくても主人さまが幸せならそれで良いと思ってたのに……あの、あのクソ皇帝が……クソ、クソクソクソ、あの男が、男がががが、ころ、ここここ殺す、殺す殺す殺すコロスコロス……」


 突如として虚になった目に、がたがたと鳴る歯。ゆらゆらとラニーユの輪郭が歪む。


「グググ、ぐぐ、愚民ども、ッ、ある、あるじさまの御体が乗ったババババ馬車ッ、石ッ、石石石投げッ……コロ、殺す殺すコロスッ」

「落ち着きなさいな、見苦しい」


 アーデルハイトの一言に、躾けられた犬はぴたりと口を閉した。光を失い虚ろになった瞳も、すぐに理性を取り戻したようである。

 死霊は生前の執念に囚われて理性のない魔物になる、というのは、なるほどこういうことか。いずれアーデルハイトもこうなるかもしれない、と思うと、無意識に眉をひそめてしまいそうになった。


 ぶるぶると震えるラニーユの身体は向こう側が透けて見える。けれど、実体がないわけでもない。アーデルハイトの犬はいかにも不思議な生き物になってしまった。

 首がとれているのに思考して動き回るアーデルハイトと、実体がないのに実態があるラニーユ。いったいどちらが埒外の存在か、考えたところで詮無いことではあれど、気になってしまうものはどうしようもない。同じ死霊魔族であるがゆえに、生命活動は魔力のみで行うのだろう。ならば、飲食はどうだろう。アーデルハイトは摂取したものが首から漏れ出ないよう気を付ける必要がある。ラニーユの場合は、摂取したものが透けて見えたりするのだろうか。


「不思議ね」


 そう呟いたアーデルハイトに、クリセルダとラニーユが揃って首を傾げた。


 樹海に入り込んだラニーユはアーデルハイトの棺にたどり着くことなく息絶えた。頭上から落ちてきたバジリスクの幼体に噛まれたところまでは覚えていると言うので、おそらく死因はそれだろう。なんとも間が抜けた話である。

 強い毒を持つバジリスクはたとえ幼体であっても非常に危険だ。生体ともなると成人男性など軽く飲み込んでしまえるほどの巨体に成長する。普通の蛇だと思って相手にしようものなら、幼体ですら命を奪われかねない。

 バジリスクは子育てのために、獲物の上に直接子を落とすという。なればラニーユはまさに、バジリスクの餌食にされたわけだ。


「ところで、ラニーユは神聖力を持っていたかしら……」


 最後に顔を見たのが十年も前となると流石に記憶も薄れるもの。

 とは言え、鳶色の中に群青が見えた記憶もない。もし彼女が神聖力を持っていたとしたら孤児院から追い出されることもなかったであろう。教会奴隷として売られ、もっとマシな人生を歩んでいたはずだ。

 教会奴隷ならば成人すれば下級神官への道が開かれるし、寝る場所に困ることも、飢えることもない。アーデルハイトと出会うことも、きっとなかった。


「青薔薇が特殊なのだ。神聖力や魔力を持っていたとしても、死霊としてこの世に留まるのはそうある話ではない。これがレイスとなったのは強い執念が残っていたからであり、死んだ場所が樹海だったからだろう」


 それに、とクリセルダは続ける。


 たとえ死霊になっても、意思ある存在として第二の生を歩める者などほとんどいない。大抵は執念に喰われた化け物になり、樹海の中で再びの死を迎える。

 生物としての意識を繋ぎとめてくれる存在がいない限り、死霊魔族はいずれ理性を失う。


 アーデルハイトの理性を繋ぎとめたものは、クリセルダなのだろうか。もしクリセルダがいなければ、アーデルハイトはゴルダイム辺境伯領を食い散らかしていたことだろう。それはけして、アーデルハイトの望む愛ではない。


「皇帝を殺してやるって、ラニーユはそればかり考えていました。主人さまに会いたい、皇帝は殺す、主人さまに会いたい、皇帝は殺すって……でも、でも! 主人さまが森の中を歩いていたから。だから、ラニーユはついて行きました」

「あなた、わたくしのことをずっと見ていましたの?」


「それしかできなかったから……主人さま、主人さまって、何度も呼びました。でも、ラニーユには体がなくて、だけど、主人さまが呼んでくれた」


 そこにいるのはわかってるって! 姿を見せろって!


 半透明になってしまったラニーユがアーデルハイトにふらふらと近寄ると、まるで本物の犬がするように地面に膝をついた。躊躇いがちに掴まれた手は温度を感じない。

 泣きそうな顔でこちらを見上げるラニーユの瞳には、あの頃には見られなかった金色が渦巻く。


 そう。あなたも死んだのね。


「青薔薇が存在を認識したことで、それの魂はレイスとして定着したのだろうな。それを生かしたのは、お前から溢れる魔力だ」


 ラニーユはおそらくとても弱いレイスだ。少し魔力を込めて殴ってやればすぐに消滅してしまいそうなほど。ほんのりと薄い魔力がラニーユの記憶を元にして体を形作っている。先ほど、クリセルダから漏れだした圧で消え去らなかったのが不思議なほど。


 なんとなく。そう、ただなんとなく。


 アーデルハイトは腰の高さにある赤茶色の頭に触れた。最後に顔を合わせた時より、幾分か髪も伸びている。初めて出会ったとき、まかり間違えても触れようなどとは思えぬほど、ラニーユは汚かった。

 それは貴族の娘が愛玩している犬を撫でるかのような、そんな手つきであった。


「ある、じさま……主人さま……ぅ、ぐす、アーデルハイトさまっ!」


 ラニーユはすでに人間ではない。のこのこと帝国に戻ろうものなら一瞬で討伐されて終わりだろう。

 ラニーユはアーデルハイトの犬だ。偶然拾った犬。


 拾った犬には餌を与えねばならない。


「わたくしのペットになりなさいな、ラニーユ」

「はは! ペットか!」


「だって、あなたはわたくしの犬でしょう?」


 ラニーユはポロポロと泣きながら、アーデルハイトの手に頬を擦り寄せた。

 皇后だったアーデルハイトに誰がそんなことをしただろう。マーティアスの害になるからと帝国の民を殺したアーデルハイトに、誰がそんなことをしただろう。


 ただ気まぐれで餌を与えただけの悪女に、どうして涙を流せるだろう。


「なります……ラニーユは主人さまの犬です。最初から、ずっと」


 アーデルハイトさまが生きているなら、ラニーユはそれだけでいいです。


 アーデルハイトは知らない。飼い犬の可愛がり方などわかろうはずもない。

 アーデルハイトの愛はそれのために尽くすことだ。ただのペットへ注ぐ愛情など、アーデルハイトはわからない。



 どうすれば良いのか。わかりはしない。わかる日が来るのか、それすらわからない。

 けれど。否。だから。


 アーデルハイトの手に頬を擦り寄せるそれを、その頬を流れる涙を、アーデルハイトは親指でそっと拭った。赤茶色の犬を、もう汚いとは思わなかった。


 死霊レイスも泣けるのね。と、ただそれだけを思って。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る