青い薔薇の愛の証明
うちたくみ
1
全身に言いようのないだるさを感じて、意識がぼんやりと浮上していく。
木の匂い。湿った土の匂い。甘ったるい、それでいて尖ったような花の匂い。まるで花畑にいるかのような気分だ。
柔らかな風が頬を撫で、それと同時に葉が揺れる音が聞こえる。体の怠さに気分は悪いが、自然に囲まれた五感は爽やかで悪くない。
薄っすらと目を開けたが、予想と反して日差しが目を刺すことはなかった。
ぼやけた視界の向こうに誰かがいる。起こしに来た侍女か。それとも暗殺者か。否、殺意は感じないから、それはない。
誰かがアーデルハイトの顔を覗き込みながら何かを言った。
ふと、思い出した。
アーデルハイトは死んだはずだ。腰ほどまであった髪を無造作に切られ、手首を後ろ手に縛られ、逃げられぬよう足首に枷を嵌められ、執行人に背を押された。
そうだ。無様に転がったアーデルハイトは、醜く笑うあの人に最期の一言を話す情けを頂いたのだ。
アーデルハイトの言葉にあの人は憤慨し、そのまま斬首の執行を命じたはず。
アーデルハイトは最期まで目を開けて、あの人の目を見つめていた。まるでペリドットのようなグリーンの瞳。その中に渦巻く、群青色の神聖力。
ギロチンの刃は皮一枚残すことなく、アーデルハイトの首を刎ねた。
衝撃で勢いよく飛んだ首は、ほんの一瞬だけ青い空をうつし、そうして地面に転がった。アーデルハイトは覚えている。民衆の大歓声の中で首が飛び、意識が消えるときまで、あの人の目を見つめていたことを。死刑の執行を知らせる鐘が、まるで祝福のように高らかと鳴っていたことを。
人間というのは首を刎ねられたあとも、ほんのしばらくだけ意識が残るらしい。死んでから、そんなどうでもいい知識を得た。
ぼやけていた視界が次第に回復してくる。
どうやら随分と美しい女である。その人の肩越しに、禍々しさすら感じるほど生い茂った緑が見えた。
ここは死後の世界か。なるほど。アーデルハイトは地獄へ落ちたのか。天国のわけがない。アーデルハイトの死後、その魂を天国に運んでくださるほど、神は慈悲深くはなかろう。
アーデルハイトは地獄へ堕ちるべき存在なのだから。
ああ、でも。ようやく。ようやく終わったと思ったのに。これでもう終わりにできると思ったのに。
神よ。これが罰だというのなら、それはたしかに酷く耐え難い。簡単には終わらせてくれない。
黒く艶やかな長い髪に、銀色の瞳。赤い唇の端を上げて、美しい人は問うた。
このお方は死神か。神とはかくも美しいものなのか。視界が金色の靄で滲む。
「生きたいか?」
———生きたいわけがない。もう疲れました。
その人はもう一度問うた。
「生きたいか?」
———生きたいかわけがない。もう終わりにしたいのです。
美しい人はなにやら楽しげに笑うと、そうか、と頷いた。さらりと流れた黒い髪が、アーデルハイトの頬を撫ぜる。そのくすぐったさに、自らの命が繋がっていることを強く実感してしまった。
眠りたい。考える事をやめたい。死ねと言われたから死んだのに。
「そうか、生きたいか。ならば、私の元に来るといい」
立ち上がり様に、その人はアーデルハイトの体を抱え上げた。料理人たちが小麦粉の大袋を抱えるように、アーデルハイトの体を肩に乗せて歩き出す。
ここは森の中なのか。どおりで草や土の匂いがするわけだ。ならば、花の匂いは。
ああ。と、アーデルハイトは胸の中で頷いた。
棺のまま迷いの森に捨てられたのか。死刑囚は無縁墓地にすら入れてもらえない。魔物の餌がお似合いだと、わざわざ帝都から遠く離れた樹海まで運ばれるのだ。
アーデルハイトはこれでも皇后であった。黒い棺とそこに敷き詰められた青い薔薇は、なけなしの尊重する気持ちなのだろう。
死したのちには首を晒されるものとばかり思っていた。これはあの人の愛だろうか。きっとそうだ。屍を晒すことなく棺に置いてくれたのだから。
生きたいなどと言っていない。そう伝えようにも声が出ない。せめてもの抵抗に、棺に手を伸ばした。だってそれは、あの人の愛でしょう?
死にたかった。アーデルハイトは死にたかったのに。首を刎ねられ、死んだはずだったのに。
棺に戻りたい。ここが地獄でないというのなら、今度こそ棺の中で眠るように死んでしまいたい。
「ああ。デュラハンは棺が好きだものな。これも持っていってやろう」
デュラハン? なにを……
その人がパチンと指を鳴らすとふわりと黒い棺が宙に浮き、まるで意思を持つかのように後ろをついてくる。
その人が歩を進めるたびに視界が揺れる。腹部にあたる、美しい人の肩。
おかしい。なぜ。どうして首が……
「まだ魔力が定着しきっていない。城につくまで眠っていて良いぞ」
苔むした根を跨ぐたび、積もった柔らかな土を踏みしめるたび、倒木を乗り越えるたび、ぐらんぐらんと視界が揺れる。首が揺れる。
「美しきデュラハンとは……良い拾い物をしたな」
揺れる世界に思考が途切れる。ひとつわかるのは、そのひとの中性的な声がとても心地よいことだけ。
眠って良いというのなら眠ってしまおう。これは魂が消える最期の夢なのだと、もう二度と目が覚めないことを信じて、眠ってしまおう。
瞼を閉じた瞬間、がくんと視界が飛んだ。見えたのは、すらりと伸びた美しい立ち姿と、うねるように生い茂る木々。
「あっ……」
首が落ちた。
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