第8話 クオリア

「ここが、あの、フィルム屋……?」

「ええ、貴女が探し求めたフィルム屋でございます」


 私のなかで形成された都市伝説像が、崩れ去る音がした。

都市伝説なんてのはただのうわさで、ただの娯楽で、存在も出所もあやふやな幻想。だったはずだ。

 それがいま、目の前にいるなんて……。


 立ち尽くす私とは裏腹に、心臓は躍る。

鼓動が強く打つたびに、非現実的な夢が輪郭を作る。

 五秒ほどたつと、淡い願望は叶えられる目標に変わっていた。


「あの、あの! 記憶を覚えていなくても、フィルムに変えられますか……? 例えば、その、幼少期の、記憶とか……」

言葉を連ねるほどに、声は弱々しくしぼんでいく。

 覚えていなければフィルムに出来ないとしたら、わたしは……。

「ええ、もちろん。とりあえず、座ってお話ししましょう?」


 店主の言葉を聞いて、一命をとりとめたかのような安心感に包まれる。

そのまま素直に元の席へと戻って、そわそわと彼女の言葉を待った。


 ああ、ついに長年の夢が叶う。

私は母の顔を見たのだろうか。私は愛されていたのだろうか。

どんな言葉をかけられていたのだろうか。


 ふわふわと夢心地な私に、店主はパンッと手を合わせてニンマリ笑う。


「まずは契約からしましょうか!」

「契約……?」


 明るく柔らかい声で形つくられた、硬く冷たい言葉。

おもわずぎょっとして、少し腰が引けてしまう。

 けれど、たしかにフィルム屋はフィルム『屋』なのだ。

それ相応の対価を求められるのは道理だ。

 半ばあきらめたように、力なく財布のなかを確認する。

そのなかはやっぱり記憶通りで、樋口一葉が独りで寂しそうにしているだけだった。


 五千円じゃあ無理だよね……。


 記憶をフィルムにする、なんて魔法のような技術が安いわけがない。

けれど、まけてくれ。なんて口が裂けても言えない。

手が届くほど近くに。いま目の前に、夢を叶える機会があるのに。


 天から差し伸べられた一本の蜘蛛の糸を掴んだ気でいた。

それでも、それは幻だったようだ。

 耐えようと踏ん張っても、視界がぼやけて仕方がない。

そんな私に、店主はとびきり優しい声で、寄り添うように言葉をかけてくれた。


「まずはこちらの契約書を確認して、記入をお願いしますね。

ああ、それと。お代は記憶に関するエピソードをいただきます。

だからそんな泣きそうな顔をしないでくださいな」

「エピソード……」


 お代は、エピソードを話すだけ。つまり、お金は必要ない。


「よかったぁ……」


 魂も抜けてしまいそうなほどに力の抜けた声が漏れる。

地を這うように重苦しいそれと一緒に、視線は契約書へと落ちていった。


『ようこそ、フィルム屋へ!


ここではあなたが持つ記憶をフィルムに現像して、もう一度ご覧いただけます。

あなただけの大切な思い出を、もう一度振り返りましょう!


現像するにあたって以下の注意点をご確認の上、署名をお願いいたします。


一:現像された記憶は、一度目を通していただいたのちに当店で厳重に保管させていただきます。なお、保管期間中はご本人様以外の閲覧をご遠慮いただいております。ご了承ください。


二:現像された元の記憶は、お客様の脳から完全に抹消されます。


三:現像の代金として、その記憶にまつわる質問に必ずお答えいただきます。その他(現金等)ではお支払いいただけませんので、ご了承ください。


四:この契約を証するため、ご自身の署名と血判をお願いしております。なお、ご記入と血判が済んだ時点で、契約が成立したものとして扱わせていただきますので、ご了承ください。


氏 名:              □』


 記憶が消される。その言葉に、言い知れぬ忌避感が湧いてくる。

けれど、よくよく考えれば有って無いような記憶なのだと思い出し、問題はないのだと気が付いた。

 次に湧いてきた疑問を店主に問いかける。


「保管……というと、何回も見られるということですか?」

「ええ、未成年のお客様は『記憶の売買』ができないので、将来売らない限りは何度でもご覧いただけます」

「記憶を、売れる……?」

「ええ。まあ、成人なさってから気になるようでしたらまた教えてくださいな。そんなことよりも、さっさと契約しちゃいましょうよ!」


 先ほどから、店主がやけに興奮しているのが気にはなるけれど、いまはそんなことどうでもいい。

 私は、渡された羽ペンを手に取り、署名した。

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