3


 アーデルハイトを揺り起したのは騒めく声か、それとも不快な視線か。


 最悪な気分だ。


 二度と目が覚めないことを祈ったのに、みるみる意識が覚醒していく。眠ったふりでもしていようか。否、いつまでも寝顔を観察されるのは気分が悪い。

 アーデルハイトの寝顔を見ても良い者など、この世にはいないのだ。毎朝起こしにくる侍女ですら天蓋越しであった。


 しかし、常に暗殺の危機を抱えていたアーデルハイトにとって、頭がぼんやりするほどの深い睡眠は随分と久しいことだった。


「青い薔薇の女」


 狸寝入りはできないらしい。

 ここでも呼び名は青薔薇か、と思いつつ、まだ怠さの残る体を起こした。確実に死んだはずなのに、本当に動いてしまっている。

 ひとまずぐるりと辺りを見回して、自分以外の存在を確認した。


 不思議なことに、ばっさりと切られたはずの髪まで、元の長さに戻っている。


「ごきげんよう、皆さま。ところで、レディの寝顔を囲んで観察するのはいかがなものかと思いますが」

「ふん。デュラハン死体のくせになにがレディだ」


「黙れ、ウル」


 ハイハイ、仰せのとおりに魔王サマ。とわざとらしく直立不動の姿勢をとった男の頭には、髪の色と同じ犬のような白銀色の耳が乗っかっていた。ぴる、ぴると動いている様子から偽物ではないことが伺える。

 今のやりとりだけで状況の大半を把握できてしまった。


 魔王。そして、獣の特徴を有した男、黒い蝙蝠のような羽を持つ女、水牛のような角がある男、長い耳を尖らせた美麗な男、頭に二対の白い羽を生やした少女。

 樹海の奥には魔族の国がある、という根も葉もない噂があったのだが、どうやら根も葉もあったらしい。


 きちんとした服を着ているのは魔王のみで、ほとんどの者が半裸だ。犬と牛に至っては麻のようなズボンを穿いただけで、上半身は裸である。

 少女を含む女性陣も肌の露出が多い。


 なるほど。これは地獄だ。地獄行きだろうとは思っていたけれど、神はずいぶんな罰をお与えになったらしい。


「あなた、魔王だったのですね」

「自己紹介が遅れたな。私はクリセルダ・ハッセルバム。魔族の国、ハッセルバムの王だ」

「アーデルハイト・ヘルミーナ・ラ……いえ、もう皇后ではないのにラ・メルダースを名乗るわけにはいきませんね……」


 どうせ除籍されているだろうから、旧姓のノイラートも名乗れない。


「数多を殺し、国家反逆罪に問われた罪人、アーデルハイトでございます。どうぞお見知りおきを、ハッセルバム魔王陛下」


 黒い豪奢な服に、黒い重厚なマントを纏ったクリセルダ・ハッセルバムと名乗った女は、質素でありながら頑強そうな椅子に腰掛けたまま笑った。

 上等なその黒い衣装には金の意匠が施され、マントにも金糸の刺繍が入っている。黒く艶やかな髪も、銀の瞳のなかに渦巻く金色の魔力も、いかにも悪役然としていた。


 瞳のなかに金色の渦は魔力。瞳のなかに群青色の渦は神聖力。アーデルハイトの瞳にも、元の青色が見えないほどの群青色が渦巻いていたはずだ。青薔薇という呼び名の元にもなっていた。

 魔力を持つ者は魔族とされ、胎から出たときから殺される運命にある。魔族を生んだ両親も、同じく火に焼かれてきた。


 物語のなかだけの存在かと思っていた。それとも、ここはすでにアーデルハイトの知らない世界であるのか。


「メルダースといえば樹海の向こうにある大国か……皇族だったのか?」

「血は流れておりません。皇帝の妻ではありましたが」

「それで国家反逆罪か……しかも樹海に捨て置かれるとは。はは、いったい何をしでかしたんだ」


 メルダースを知っているのなら、ここは間違いなく西大陸の南部に位置する樹海の奥で間違いない。せめて違う世界であったのなら……

 楽しそうに笑うその人は、アーデルハイトに生きたいかと問うた人だった。座っていても分かるその長身と、気を抜けば潰されてしまいそうなほどの魔力の圧。


 男勝りに尊大な口調。美姫と呼ばれてもおかしくほどに麗しい女ではあるものの、その語り口や低めの声には、無理をしたような違和感はない。


「なにをしたか、と申されましても……皇帝の愛した女とその息子を殺そうとした、としか」

「皇帝の妻だったのだろう?」

「皇后は必ずしも寵愛される必要はございませんから」


 鷹揚に頷き、じっとこちらを見つめる。アーデルハイトも黙ったまま、その銀と金に光る目を見つめ返した。

 自信に満ち、内から溢れ出す強さを隠そうともしない。姿もさることながら、その様がなによりも美しい。


「樹海の端に強い力を感じて、私自らが出向いた。お前はそれに入って眠っていた。その身に宿す神聖力が、死したお前の肉体を作り変え、意識をこの世に繋ぎ止めたのだろう」

「なるほど……デュラハンとは大陸東部で語られる悪魔伝説のデュラハンでしょうか?」

「悪魔伝説は知らんが、死霊魔族の一種ではある。お前ほど安定した意識を持つ奴は初めて見た」


 大陸東部にはいくつかの悪魔をモチーフにした伝説がある。その中には首無し悪魔、デュラハンの話もあった。

 デュラハンとは死神の遣いであり、死神に見初められた人間に大量の血液を浴びせかけて死期を伝えるのだという。血の汚れは落ちないと言うのに、随分と迷惑な悪魔である。


「それで、なぜわたくしはここに連れてこられたのでしょう」

「お前ほどの力を持つ死霊は放置できない。死霊は意識をのまれると、力尽きるまで暴れ回るだけの魔物になる。ハッセルバムの兵とするか、または殺すほかない」


「ならば殺してくださいませ」


 ぐる、と犬男が唸った。アーデルハイトの生殺与奪を握るのはアーデルハイト本人か、この魔王だけだ。犬はお呼びでない。


「わたくしは戦う術など知りません。この身に宿すのは神聖力。人を癒す力でございます」


 自分で言って笑ってしまいそうになった。

 アーデルハイトが有り余る神聖力を用いて人を癒したことなど一度もない。相手を威圧したり、膂力の補助としたり、暗殺者の気配を探ったり、そう言ったことにしか使ってこなかった。宝の持ち腐れもいいところだ。


「残念ながらお前の神聖力は死したことにより魔力へと変換されている。諦めて魔族として生きるほかない」

「ならばなおさら、殺してくださいませ」


 アーデルハイトが死霊になってしまったというのなら、それはもうどうしようもない。どうしたって変えられない事実ならば、受け止め、先を考えるのが得策だ。

 なにより、体が作り変わってしまった感覚をアーデルハイト自身も感じていた。


 魔王は困ったように眉を下げる。そんな顔をされたところで、兵士として生きるのなんてごめんである。

 そもそもアーデルハイト本人が殺してくれと言っているのだから良いではないか。


「困ったな。私はお前が欲しいのだが」

「たとえこの身が魔族となろうとも、兵として生きることなどできません」

「なぜ?」


 なぜ、と問われても、答えはひとつしかない。


「嫌だから」

「ははは! 嫌だから、か! わかりやすくていいじゃないか」


「わたくしはメルダース帝国の皇后となるために生まれ、そのために身を尽くして参りました。死に、再びの生を授かったからといって、兵として生きていくなど、二度目の死を迎えても御免でございます」


 血に穢れたアーデルハイトに、もはや誇りなどないはずだ。けれど、受け入れられないことだってある。


「兵士が嫌なら、そうだな……」


 クリセルダ・ハッセルバムは笑う。アーデルハイトが青い薔薇ならば、この人は漆黒の薔薇のように、美しく。


「私の嫁になれ」

「ま、魔王サマ!? なにトチ狂ったこと言ってやがんだ!」


「狂ってなどいない。私は強くて美しい奴が好きなんだ。青い薔薇の女、私の嫁になれ」


 兵士の次は嫁ですか。


 犬男ではないが、この女、どこかおかしいのではないだろうか。暴れ出す危険のある死霊を問答無用で拉致したかと思えば、今度は求婚。

 過去にも死体しか愛せないという狂った殺人犯がいたが、この女もそういった類のものか。


「失礼ですが、わたくしはこれでも既婚だった身ですが……」

「お前はすでに以前のお前ではない。帝国の皇后だったお前は死んだ」


「魔王サマ!」


 黙れ、ウル! という静かな罵声と共に、放出された魔力の重圧がのし掛かった。

 小さな唸り声を挙げて、犬男が膝をつく。他にも半数の者が耐えきれずに、地べたに転がった。


 衝撃で落ちそうになった首をさりげなく手で押さえる。


「新たな生を受けたのだ。私の女として生きろ。お前が頷くまで殺してやらん。生きろ、私のそばで」


 生きろ、か。


 ノイラート侯爵家のために生きろ、国のために生きろ。そう言われて育ってきた。それと同時に、国のために死ねとも。


「結婚は……ご遠慮させて頂きたく……」


 魔王から放たれていた圧が霧散する。水牛男は両足で踏ん張っていたが、安堵したようなため息を漏らして肩の力を抜くのが見えた。

 頭に羽のある少女に至っては、真っ青になってガクガクと震えている。


「兵も嫌だ、嫁も嫌だというか。ならばどうする?」


 皇后だったアーデルハイトは死んだと、この人は言う。これは新たな生なのだと。

 アーデルハイトは国のために生きてきた。国のために多くの人間を殺してきた。それしか、生き方を知らなかったから。


 アーデルハイトは、国のために生きてきた。


「死することすら許されないというのなら……そうですね、役に、立ちましょう」

「はは! 言ってみろ」


 アーデルハイトは国のために生きてきた。その人生に悔いなどなかったはずだ。

 でも。あのとき。首を飛ばされるあの瞬間、アーデルハイトはたしかに、なにかを願った。


「皇位継承争い下位の皇子を皇帝へのし上げ、戦で勝ち、国を支えてきた実績があります」

「そのくせに首を切られ、あんなところに捨て置かれた、と? はは、滑稽だな」


 滑稽だろうか。そうかもしれない。

 家を愛し、国を愛し、マーティアスを愛した。その結果、死して魔族になるなど、他者から見れば滑稽なのかもしれない。


 ああ。けれど、もし二度目の人生があったとしても、アーデルハイトは同じように生きていくのだろう。それしか知らないのだもの。

 これはアーデルハイトの誇りだ。あの生き様は、この死に様はアーデルハイトの誇りだったのだ。たとえ悪女と罵られようとも。

 それしか知らず、それしか出来なかったアーデルハイトは、それを成し、生きたのだから。


「滑稽と笑いたくば、そうすれば良い……わたくしはアーデルハイト・ヘルミーナ・ラ・メルダース。メルダース帝国の皇后となるために生まれ、国のために死んだ女。たとえ民に後ろ指さされ、石を投げられ、貴族どもに嘲笑され、実弟に裏切られ……首を切られたとしても! わたくしを兵として使おうなどと烏滸がましい!」


 す、と首筋に冷たい刃があてられた。先ほどまで情けなく魔王の重圧に耐えていた水牛男の大剣だった。


「貴様、今すぐその魔力を引っ込めろ。たとえ魔王に気に入られたからと言って、この方にそれを向けることは許さん」

「ふふ。斬ってかまいませんよ。どうせ一度は落ちた首。そのような鈍、斬り落とされたところで痛くも痒くもございません。わたくしの首を落としたのは、人の身ほども重さのある刃ですもの」


 首筋に当たる冷たい刃に、アーデルハイトは微塵も恐怖を感じなかった。牛男からぶつけられた硬質な魔力すら、命の危険を感じない。

 それどころか少し可笑しくも思う。べつに牛男の行動に笑ったわけではない。自分の言葉を思い出して笑っただけのこと。


 役に立ちます、などと。意識せずに笑えたためしなど数えるほどしかないというのに、なんと可笑しい。

 生きろ、と。たったその一言だけで、アーデルハイトはその気になってしまった。アーデルハイトの愛はまだ終わっていなかった。


 それが可笑しくて、滑稽で、情けなくて、アーデルハイトは思わず笑ったのだ。


 数秒の沈黙ののち、それを破ったのは魔王の大きな笑い声だった。椅子が揺れるほど笑っている。


「くく、ははは! 良い女だなぁ……役に立つ、と言ったな。改めて聞こう。お前は何を為す」


 アーデルハイトは国のために生きた女。それしか知らない。なればこそ、二度目の生もそうして生きていく。


 ここが地獄でないのなら、また一歩、自ら地獄へ踏み出してやろう。

 あなたが生きろというのなら、今度はあなたの国で生きてやろう。


「すべてを。国のためならば、百の国を落としましょう。国のためならば、万の民を焼き払いましょう。国のためならば、この身を呪怨の炎に晒しましょう。この国のためならば……あなた様をも、殺してご覧にいれましょう」


「くふ、ふふ、ははははは! 良いだろう、やってみせよ! 痩せ細り、何もないこの地を、見事繁栄させてみせよ!」


 大陸西部の大帝国で、ひとりの悪女が死んだ。

 樹海の奥地にある魔族の国で、ひとりの側近が生まれた。


 アーデルハイトはそうして、ハッセルバムの魔王、クリセルダ・ハッセルバムの配下となった。


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