第9話 追憶のかけら

『柊 冬香』


 名前を書き終える。

すると、冷たくてドロドロとしたナニカに背中を撫でられた気がして、全身が粟立つのがわかった。反射的に体を丸めてしまう。

 それでも店主は気にも留めない様子で、構わず懐からなにかを取り出した。

よく見ると、純白の絹に包まれた小さな針のようだ。


「血判にはこちらをご利用ください。無菌処理された薬用の針でございます」


 彼女は清潔さをアピールしているが、正直そこはどうでもいい。

先ほどの気持ち悪さが背中にへばりついて、いまだ離れないのだ。

けれど、もうすでに引き返す選択肢はない。

これで判を押せば『私の母』がこの目で見られるから。


 どうしようもないほど高揚しているのがわかる。いまなら空も飛べるだろう。私は針を受け取って、その先端を親指に突き刺した。

 ピリッとした痛みで指が微かに震える。

見ると、濃いルビーのような赤黒い血が膨れ上がっていくのがわかった。


 これを押し付けたら、きっともう戻れないだろう。

フィルム屋に入る直前に感じたあの根拠のない確信が、私のあと一歩をせき止める。

 呼吸がうるさい。


すうっと息を整えて、覚悟を決めて指を押し付けた。

 刹那、私の脳裏には、走馬灯に似た記憶の追想が流れ出した。誰にもとめられない、河の濁流のように。


 私は光の中で、顔の見えない髪の長い女性に抱かれていた。

その腕はただひたすらに優しくて、泣き出したくなるほどに温かかった。

彼女の腕のなかは体の芯が痺れるほどに心地が良くて、つい眠りそうになる。

そのままおでこにキスをされて、私は笑った。

 何かにぐんと引っ張られて、映像が変わる。


 私はベッドの上で泣いている。白い天井を見て泣いている。

全身を襲う恐怖に、ただ泣くしかできなかったのだ。

漠然と、何か大切なものを失う気がしてならなかった。

けれど、視界の横から伸びてきた手に頬を撫でられた。その瞬間、身を支配する恐怖がなくなった。

私は泣き止んだ。同時に、代わりにと言わんばかりに機械音が劈いた。

全てを覆い隠して、奪い去るように。

 また場面が変わる。


 ここは……。六年間通った小学校だろうか。

初めての運動会で、不安と期待が入り乱れている。

私は、恥ずかしいほどに浮足立っていた。

 かけっこが始まる。

先生が腕を上にあげて数舜。

「よーい、どん!」という掛け声とともに、何かが破裂するような乾いた音がした。

同時に、視界が地面で埋め尽くされた。

 また場面が変わるようだ。


 これは、告白している?

なら最近のことだから、高校二年生だろう。

初めて好きになった部活の先輩に告白したのだ。緊張で声が上ずりそうになるのを必死で耐えながら。

私の精一杯で想いを伝えた。けれど、結果は惨敗だった。

どうやら、先輩には彼女がいるらしいのだ。

その日の夜は、人生で一番泣いた。ベッドの上で枕をびちゃびちゃに濡らして、疲れてそのまま眠ったんだ。

朝、目が開かなくて焦ったのは記憶に新しい。


 次にぐんと引っ張られると、私はカフェにいた。

辺りを見回すと、先ほどと何一つ変わらない景色が広がっている。

 ただ、店主がにこにこ笑いながら「血判、終わりました?」と近づいてきた。


 いまのは、いったい……?

あれは確実に私の記憶だった。母の温かさも、おでこに触れた唇も、包み抱かれた腕の優しさも、全てが本物だったのだ。


「あの、いまのは……?」

「いまのって? なんの話ですか?」

店主は顎に手を当てて、はて? と首をかしげた。

「ああ、いえ。大丈夫です……」


 あれがなんだったかはわからない。けれど、契約は完了したのだ。

一秒でも早く、あの光景がもう一度見たい。


 急かすように店主の顔を見る。

すると、彼女はもう一度微笑んで頷いた。


「それでは、準備をしてくるので少しだけ待っていてくださいね!」

そう残して、意気揚々とカウンターの隣にある扉へと歩きだした。

 その背中はさっきよりも溌剌としていて、心底楽しそうだ。


 安心と同時に、罪悪感が立ち上る。

「あ、あの! さっきは怒鳴ってすみませんでした。私、店主さんに当たっちゃって……」

 彼女は一度振り返り「大丈夫ですよ。私も少しからかいすぎてしまいました。ごめんなさい」と言って、今度こそ扉の奥へ去っていった。


 ふう。と少しの息をはいて、背もたれに体重を預ける。

机に置かれたままのカフェラテを両手で包み込むと、生温い陶器のカップが手のひらを温めてくれた。

 カップを持ち上げて、口をつける。

丁度いいよりは少し冷たい、それでも飲みやすくてどこか優しいカフェラテが舌の上を転がって、するすると喉の奥へと滑り込んでいった。

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