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 アーデルハイト・ヘルミーナ・ラ・メルダース。


 元はノイラート侯爵家の生まれである。ノイラート家の長子として生を受けたが、その身には家格にそぐわない程の神聖力を宿していた。それは教会から聖女保護の申し出があるほどの力であった。

 初めに話を持ちかけたのは権力に貪欲な父であったのか、それとも息子の出世を夢見る第三妃だったのか。アーデルハイトの知るところではない。

 アーデルハイトは下位侯爵家の生まれでしかなかったが、その身に宿す莫大な神聖力を買われ、当時第一皇子だったマーティアス・ノルベルト・ラ・メルダースの婚約者とされた。


 お前は皇后になるべくして生まれたのだ。故に必ず皇子の寵を受けよ。第一皇子を皇太子にするために尽力せよ。ノイラート家のために生きよ。そして国のために死ね。これはすべてお前のため。

 まだ言葉を覚える以前、幼児だった頃から、アーデルハイトはそう言われて育った。母にはハイジと愛称で呼ばれ、ほんの僅かばかりの愛情をもらったらしいが、弟が生まれると同時に死去したためにほとんど記憶にない。


 故に。アーデルハイトはもらえなかった愛情のかわりに父を愛した。

 アーデルハイトは唯一の弟を愛した。

 アーデルハイトはノイラート家を愛した。

 アーデルハイトはメルダース帝国を愛した。


 アーデルハイトは、マーティアス・ノルベルト・ラ・メルダースを愛した。


「国のために死ねて幸せですね」


 アーデルハイトが初めて人を殺したときに言った言葉だ。嘘偽りなく、本気でそう思っていたし、今でもそう思っている。我々貴族は国を生かすための装置となるべきである。

 最初に殺したのは第二皇子派の伯爵だった。彼はトカゲの尻尾切りで尾を切られたに過ぎないと分かっていたが、マーティアスを暗殺しようとしたのだから死んで当然であろう。殺す者は殺される覚悟を持たねばならない。たとえ自分は命じただけだとしても。十四歳。第一皇子妃となった年のことだった。


 マーティアスは四人いる皇子のなかでもっとも早く生まれた第一皇子であるが、母である第三妃は子爵家の次女であり、第二皇子や第三皇子と比べると些か弱い立場にある。

 第三妃はマーティアスを妊娠したことで妃まで位を上げた女だ。元は行儀見習いのために皇宮で侍女をしていたが、皇帝のお手つきとなり、運が良かったのか、悪かったのか、彼女は妊娠してしまった。

 だからこそマーティアスは第一皇子でありながら、まるで私生児のような扱いをされていたのである。


『氷結の青薔薇』


 アーデルハイトを最初にそう呼んだのは誰だったのか。けして良い意味ではないことくらい、初めて呼ばれたときから分かっていた。


 青薔薇とは、正しくは薔薇ではない。薔薇に似た棘のある美しい毒花。

 神聖力を注ぐことで成長する人工花であり、近くにある植物の生命力を根こそぎ奪うことで花を咲かせる。

 人の命を吸い取る美しくも冷たい花と、アーデルハイトはそう呼ばれていた。


 奪った命の数など覚えていない。


 この手で直接殺した者ばかりではない。アーデルハイトが命じたことで殺された者。書類にサインをしたことで殺された者。判のひとつで殺された者。間接的に死んでいった者を含めたら、おそらく万は下らないだろう。


 間諜として紛れ込んだ侍女、侍従、文官、兵士。全て拷問したあとに殺した。情報を吐けば情けをやると言って、素直に吐いた者は情けをかけて苦しまずに殺してやった。

 黒幕を暴き出すために囮となり、自らの手で暗殺者を殺したこともある。間諜の疑いがある文官を寝室に招き入れ、情報を搾取するために違法薬物を投与したこともある。アーデルハイトの美しさに誘われてノコノコとついて来るような馬鹿ばかりであった。


 疫病が蔓延した時は村ごと焼き払い、その村と商取引があった町村もまとめて焼いた。服や物からも、疫病の影は広まっていくのだ。


 センドアラ公国との戦争では、正面からぶつかる前に公国内の農村を潰した。農民兵を減らすことと、兵糧に打撃を与えるために。罪のない民を殺したことで多くの工作兵が心を病んでいったが、そもそも正面からぶつかることになれば農民だって徴兵される。遅かれ早かれ殺すことになるのだから、変わりないだろうに。

 大義名分のない悪辣な行い故、『アーデルハイト様ばんざい』と叫ばせるのも忘れなかった。マーティアスに悪名など必要ない。

 ヴァリ王国とその属国ケイマンは、偽装商人による噂を利用して両国の不和を招いた。ヴァリとケイマンがぶつかり弱体化したところを狙って蹂躙するのが目的である。ケイマンの独立派を味方につけたことで目論見はうまくいき、帝国はその領土を広げることになった。


 アーデルハイトが関わった当時の戦争に、マーティアスを指揮官として全てに同行させた。

 武を重んじる帝国にとって、戦争での勝利はもっとも大きな功績とされる。彼のために必要な手柄だったのだ。

 戦争中、同じく部隊指揮として同行していた第二皇子を戦地で殺せたのも良かった。皇后の息子など邪魔でしかない。


『殿下に帝国の勝利を捧げます』


 そう言ったマーティアスは嬉しそうに「そうか」と笑ってくれた。


 平民には知られていないことであるが、ホロホロ族に私掠船免状を与えたのもアーデルハイトだ。

 メルダース北部海域にあるホロホロ諸島。食人文化を持つ彼らを、大陸民たちは蛮族と呼び忌み嫌う。

 アーデルハイトにとっては、聖ツムシュテク教国の海軍を牽制するための便利な駒でしかない。ホロホロの海賊はツムシュテクの海軍船を適度に襲撃し、アーデルハイトから報酬を得る。

 皇帝となったマーティアスのために蛮族と手を結ぶことなどわけない。マーティアスが治める帝国は強大であればあるほど良い。そうすれば彼は喜んでくれたから。

 アーデルハイトが死んだ今、ホロホロ族の私掠船免状はどうなったことだろう。


 アーデルハイトの悪名はまだまだある。


 反乱組織の隠れ蓑となっていたロンド歌劇団を皆殺しにして、アーデルハイトの名とともに聖帝広場に晒してやった。他の反乱組織への大きな牽制にはなったが、ロンド歌劇団は帝都で絶大な人気を誇っていたため、民からの反発は大きかった。内乱になって死ぬよりもずっと良いと思うのだけど。

 なにより、マーティアスへの反乱など許されるわけがない。そんなもの死んで当然の存在であろう。


 すべて国のためにやった。


 戦後、センドアラ公国との国交回復のため、センドアラ産の宝石を大量に仕入れたのも。ヴァリ王国から大量の砂糖を仕入れたのも。聖ツムシュテク教国との関係維持のため、高価な布を仕入れたのも。

 帝国産の酒を高値で輸出し、それらの高級品を仕入れる。それを継続するために、率先して宝石を身につけ、新しいドレスを作らせたのも。甘い菓子ばかり食べたのも。

 武を好み、質実剛健を良しとする国柄のなかで、無理にでも流行を作り出すことは必須だった。


 すべて国のためにやった。

 すべて、マーティアスのためにやった。


 その結果、派手で贅沢なものを好み、税を搾取する悪の皇后と民に嫌われても。

 気に入らない者は簡単に殺す、男好きで残虐な悪女と貴族に後ろ指さされても。


 マーティアスのためになるのならそれだけで良かった。マーティアスの治めるメルダース帝国が繁栄するのなら、それだけで良かったのだ。



 マーティアスの第一皇妃。元平民のソアラ・エマ・オルトロープ公爵令嬢とその息子、ベルツ。ふたりの暗殺は結局失敗に終わってしまった。

 人生に悔いなどないけれど、それだけは無念だったと言える。


 だって、ベルツにはマーティアスの血が流れていないのだから。


 反皇帝派の外務省大臣バルデル伯爵。子息の名はコルネルス・クリストフ・バルデル。ベルツは彼の息子だ。

 マーティアスとソアラ、そしてコルネルスの三人は、聖帝学院生時代の学友であった。マーティアスとソアラは当時から恋仲であり、それは平民にさえ知られている事実。

 某男爵家の捨てられた私生児で、平民以下の孤児として育った少女。神聖力の多さを買われ公爵家の養子となり、第一皇子に見染められた。孤児から皇妃様という絵に描いたようなロマンスストーリーとして、平民たちに好まれている。


 ただ、学院に通うのは十五から十七歳の三年間。マーティアスとソアラが出会った時、アーデルハイトはすでに皇子妃だった。

 どんなにふたりが恋を燃やしても、彼女には皇后となる道は残されていなかった。


 しかし、話はそれで終わらない。ソアラはマーティアスの寵を受け、第一皇子を出産。めでたしめでたし、ではないのだ。

 当時学院に通っていた貴族であれば誰でも知っている、公然の秘密。ソアラはコルネルスとも恋仲にあった。マーティアスがそれを知ってなお許したのか、それとも本当に知らなかったのか。アーデルハイトには知る由もない。知る必要もない。

 卒院と同時にコルネルスとの仲も切れたら良かったのだが、ソアラはマーティアスの即位後、皇妃となったあともコルネルスとの逢瀬をやめられなかった。


 第一皇子、ベルツ・マーティアス・ラ・メルダースは、コルネルス・バルデルの子である。

 伯爵子息と男爵私生児の息子。家格だけでみれば低いかもしれないが、バルデル家には数代前に皇族の姫を迎え入れており、わずかでも皇家の血が混じっていることが問題だった。


 教会でのみ確認ができる神聖力の紋様。両親ともに神聖力を持つ子は神聖力を受け継ぎやすく、またその紋様には必ず両親の紋様も一部引き継がれる。ベルツの紋にあったのはソアラとコルネルスのものであり、マーティアスの紋はどこにも確認できなかった。

 関係者全員が神聖力を保持していて本当に良かったと思う。動かせない決定的な証拠になったのだから。

 バルデル伯爵が教会に圧をかけてベルツの紋様を隠蔽していたことが発覚し、アーデルハイトの知るところとなった。


 相手が誰であれマーティアスの子でないのは問題だが、なによりもバルデル伯爵家というのが頂けない。あの家は反皇帝派の代表であり、事実、反旗を翻すだけの理由と正当性を持つ。

 ベルツがコルネルスの子であるという事実をバルデル伯爵がなんらかの形で利用しようとしていたことは間違いない。隠蔽工作に抜け穴があったことがその証拠であろう。


 だからアーデルハイトはまずコルネルスを破滅に追い込んだ。違法薬物の使用と取引をでっち上げ、彼は父である伯爵によって追放処分となった。復讐のつもりか、アーデルハイトのいる皇后宮の目の前で自ら命を絶ったのには驚いたが。

 復讐すべきはアーデルハイトでなく、愛した女を攫っていったマーティアスだと思うのだけど。


 正直、ソアラは生きようが死のうがどちらでも構わなかった。しかし、皇妃の仕事もまともにできない金食い虫だ。殺しても良かろうとベルツと同時に屠ろうとしたのだが、結果は失敗。残念で仕方ない。


 たとえ暗殺計画が失敗に終わろうと、いつもであればアーデルハイトの犯行とは発覚しなかったはずだ。証拠だって残さなかった。


 まさか愛する弟に裏切られるとは。


 アーデルハイトの犯行として弟のシャロディナルが挙げた偽造証拠の数々は、すべて笑ってしまうほど杜撰な出来だった。けれど、まあ、アーデルハイトの死を願った者が多くいたのだろう。シャロディナルは賢い子だが、ひとりですべてこなすほどの力はない。反皇帝派の力を借りたであろうことは明白で、アーデルハイトにとってしてみれば愚かこの上ないことである。

 覆すこともできた。偽造証拠の捏造を理由に、弟を破滅に追いやることも難しくなかった。


 けれど。たった一言。


 皇族用の牢の中。共を連れたマーティアスが鉄格子越しに言ったから。

 ひと言、ひと言、言い聞かせるようにゆっくりと、彼が言ったから。


「ソアラに嫉妬でもしたか。お前はやり過ぎた。潮時だ……アーデルハイト。もう良い、死ね」


 愛する皇帝が望み、愛する弟がアーデルハイトの死を望んだから。役目が終わったのだと、そう思った。




「アーデルハイト・ヘルミーナ・ラ・メルダース、元皇后。以上により国家反逆罪とし、只今より斬首刑を執り行う。皆の者、鎮まれ」


 皇帝、マーティアスの言葉で罵詈雑言を口にしていた民衆が一様に黙った。衣ずれのなかに、さわさわと囁き声が混じる。

 稀代の悪女。血の皇后。悪魔から生まれた女。魔族の皮を被った卑しき簒奪者。


 氷結の青薔薇。


 黒い貫頭衣を着せられ、手首は後ろ手に縛られ、足には鉄球のついた足枷。手入れを欠かさなかったプラチナブロンドの髪は、先程無造作に切られてしまった。剥き出しになった首に風があたり、ひどく心細い気持ちになる。


 残り僅かの命。あの大きな刃が、この心許ない首を落とすのだ。


「罪人、アーデルハイトよ。長年、よくもまあこの大帝国で好き勝手やってくれたな。妻としての情により、非情になりきれなかった私にも罪がある。忠実なる臣下、そして臣民。アーデルハイトに代わり、今までの悪行を私が詫びよう」


 申し訳なかった。


 その言葉に貴族や民が大きくざわめいた。

 皇帝ともあろう者が頭を下げるとは。この罪人はそれほどのことをしでかしてきたのだ。ようやく帝国に巣食う悪女が死ぬ。この悪魔め、罪人め、化け物め。

 そんな言葉が、小さく、だんだんと大きく、うねりとなってアーデルハイトの耳に飛び込んでくる。


「アーデルハイトよ」


 また民衆が静まり返る。

 燃えるような赤い髪。エメラルドグリーンの瞳がアーデルハイトを見ている。


「最期に、なにか言い残すことはあるか」


 ああ、空が青い。空が青いのは、天との境目に漂う分厚い神聖力の層があるから、だっけ。馬鹿馬鹿しい。


 すべて国のためにやった。


「陛下」


 すべて、マーティアスのためにやった。


「わたくしは帝国を愛し、陛下を愛してまいりました。けれど」


 アーデルハイトはたしかに、マーティアス・ノルベルト・ラ・メルダースを愛した。

 最期に見るものが、あなたの宝石のような瞳であることを嬉しく思います。


 いざ死のうというこの瞬間、メルダース帝国が大陸西部でもっとも強大な大国であることを。その歴史のさなかに散れることを、幸福に思います。


 けれど、ただひとつ無念に思う。

 ちらりと、マーティアスの横に立つソアラと、その腕に抱かれたベルツを見る。なんて卑しい笑みを浮かべる女だろうか。


 ああ。殺せなかったことだけが、唯一の無念だ。


 マーティアスが悪女としてのアーデルハイトの死を望むならば、そう、最期までアーデルハイトは悪女でいなければならない。


「あなたの息子を詐称する子どもと、その卑しい女を殺せず、無念でした」


 エメラルドグリーンのなかに渦巻く群青色がぶわりと広がって、マーティアスの圧がのし掛かる。


「貴様ッ……!」


 ぎりりと歯を食いしばったのち、ふと神聖力の圧が霧散した。皇帝はどんなときでも冷静に。良くできました。


「もう良い。罪人、アーデルハイト・ヘルミーナ・ラ・メルダースの死刑を実行する!」


 そう、それで良い。


 マーティアスが執行人へ頷いたと同時、背中を蹴られて無様に転がった。強かに打ちつけた膝と顎が痛い。

 短くなった髪をぐいと引っ張られ、斬首台に頭を乗せられた。何人もの死刑囚を殺してきたギロチン。木製の斬首台には幾人もの血が染み込み、真っ黒に染まっている。生臭い鉄の臭いにえずきそうになってしまった。


 それでも、アーデルハイトは視線をあげた。これから自分を殺す男の、その瞳をただ射抜く。マーティアスは醜く笑っていた。

 悔いなどあるまい。殺す者は殺される覚悟を持たねばならないのだから。


 この身は青い薔薇。人の命を吸い上げて咲く、青い薔薇。


 メルダース帝国のために咲き、メルダース帝国のために散る女。

 これでいい。


 はずなのに。

 嗚呼、どうして。なぜ。わたくしは。



 真っ赤な血飛沫をあげて飛んだ首は冷たくも美しい笑みを浮かべ、そうしてポトリと落ちたのだった。



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